32.居場所
その日。
結局、ラルフが帰ってきた午後七時過ぎまで、ソファに座り込んでいた。
我ながらこの状態に呆れるが、一向に何かをする気力が湧かず。
ただ、すぐにでも出ていかれる様、身支度は整えていた。
血で汚れたTシャツ、ジーンズの代わりに、新しい服をラルフが用意してくれてあり。
ブルーのストライプの入った厚手のカットソーに、ダークネイビーのパイルパーカー。軽いダメージの入ったジーンズ。それらが着替えとして置かれていた。
何処で揃えたのか、ジーンズ以外、きちんとサイズが合っている。
「あれ? ずっとそこにいたの?」
帰って来たラルフが、リビングのドアを開け入って来た。肩にかけていたディパックを近くのイスに放る。
「別に…いいだろ?」
「まあ、ね」
ラルフはそのままキッチンヘと向かい、冷蔵庫から水を取り出しコップへ注ぐと、ひと息に飲み干す。
「はぁ、疲れた…。って、その服、サイズが合って良かった」
「…ありがとう。助かった」
「それ、弟が置いてった奴。本人も忘れてたんだと思うけど。他にも何着かあるんだ。全部大和君が着ていいよ。ジーンズはさすがに裾上げしないとダメだけど、後はぴったりだね」
「そうか弟の…。俺が──着てもいいのか?」
俺にぴったりと言うことは平均より小柄な人物だったのだろう。
確かにブルーのストライプのカットソーはラルフには似合いそうにない。サイズも違うだろう。
かといって、捨てる事も出来ず、思い出の代わりに取っておいたのだろうか。そう思うと申し訳なくなったが。
「別に。だって、ただの服だもの。僕だってあったのなんて忘れていたくらい。──それより、なんだか、かなりやられてるようだけど…。まるで前とは別人だね?」
「……」
俺は沈黙する。
「…そう言えば、昨日、大和くんがいた河原の側の工場跡地で人が刺されたって、ニュースでやってたよ? 見た?」
「つけてない…」
「半グレグループ同士のケンカらしいって。──昨日は聞かなかったけど、どうしてあそこにいたの? 手、血がついてたよね?」
俺はむっとして。
「遠回しに聞くなよ。俺は──その場にいた。けど…、やったのは俺じゃない…」
「へぇ…。やっぱり当事者なんだ。ニュースでは刺された奴は意識不明の重体、犯人は逃走中って事だったけど。…ここにいたんだ」
「俺はやってない!」
つい、声を荒げてしまった。俺は気持ちを落ち着ける為、大きく息を吐き出すと。
「…うちでハウスキーパーしてくれてる奴が拉致されて…。助けに行ったら不良連中に言いがかりをつけられて、絡まれたんだ。でも全部、やっつけて。その途中、薬を嗅がされて、意識なくして…。刺された柳木って奴と話してる最中だった。気がついたら、ナイフが転がってて…」
思い出して、ゾクリと身体が震えた。
どうやら俺は刺された事件がトラウマになっているらしい。当時を思い出すと、恐怖に襲われ、身体に緊張が走り硬直してしまう。
「へぇ…」
ラルフは興味を持ったのか、キッチンのテーブルに腰を預け、聞く体勢になる。
「どうしてそんなことに?」
「…分からない」
本当に分からないのだ。
あるとしたら、誰かに恨まれて──だろうけれど、思い当たる節はなく。真琴か岳の線だとしたら、尚更分からない。
ただ、犯人は嫌がらせをしたいという事だけは確かだろう。
「きっと、恨みを買ったんだろうね? 自分の行為が知らぬ間に人を傷つける事もある──。大和くんが恨みを買う様な行動をしていないのなら、岳さんじゃないの? あの人、買いそうじゃない」
笑ったラルフをチラリと見て、また視線を戻す。こいつも弟の件で、岳を恨んでいた口だ。
「…わかんねぇ。けど、きっと逆恨みだ。それに、こんなやり方はフェアじゃない。騙して人を陥れて、例え被害を受けていたとしても、正しいやり方じゃない…」
すると、ラルフは鼻先で笑い、腕を組むと。
「正しいやり方、ね…。法の裁きを受けるようなものじゃない場合、どうしたら正しいんだろうね」
「…それは、分からない。けど、いい行為も悪い行為も、やった事の結果は、いつか自分に返って来る…。相手を陥れる行為は正しくない。それは──自分も落すだけだ」
ラルフは顎に手をあて思案顔になると。
「けっこう、まともなんだ。大和くん。ただのヤンキー崩れかと思ってたよ。自分を落す、ね…」
