12.爪跡
「顔色、悪いな? 風邪ひいたか?」
帰りの車の中、岳が隣の席から心配そうに覗き込んでくる。運転はスタッフだ。
その後、撮影は後日となった。
俺はなんとか平静を装って、いつも通りにしていたつもりだが、やはり顔に出ていたらしい。俺は頭を掻きつつ。
「だな。ちょっと雨に当たったあと、寒気がしてさ。大丈夫かとは思ってたんだけど…」
「そうか…。さっきも調子が悪そうだったからな…。帰ったらすぐに風呂に入って休め。熱が出るようなら明日の山小屋の仕事は休んだらいい。俺から祐二に連絡しておく」
「はは、まだどうなるか分かんねぇし。明日は午後に団体が来るって言ってたから、多分、俺が休みだと回らなくなる。──すぐに寝れば大丈夫だって、な?」
「…とにかく、様子をみてからだ」
岳は俺の頭を自分の方に引き寄せ、キスを落とす。スタッフの視線は外へ向いているため、こちらの様子には気付いていない。
ま、気付いても知らん顔してくれるけどさ。
皆、俺達の関係は承知済みで。何ら気にする事はないのだ。
撮影事務所を構える北村の所には、岳以外に常勤スタッフが三人いる。
男二人に、女子一人。小柄な男子が主に事務を担っていて、他二人、長身の男子と中くらいの身長の女子は、主に師匠の北村や岳について撮影を手伝っていた。
人出が足りなくなると、たまにバイトを雇っている。
本来、岳がやりたいのは山岳やその他自然を撮ること。けれど、それだけでは食べてはいかれない。
その為、撮影事務所に所属し収入を得ていた。
それは雑誌モデルの撮影に始まり、結婚式の前撮り、家族写真、テレビ、映画の撮影協力、その他諸々、出来る範囲の仕事をこなしている。何でも屋だ。
だから山や自然の景色を撮る時は、自身の休日を使って撮りに行く。
冬の期間に依頼された伊豆諸島、小笠原の外洋での撮影も、個人的に受けたものだ。もちろん、北村の許可も得ている。
俺も連れて行ってくれるって言ってたよな?
十月末には山小屋での仕事も一段落する。
そうすれば、小笠原だろうとヒマラヤだろうと、どこへでもついて行かれるし、もっと本格的に手伝うことができるだろう。
本来なら、やる気満々、喜ぶところなのだが、その前に気持ちを重くする存在があった。
また、ラルフと会う事になるのか?
このままなら、また次の撮影も手伝う事になるだろう。
胸に触れられた感触が蘇り、寒気を覚えた。
これきりなら耐えられるが、またあるようなら、もう無理だ。大人しくなど出来ない。
ただ困るのが、俺の唯一の強み、力で対抗できないことだ。
相手は身体を資本に稼いでいる。しかも、今は岳の仕事のクライアントであり。
何かあれば岳や北村に迷惑がかかる。それを正当な理由もなしに殴ったり、傷つけることは出来ない。
セクハラだって暴力だ。けれど、それを証明出来ないのだ。
大希に襲われそうになった時は、ここまで恐怖は感じなかった。というか、大希は友だちで。
どんな奴なのか知っていたから、怖くはなかった。けど、今回のは──。
「大和…。やっぱり震えてる。帰ったら熱計るぞ」
そう言うと、肩を抱えるようにして、自分の方へ引き寄せた。俺はすんなり岳の肩に身体を預ける。
岳に訴えれば直ぐに対応してくれるだろう。だが、やはりそれはできない。そんな事を言えば、この仕事は終わりだ。
岳の温もりが心地いい。震えたのは風邪を引いたせいじゃない。けれど、俺は胸もとに頭を寄せると。
「ん…」
そうとだけ言って、目を閉じた。
+++
その後、勿論、熱が出ることはなく。
それでも青い顔をしている俺に、岳は甲斐甲斐しく世話を焼いた。
岳が入れてくれた風呂に入って汗を流し、岳が特別に作ってくれたおかゆを口にして眠りにつく。
残業もある岳をおもんばかって、七生が面倒を見ようかと言ってくれたが、岳は自分が看るからいいと丁寧に断り、今に至る。
おかゆもきっちり食べ、寝支度を整えベッドに眠る俺の傍らに、岳は座っていた。
