19.待ち人、現る
そう。俺は今、まさにその雨風と戦っていた。
連絡は先ほど入れたきり。後は電波状態が悪くなり、通じなくなってしまった。
平坦なそこでしゃがみこむ七生を見つけた時は心底ほっとした。
笹薮の中、分岐点で道を間違え、尾根へと続く道へ入り込んでいたのだ。
ヘッドライトの明かりを頼りになんとか見つけることができたが、雨風の所為で視界がきかず見つけるのに苦労して。
岳たちとは出会わなかったから、きっと別の道を行ったに違いない。
藪の中にしゃがみこんでいた七生は、既に歩く気力を無くしていた。
「七生! 大丈夫か? 怪我は?」
俺が雨風に負けないよう声張り上げると、七生は顔を上げた。ライトが目に眩しくて表情は分からないが、動いてはいる。
ホッと胸を撫で下ろした。
「…大和、さん…」
弱々しい声。かなり体力を削られているだろう事が伺えた。
「七生、こっちに移動だ。風が避けられるから!」
もう少し風を避けられる岩陰に身を隠そうと、七生の腕を引っ張り肩に担ごうとした。
ここで岳なら抱きかかえてでも運ぶのだろうが、いかんせん、俺は小柄で腕の力はあっても抱えることは不可能。
無理にでも立って歩いてもらわねば、このままここで雨風に晒されることになる。
「…歩けない」
七生は立ち上がろうとはして見せたものの、カクリと膝を折ってしまい立つ事が出来ない。
「大丈夫! ほら、俺の腕につかまって」
「大和さん…。ごめんなさい…っ」
しゃがみこんだまま泣き出す七生に、俺はそれならと、リュックを胸前にかけ直し、七生に背を向ける。
「泣くなって。大丈夫だからさ。抱えられないけど、おんぶはできる。鍛えてるからな? 重い荷物なんて慣れっこだ。雨さえ止めば、すぐ帰れる。ここから山小屋は近いんだ。晴れたらびっくりするぞ? ほら、いいから乗れって」
「うん…」
しゃがんだ俺の背に、おずおずと七生が身体を預けてくる。
「よし。じゃ、行くな?」
しっかり七生を腕でホールドすると、よいしょと声をかけ、身体を起こす。
二人分の重さがあると、流石に強風でも左右されない。
数メートル先にある岩陰に向かってゆっくり歩き出した。七生ごと倒れたら一大事だ。
そこは遠目だとザトウクジラに形が似ていると、ザトウと名づけられた岩だ。確かにザトウクジラがジャンプしている形にそれは似ていて。
そういえば、岳と行くって決めたんだっけ。
小笠諸島の海域へ撮影に。
冬でもそこは暖かいんだろうか?
途中の海域は荒れるだろうけれど、島の周辺は台風も来ない季節だから穏やかでいいって、言っていたな。
流石に海に入るのはウェットスーツをつけた方がいいらしい。そこに行くためにも、こんな所でへばっている場合じゃない。
て、いや待て。
その前に、俺はその時まで岳と付き合っているのか?
──分からない。けど、今はそれどころじゃない。取りあえず、無事に帰ることが先決だ。色々悩むのはそれからだ。
「七生、ほらここ座って」
岩の陰に来ると雨風が幾分弱まった。ことに風は直接吹き付けずにいい塩梅だ。
すぐに持ってきたリュックからツェルトを取り出し、それを頭からすっぽり七生にかぶせる。
この風と暗さの中でテントを張るのは困難だった。それなら被るのが手っ取り早い。これで少しは体温を守れるはず。
慌てて出てきたせいで、二人の分の用意はしてこなかった。ツェルトは一つしかない。
けど、俺の場合着こんでいるし慣れてもいる。少しくらい平気だった。
その間も容赦なく雨粒が頬を打つ。二人とも完全防水のレインウェアを着ているから、早々雨でずぶぬれにはならない。