「ラルフ。もし、俺が警察から追われる様な事になったら、ここにいると迷惑になる。今日にでも出て行く。それを言いたくて待ってた。少しの間だけど、置いてくれてありがとう。助かった…。服はできれば貸して欲しい。いつか返すから──」
そう言ってソファから立ち上がると、ラルフは驚いた様に引き留める、
「って、もう夜だよ? 行き場もないし、お金もないでしょ?」
「…何とかなる」
あてなどない。だが、ここにいてはいけないことは確かだ。しかし、ラルフは引かず。
「取りあえず、ここにいなよ。まさか君がここに僕といるなんて、誰も思わない。それに、まだ警察に追われているって決まった訳じゃないんだし…。落ち着いて状況が分かるまでは。ね?」
「けど、そうなってからじゃ遅いだろ? 何もない内に出てった方がいい…」
俺だってバカじゃない。知っていて匿っていたら、それなりに罪になるだろう。が、ラルフはなおも言いつのった。
「このまま出ていったって、行く当てはないんでしょ? 食べ物だって寝る場所だってないんだし…。お金を貸したっていいけど、すぐに底をつくよ? それくらいならここにいればいい。警察の動きは分からないけど、僕は、ぜんぜん構わないよ」
「…でも」
「知り合いにそっちに顔の効く奴がいるんだ。明日にでもそれとなく情報聞いてみるよ。それから決めても遅くない。それに…弟の服を着た君を外に放りだす気にはなれない…。って着せたのは僕だけどね」
「…ラルフ」
「兎に角、今はここにいよう。ね?」
ラルフはそう言うと、さて、と腰を上げ。
「流石にお腹空いたでしょ? お腹が空くとろくな考えにならない。パスタで良ければ出せるけど?」
「…俺が、作る」
俺は重い腰をようやく上げた。
「君が? できるの?」
「キャベツとニンニク、鷹の爪はある?」
「あるけど…。出来ればニンニクは少しにしてくれる? 明日、撮影でひとと会うからさ」
「わかった。今回は入れない」
俺は頷くと、手早くキャベツのペペロンチーノを作る。
乾麺のパスタをゆでている間に、キャベツを荒く適当に切る。それを鷹の爪とともにフライパンでオイルと共に軽く炒め、ニンニクは入れずに、代わりに黒コショウを多めに加えた。
そこにゆで上がったパスタと、ゆで汁を少し足す。顆粒のスープの素も加え、暫くゆすれば出来上がり。
風味は少し異なるが、それでも行けるだろう。傍らで白ワイン片手に見ていたラルフは感嘆の声をあげる。
「凄いね。あっという間だ。いい匂い…」
「久しぶりだから、上手く行ったか分からないけど。…何時までいるか分からないけど、ここにいさせてくれる間は作る」
「本当? なら、ここで食べる日は連絡いれるようにするよ。助かるな。できれば、脂質は抑え気味で頼んでも?」
「わかった…」
「やっぱり、ただのヤンキー崩れじゃないね?」
ラルフは笑うと、俺とともに食卓に着いた。
何かを口にするのは二日ぶりだろうか。
久しぶりに作ったそれは、岳との日々を思い出させ、涙を堪えるのに必死だった。
+++
その後、一週間、大和の行方はようとして知れなかった。
が、工場跡地での傷害事件で、無職の男が逮捕された。刺された男とは敵対するグループに属する半グレの男で、警察に名乗り出たとのことだった。
「やはり、大和じゃなかったか…」
自宅の部屋で岳は独りごちる。
だが、大和の事を口にしなかったのが気になった。それに、罪を着せようとしたのに名乗り出るとは。
一方、刺された男の方も意識を取り戻し、その男が犯人だと認めたらしい。
こちらも大和のことは何も口にしなかったようだ。知らないはずがないと言うのに。
柳木は大和にのされたのだ。その後、大和がどうしてそんな状況に出くわしたのか、知っている可能性は高い。
岳としては有り難かったが、何も口にしなかったと言うことは、何かあると考えた方がいい。
何の為にあんな手の込んだ事をしたのか。
謎は深まるばかりだ。
それらの情報は、全て楠を通じて磯谷からもたらされたものだった。楠から磯谷に話が行き、直ぐに動いてくれたらしい。
磯谷は二度と岳達に手を出させないと言った手前、今回の件を看過するわけにはいかなかった。身内のものが絡んでいる可能性があったからだ。
すぐに内密に知人である警察関係者に連絡し、情報を得てくれた。