片膝を立て、パソコンを手に何か作業している。その手の動きを目で追っていると、岳が気付き額に手を乗せてきた。
「音、気になるか?」
俺は首を振る。額を撫でる岳の手に安心を覚えつつ。
「…ごめんな。本当は下で仕事したいだろ? 今日のまとめだってあるだろうし。俺は大丈夫だからさ。下で仕事してくれても──」
「ここで出来る」
「岳…」
「どこでやったって一緒だ。それに、下でやれば大和が気になって仕事にならない。うるさくなければここでやらせてくれ」
岳は下に行く気はないようだ。俺は少し笑うと。
「ありがとな…」
側にいてくれて。
あんな事があって、心細かったのは事実で。岳は知らないにしても、嬉しかった。
なぜラルフがあんな暴挙に出たのか分からない。俺だけを狙ったのだ。きっと理由があるのだろうが、ラルフが口にしない限り分からなかった。
『君に罪はないのかもしれない。けど──』
いったい、何を考えているのか。
胸にラルフの触れた時の感触が蘇り、肩が震えた。
岳だけに触れられたい──。
俺は目を閉じると、岳の方へ身体を寄せた。
+++
大和の様子が可笑しい。
邸宅の管理人と話し終え戻ってくると、他のスタッフらと共に部屋で待機している大和がいた。
カメラのレンズを拭きながら時折、手が止まる。顔色も悪かった。先ほど、かなり雨を受けていた。そのせいで風邪でも引きかけているのだろうか。
結局、その日の撮影は中止となり、後日日を改めて本番の撮影に移ることとなった。
その帰りの車の中でも、元気がない。大和はいつも通りに見せているようだが、すぐに無理していると知れた。
風邪の所為か?
今、ようやく大和はベッドで眠りについた。熱もなく食欲もそれなりにあって。風邪の引きはじめではなかったらしい。
しかし、こうして身を摺り寄せてくるのも、どこかいつもとは違う様子で。
何かあったか?
撮影中に。
ラルフ海斗との接触は無かったと思ったが──いや。一度だけ、十五分ほど、席を外した。大雨で撮影が行えなくなり、次回の日程を管理人と決めていた間。あの時は目を離した。
けれど、帰ってきたときは、ラルフのマネージャーも、メイクスタッフもいた。二人きりでなないと思ったが。
肩を出したまま眠る大和へ、その布団を引き上げようと屈んだ時、ふと、胸もとに目が留まった。
今日はこんな状態の大和に手はだせない。触れることはなかったのだが、そこに明らかにそれと分かる赤い痕を見つけたのだ。まだ新しいそれは自分がつけたものではない。
こんな痕をつけるのは──ラルフしかいない。
思わず拳を握り締めた。
いったい、いつの間に──。
それで、大和が震えていた意味を知る。
やはり、あの時なにかあったのだ。
マネージャーもスタッフも席を外したに違いない。大和が口にしないと言う事は、脅されでもしたのだろう。
奴は紗月の友人だった。
時折、会話にも出てきたことがある。紗月にも負けない、美貌の持ち主で。海外のファッションショーでは見ないことのない、引っ張りだこのモデルなのだとか。
撮影を依頼される前、画像を見たが確かに目を瞠る美貌の持ち主だった。中性的で、まるで中世の宗教画から飛び出して来た女神のように美しい。
昔の自分だったなら、互いの気が合えばすぐに関係していただろう。
今はまったく触手が動かないが。
大和のようなタイプに手を出すようには思えなかった。
だが、何が起こるか分からない。用心の為、なるべく大和を近づけずにいたのだが。
油断した。
胸の痣を見ると怒りがこみあげてくる。
また、大和の気持ちを考えるとやるせなくなり。額に乗せた手を頬へと這わせる。無意識に顔を寄せてきた。
すまない…。大和。
辛い思いをさせたはず。傍にいた癖に守り切れなかった。
俺がしっかりしていなかったばかりに。
二度とこんな目には遭わせない──。
岳は起こさないよう、シーツの上から大和をそっと抱きしめた。