俺は七生が持ってきたリュックを外させお尻の下に敷いた。これで少しは下からの寒さをしのげる。俺もレインウェアのフードをなるべくすっぽりかぶり雨を凌いだ。
それから持ってきた携帯食料からチョコレートを取り出し、手袋を外すと包みを取り去り、青くなった七生の唇の隙間に押しこんだ。七生はゆっくりとそれを口に含む。
「糖分とっとけ。薬だと思って。ほら、お茶も。ほうじ茶。あったまるぞ」
出がけに掴んできた水筒を開け、それも口元に持っていく。
「ん…」
一口、二口、口にして、七生は口を閉じてしまう。それでも飲まないよりましだ。
水筒をしまうと、俺は腕を伸ばし、七生の身体を横からしっかり抱きしめた。
なるべく七生に身体をくっ付けて、風よけになる。七生の身体は震えていた。これ以上、体温を下げたくはない。
俺より小柄で良かったと思う。ごつかったら大木にくっつくセミの様になっていただろう。相手が藤なら、確実にそうなった。想像すると笑えて来る。
「七生、さっきよりは少しはあったかいか?」
すると七生は小さく頷いて見せたあと。
「なんで、こんなことに…なっちゃったんだろ…」
「七生?」
「僕…、大和さんの為に、岳さんを、見つけたくて…。早く、帰ってきて、欲しくて…」
「俺の為…?」
聞き返すと、七生は俯き口を閉ざしてしまう。
まあいい。今はそれ所ではないのだ。
「とにかく、七生は心配だったんだろ? 今はその話はよそうぜ。もっと楽しい話、しよう」
それで、俺はそれに打って付けの人物を思い出した。こんな時はとてもいいネタになる。
「俺の知り合いに牧って奴がいるんだ。スキンヘッドのいかつい家系ラーメン屋の店主」
「ラーメン、店主…?」
「そ。俺と同じくらい小柄な癖に、威勢はいい奴。で、そいつがイメチェンするって言って、最近、スキンヘッドだったのを伸ばしはじめたんだ」
「へぇ…」
七生は震えながらも、相づちを返してくれた。
「それがさ。この前、岳と二人で久しぶりに食べに行ったら、なんと角刈りにしてんの。今どき角刈りってないだろ? ツーブロックとかソフトモヒカンとか、他にも色々あるだろ? なのに、角刈りってありえねぇって…」
今、思い出しても笑いがこみ上げてくる。
「岳と一緒に笑ったのなんのって。もうちょっと、なんとかなるだろ? って。今度、七生も連れてくな? あいつ、また変な髪型にしてなきゃいいけど…。でも、ラーメン、美味しいんだ。あそこのラーメン食べたら、下手な家系食べられないって」
「…岳さんと、一緒に?」
「おう。勿論だ」
その方が岳もいいに違いない。
『考えさせてくれ』その言葉が脳裏に蘇る。
本当に。いつからだよ。岳。そんなの全然、気付かなかった…。
さっきだって、今までとちっとも変わらなくて。
心のうちでため息をつく。
俺は岳が好きだ。
岳の気持ちが今、揺れているにしても、嫌いになどならない。
でも、もしその時が来たなら、俺はとりあえず笑顔で別れを受け入れようと思っている。
最後に泣きじゃくって追いすがるなんて、岳が困るだけだ。
気持ちよく別れる。
それが、俺にしてやれる最後のことで。
ま、岳のいない所で号泣するし、立ち直れなくなるのは目に見えているが。
したら、あの家にも──いられなくなるのか。
いや、既にそうなりつつある。
七生の色に染まり出している家。俺の影なんてぎょうざの羽のように薄っぺらい。残り香なんてあとわずか。
家を出れば、何だかんだ言って、亜貴や真琴とも疎遠になるのだろうか。藤や牧、たまに出てくる副島とも。
ふくさんのアパートは、空きはあったかな?