二人とも真実を話していない。誰かに指示されて、そう答えているように思えてならなかった。
やはり、仕組まれた事か。
藤が調べたところによると、柳木はその地域の半グレのリーダーで、近頃、シマを荒らす連中にかなり頭に来ていたと言う事だった。
藤とは互いの仕事が一段落したあと、藤行きつけのバーで落ち合う。ジャズの流れる落ち着いた雰囲気の店だった。奥まったカウンター席で、肩を並べる。
「当日、仲間の一人に漏らした所によると、例の工場跡地に、シマを荒らしているグループのリーダーがいると情報が入ったようで…」
「そこに、大和と七生がいたってことか…」
七生の話によれば、誘拐され、気が付けばあの跡地にいたのだと言う。
暫くして大和が助けにきてくれたが、その後、すぐに柳木が仲間を伴って現れ。大和は彼らから逃れるため、七生を潜ませ、自分は囮になって逃げた。
藤の調べでは、大和は一人で柳木らと対峙し、連中をすべてのしたらいい。
当時、その闘争に加わっていた者たちがそう証言した。自分たちをのしたのは大和だと。写真を見せれば皆、頷いたとのことだった。
「皆、大和にやられた所までは覚えていますが、意識を失っていた為、柳木を刺した相手は見なかったと言っていました。それに…今回逮捕された男は、当日その場にいなかったようなんです」
「それは──本当か?」
「そいつがよく利用するバーの店員は、刺したと自首した男が、当日、店にいたはずだと漏らしていました。店主は見なかったと口にしましたが…」
「誰かの指図で口裏を合わせたのか…。大方、刺したのも、自首した男じゃなさそうだな」
だが、何の為に。
柳木を刺した人物は、事がバレれば不都合があるからと、罪を他の者にかぶせたのだろう。大和に被せたはずの罪も帳消しにして。
目的は大和を犯人に仕立てる事ではないのか。
まるで、岳達に見せつける為だけに仕組まれた事のよう。
血溜まりの中、倒れた人。血まみれの大和の身体──。
大和が河原に倒れていたあの時を再現したようで。大和があの状況に動揺したのは事実。逃げ出した要因のひとつでもある──。
大和の過去の事件を、知っている?
そうでなければ、こんな手の込んだ事をするはずがない。大和を捕えるだけなら、七生を人質にした時点で、自由は奪えたはず。
すべては仕組まれた事。
なぜ、そんなマネをしたのか──。
楠にも尋ねたが、情報は藤とあらかた同じだった。ただ柳木らを仕切っている奴の名前が分かった。久我隆一という男だ。
楠とは付き合いのある組の若衆だが、元古山の配下のものだと言う。古山とは、岳が鷗澤組にいた頃、世話になった人物だ。
色々あって、今は組をたたみ、磯谷のもとにいる。
古山の元部下──か。
かなり変質的で、常識の通用しない男と言う話だ。沸点が何処にあるかわからず、扱い辛い男なのだとか。
外見は優男風だが、古山子飼いの部下らしく、かなり腕が立ち喧嘩慣れしているとの事だった。
今回、部下でもある柳木がやられた事で、殺気立っているのではと思われたが、当人は何事もなかった様に大人しくしているらしい。
「あとひとつ、その久我の噂を聞きましたが。耳に入れるほどではない気もしますが…」
「なんだ?」
「その…、やたら綺麗な女を連れて歩いているようなんです。外国人のようなんですが、かなりの入れ込みようで。ここ最近は女のマンションに入り浸っているようです。柳木達も送迎の際に駆り出されていた様で…」
「噂になるほどなのか?」
「はい。見たものが言うには、かなりの容姿で、ひと目見れば忘れられない程だとか…」
「ヤクザの女にしては、珍しいってことか…」
「もう少し、探って見ますか?」
「そうだな…。女の件は別にしても、久我という男の行動は気になる。柳木の件も無関係ではないだろう。危険な男らしい。くれぐれも無茶はするなよ?」
「わかりました」
そこで、岳は小さく息をつくと、苦笑を浮かべて。
「済まないな…。お前も堅気だって言うのに、こんな時ばかり駆り出してしまって」
「いえ。個人的にも、大和の件には関わりたいですから」
「そうか…。そうだったな」
岳は思案するように藤をみやったあと、
「今は、俺よりお前の方が、大和も心を許すだろう。…見つけたら、頼んだ」
岳のどこか気落ちした様子に気づいたようだが、そこには触れず、
「はい…」
そうとだけ返した。
+++
