ある一人の少女の物語
ーー腰まで伸ばした黒髪が冷たい風に靡く。大好きな人のいる場所へ追いかけた。白の基調をしたコンサバトリーの扉を開ける前に、硝子の向こうにいる人影を確認すると自然と頬が緩む。ドアに着いた小降りのベルが開けた振動でチリンチリンと音が鳴る。
「兄さま」
「リュウール。そこの肥料取ってくれる?」
「これね、はい」
「ありがとう」
六面の細長い植物園は色鮮やかな植物が見る者を楽しませる。土臭い匂いが充満する、兄妹にとって気に入りの場所だ。
妹と同じ漆黒の髪を肩まで揺らし、焦茶の瞳は真摯に植物から一寸も逸らさない。成長期真っ最中にも関わらず、線の細い手つきは土埃に塗れている。一生懸命な兄が大好きで、世話する姿を眺めるのも飽きない。薄墨色の瞳で眺めてると、チリンチリンと鈴が鳴った。
「リュカ、ここにいたの。リュウールも」
「ノエル!」
「ノエル」
リュウールは密かに高鳴る心臓にそっと手を添えた。長身のあどけなさが残りつつも精悍な顔つきの少年が名前を呼び、リュカが動きを止める。亜麻色の柔らかな長髪は一つに束ね、色白の肌が肩腕の露出部分から垣間見える。リュカが起立すれば、ノエルと並列する身長はほぼ変わりない。
ノエルの翡翠色の瞳がリュカと同じ目線になった。
「聞いてよ、ちっさいリュカ〜。今日もまた女の子に言い寄られちゃってさ。友達と会うから遊べないって断ったのにしつこくて」
「モテない俺に対する嫌味か。もうチビじゃない」
「んもぅ、どうしてそんな言い方しかしてくれないの? リュウールは僕を慰めてくれるよね」
「ふふふ。ノエルが素敵だもの、仕方ないわ」
出会ったのは何年前になるのだろう。
この領地は代々エマニュエル伯爵家が世襲し、現在は未亡人の母が女主人として切り盛りしている。元々はランベール商会の初代会長がかつて旅の通過点だった領地に商売の活路を見出し、懇意にしていた伯爵家を呼び込んだのが統治の始まりだ。
商会の次男であるノエルは生後間もなく静養地に移り、三年ほど前に舞い戻った。一つ下の内向的な兄とは不思議と合ったらしく、それから三人で集まるのが定番になった。
「私、ノエルのお嫁さんになりたい!」
「僕は全然いいよ。可愛いお嫁さんになってくれたら嬉しいな」
「よせよせ。この跳ねっ返り」
「ちょっと兄さまは黙ってて」
「ノエルが良くても俺は嫌だよ」
年頃となり、十六歳となったリュウールは若干焦りがある。母が社交界デビューさせようと躍起になってるのだ。知ってか知らずか、リュカは唐突に切り出した妹に苦笑をするしかない。
十八歳の兄には未だに婚約者がいない。それが一層、母の暴走に一躍買ってる気がする。断然、拒否カードを駆使してるがいつか押し切られてしまう。嫁ぐならノエル以外には考えられない。
「リュカが気にする必要ないのに。僕もリュウール好きだから」
「嫌でも気にするよ」
そんなやりとりを目にして、リュウールが深い意味を持つ言葉なのだと気づくには、もう少し後になる。
「隔世遺伝なんだ。先祖に色素の薄い人いたらしくてねーー先祖返りっていうんだよ」
「そうなのね、特別みたいだわ」
「でしょ、この髪と肌は僕の自慢なんだ」
「お嬢様」
今度はベルすら鳴らず、開いた窓からメイドの声が降ってきた。
一旦、聞こえないふりをする。
「お嬢様。ここにいましたか、奥様がお呼びです」
「はいはい、聞こえてるわ。母さまじゃ断れないし、もー。ごめんね」
「大丈夫」
ノエルが不貞腐れるリュウールの右手を手に取り、自然な流れで唇を甲に優しく接吻した。刹那に察し、リュウールは耳まで赤く染まる。気を良くしたのか、ノエルはリュカが止まる間もなく、今度は耳元で囁いた。
「本当に可愛いね。またね、愛しのリュウール」