そうやって、俺は俺の人生を生きていくのだ。でもきっと、それは半身をもがれた様な心地だろう。
岳のいない世界。俺は受け入れられるのだろうか──。
そこまで壮大なこれから、を妄想していると、何だか眠くなって来た。このまま眠ってしまいたくなる。
うとうと仕掛けた所に、七生が口を開いた。
「僕…本当は──」
七生の小さな声が、何か決意したように言葉を紡ごうとする。俺は夢見心地に、何だろうと耳を傾けたその時──。
「大和…!」
この声は──。
ゆるゆると声のした方向に顔を向ければ、岳がそこに立っていた。
岳──。
夢ではない。眠気も吹っ飛んだ。
思わず腕の中に七生がいることさえ忘れてしまうほど。
そんな俺を見て、岳はどこか辛そうに顔をゆがめ、唇を噛み締めたあと、グッと拳を握り。
「…七生は?」
七生は──。
その言葉にはっとなる。
「こ、ここにいる! 無事だ!」
俺は身体を起こそうとしたが、意外に固まっていて、ギギっと引きはがす様に腕をほどく。
すると、待ち構えていた岳が、すぐに七生を腕に抱き上げた。軽い七生はまるで木の葉の様に岳の腕に収まる。
「大和、大丈夫か? 顔色が…」
岳は七生を抱えたまま、こちらに振り返る。俺はにへっと笑い。
「俺は全然──」
「いや。大和、十分震えてるって」
後ろから顔を覗かせた祐二が、すぐに上から分厚い冬用のウェアをかけてきた。一気に寒さが防がれ、温もりに包まれる。
それで自分がかなり冷え切っていたことに気が付いた。
まあ、それはそうか。
ずっと風を受けていたせいで麻痺していたらしい。祐二は俺を抱えるようにすると。
「岳先輩、そっち頼みます。俺は大和と行きます」
「分かった…。頼む」
そう言うと、岳は辛そうな表情を残し、七生を腕から背に背負うと、来た道を戻って行った。
俺はガタガタ震える足を何とか騙しながら、祐二に肩を支えられつつ、同じく来た道を戻る。
びっくりするくらい身体が震えだして、まるで生まれたての子牛のようだ。
自分の身体ながら驚いた。七生にくっ付いていたせいでそれを感じにくかったのだろう。
「うお、足が笑ってる…!」
「笑ってない。震えてるんだ」
祐二は何処か怒った様な顔をして、そう返して来た。祐二にしては珍しい。
最終的に、祐二に抱き上げられて小屋に戻ったのだった。
+++
小屋に着くと二人ともすぐに着替え──と言っても、ほとんど無理やり脱がされ勝手に着替えさせられた。二人の手早さに驚くばかり──今は毛布にくるまり温かいストーブの前に避難させられている。
七生はそのまま部屋に連れていかれた。
途中で意識を失ってしまったのだ。
眠っただけの様だったが、後は岳が引き取って面倒を看るとの事だった。
岳は七生を抱え部屋に戻る。個室だから周囲を気にせずに済む。休ませるのには丁度いいだろう。
俺はその背を見送ったあと、薪ストーブの前で温かい生姜湯を飲み、じっとその炎を見つめていた。
身体の震えはまだ治まらないが、前ほどでもない。時々ぶるっと来るのを我慢すれば、大したことはなかった。
「唇、真っ青だな…」
「ごめん…。迷惑、かけた」
いまだに声は震える。扇風機の前で話しているようで可笑しく思える。
「迷惑じゃない。──兎に角、無事で良かった」
祐二はそう言いながら更にもう一枚、俺の身体に毛布を巻きつけた。
これではミノムシ状態だが、今は抵抗もできない。他のスタッフはすでに休んでいた。
「七生くんは大和ほどじゃなかった。すぐに顔色も戻ったし、震えも少なかったしな。大和のお陰だ。大和は自分のできることをして、ちゃんと守れてた。偉いよ」
「そう、か?」
しかし、言ったあと、祐二は天を仰ぐようにしてから、ため息を漏らしたあと。
「でもさ…。岳さん的には、アウトだろうな」
「アウト? どうして、だ?」
「…もし、あのままだったら、先に大和がやられてた。朝まで持たなかった。ツエルトだって七生にしかけてなかったし。危なかった。大和に何かあったら、ダメだろ?」
「…どう、だろ…」
俺はついぽつりと漏らしてしまった。祐二が怪訝な顔を見せる。
「…なんかあったのか? 昼ごろから、ずっと可笑しかったろ?」
俺は首を振ると。
「なんでも、ねぇ…。たださ。前に亜貴に言われた。未来なんて、わからないって。このままずっと、岳と幸せに──なんて、誰も分からないって。確かに、そうだと、思った…」
「大和…」
そうなのだ。
俺を見つけた時、岳は『七生』を心配した。当たり前だ。どう考えたって、か弱い七生を心配するのは当たり前で。
俺もガキだよなぁ。
いつかの様に、自分を真っ先に抱きしめるなんて、そんな状況ではなかったと言うのに。
岳は七生を選んでいる。そう感じた。
結局その夜、心配した祐二の傍らで一緒に寝ることになった。勿論、大部屋で他の連中も眠っている。
それでも、俺が少し動けばすぐに祐二が起きて、心配してくれ。
甲斐甲斐しい祐二につい、岳を重ねてしまい。
岳達は今頃──。
そう思うと、涙がこみあげてきて、堪えるのに必死だった。