ラルフの元に身を寄せて一週間。
俺は朝から山ほどサンドイッチを作っていた。食欲はあれからもたいして湧かなかったのだが、作るのは楽しい。
というか、何も考えずに没頭できるからだ。他にすることもない。気を緩めれば、岳たちの事を考えてしまう。
それを防ぐために、食べる相手がろくにいないと言うのに気が付けば大量のサンドイッチが皿の上に積み上がっていて。
鳥ハムサンドに、玉ねぎ入りツナサンド。バナナとピーナッツバターサンドに、ジャムとチーズクリームサンド。全部サンドしてやった。やけくそだ。
思いつくまま作っていれば、山の様に積み上がっていた。
誰が食べるんだろう。
仕方なし、その一切れを手に、テラスに出た。
最上階に近い部屋で、眺めはすこぶるいい。天気は上々。けれど、気持ちは下降の一途をたどっている。
流石にこのままではいけない。
そう思っていれば、その日の夜。
ようやくラルフの友人から情報が入った。
ラルフは山と積まれたサンドイッチに、一人では食べ切れないと流石に辟易する。
ラルフからもたらされた情報は、俺にとって朗報になるはずだったのだが。
ラルフはピーナッツバナナサンドを食べ終えると、人差し指についたクリームをひと舐めし。
「そう。知人が教えてくれた。やったのは刺された男と敵対するグループの男だって。刺された方も回復したらしい。そいつが刺したって認めたって。君の事は何も言わなかったらしいよ。つまり、無実だったってこと」
「…無実」
俺はやってはいない。なら──。
これで、帰れる?
けれど、どうして俺にあんなマネをしたのだろう。まるで罪をかぶせるように。
自首するならあんな事をしなくても──。
俺は困惑した。
「とにかく、良かったね。君じゃなかった。これで、晴れて戻れるんじゃない?」
「うん。だな…」
理由は分からないが、それなら帰ることができる。気にはなるが、これなら岳たちに迷惑をかけることはない。
と、ラルフは思案気な顔になって。
「でも──、また同じことが起こるかも…」
ラルフの言葉に、えっと顔を上げる。
「同じこと?」
「そう…。今回、君は嵌められた。理由は分からない。でも結果無事に無実になって──。これって、今回は許したけど、次はないって脅しじゃない?」
「脅し…?」
「理由は分からないけど、相手は嫌がらせをしたかったのは事実でしょ? 無傷で終わるっておかしいもの。次はもっと酷い事が起こるんじゃないの?」
「そんな──」
わけ、あるかも知れない。
こんな面倒な手を考えた奴が、ただで終わらすはずがない。
「……」
俺はぎゅっと拳を作り握りしめた。
もっと、酷い目に──。
今回、俺自身に容疑がかかることはなかった。それはラルフの言う通り、脅しだったのかもしれない。
血に染まったナイフ、手。
次は俺か、周囲の誰かがそうなる──と。
「…嘘だ。そんなこと…」
俺はぶんぶんと頭を振る。しかし、ラルフは眉をひそめ。
「どうだろう? 岳さんに強い恨みをもっていたなら、無いことじゃないと思うけど…。今回の問題は何も解決してないしね。次の機会を狙っているのはあるかも──」
「っ…」
俺は床に視線を落とし。
このまま、家に帰って、また同じことが起こったら? 次は本当に人を刺すような事態に巻き込まれたら──。
ドクリドクリと心臓が鳴りだす。
ない、とは言えないのだ。今回の件の理由が分からない今、次にどんな手にでてくるかなど知る由もなく。幾ら警戒しても、しきれないだろう。
また、狙われたら──。
無事で済む保証はない。
それが、岳を追い詰めることになったら…。
「どこの誰の仕業か分からないなら、尚更、怖いよね…。岳さんのパートナーは君でしょ? 直接、岳さんを狙わなくても、君を狙えば岳さんが傷つく。岳さん自身を傷つけるのが目的なら、また君を狙うんじゃないかな? だとしたら、安易に岳さんのもとに戻るって、どうだろう…」
「……」
しかし、そう言った後、ラルフは首を振り。
「けど、こんなの考え過ぎだね? 今はとりあえず、無事だってことを知らせに戻った方がいいだろうね。きっと、心配してる」
「……」
俺はラルフの言葉に沈黙する。
俺が帰れば、また──。
帰ろうとした気持ちが一気に萎んだ。
俺たちを狙った相手が見つかるまで、帰れない。
確かに問題は解決したわけではないのだ。