「へぁっ、うん!?」
「妹の純情を弄ぶなよ、ノエル……」
ぎこちない反応に満悦のノエルとは対照的に、リュカは急ぐように遠ざかっていく妹の後ろ姿を複雑な表情で見送っていた。
屋敷に戻り、母の元へ行けば案の定、社交界デビューの話を切り出される。母の黒髪と焦茶を受け継いだ兄と比較し、雰囲気が真逆になるとはとリュウールは上の空で聞き流していた。はっと反応が遅れ、聞き間違いかと聞き返す。
「お茶会ですか?」
「社交界デビューが嫌なら、お茶会の参加はしてよ。あなたもリュカも揃って内向的なのは誰に似たのかしら」
「でも母さま。私はノエルがいいの」
「仲がいいのはよろしいけれど、駄目よ。爵位を持つ家ではなくては。あなたはリュカよりも出来が悪いのだから、早急に婚姻先を決めなくてはなりません。まったくリュカも女々しさを直せば……」
過去の失敗談を延々と小言をぶつけられ、自業自得も含むだけに居た堪れなくなる。
「でも母さま! ランベール商会と婚姻を結べば、エマニュエル伯爵家にも少なからず益があります。私は真中で長女ですし、ノエルは次男です。問題ないと思います。そもそも、私は王族との関わりを持つ五爵の争いに好き好んで入りたくありません」
声を振り絞って断言した。理由を滞りなく述べたリュウールに、母は眉を顰めて短くため息を吐き、面倒臭そうに手で追い払った。部屋を出ていけ、だ。リュウールは軽くお辞儀をすると、逃げるように退室した。前々から思量した甲斐あって、ひとまず胸を撫で下ろす。
「姉さん」
「リュシアン」
廊下を歩いてると、歳の離れた弟と行き合った。アッシュグレーの短髪と薄墨色の瞳は、記憶の中の父と似通う。ぴょこぴょこ嬉々として飛び跳ねる様子は兎のように無邪気だ。
「結構擦り傷多いわね」
「えへへ、剣のお稽古していたんだ。父さまに似て兄さんよりも筋がいいって褒められたよ!」
純粋無垢な笑顔に胸が痛む。歳の離れた九歳の弟には悪気はない。五年前に父が亡くなり、当時四歳だったリュシアンは人伝で父の評判を知ることしかできない。
「すごいわ、本当に父さまを超えそうね」
「僕が家を護るくらいには強くなってみるよ!」
「……そうね」
「兄さま、お稽古に来ないから先生ばっかりだし。じゃ、母さまに報告しなくちゃ!」
思い起こせば、幼少期から兄は一度も「家を護る」とは公言してない。大きくなったら植物学者になりたいと勉強してたリュカは、今も母に内密で勉強してる。
階段を登り、まだほんの夕陽が射し込む廊下を独り歩く。ふと視線を奥の方に向ければ兄の部屋のドアが少し開いていた。リュカが部屋に戻ってるのかと思い、慎重に隙間から覗くとーー衝撃な光景を目にして立ち止まった。怪しく綺麗で目を奪われる。
「……リュカ」
裸体でノエルがリュカを組み敷き、ベッドで抱き合っていた。ちょうどノエルがリュカの首筋に顔を当てて兄の表情は分からない。あまりの光景に目を奪われていると、リュカが離れた。舌なめずりし、首筋に無骨な手を添える。
ーー先程はなかったはずの、リュカの首筋に咲いた一雫の血を流して。
◆◇
「『あなたがたは知らないのですか。正しくない者は神の国を相続できません。思い違いをしてはいけません。淫らな行いをする者、偶像を拝む者、姦淫をする者、男娼となる者、男色をする者、盗む者、貪欲な者、酒におぼれる者、そしる者、奪い取る者はみな、神の国を相続することができません。あなたがたのうちのある人たちは、以前はそのような者でした。しかし、主イエス・キリストの御名と私たちの神の御霊によって、あなたがたは洗われ、聖なる者とされ、義と認められたのです』」
あれから数日経ち、表面上は何も変化はない。リュウールは内心、気まずくて両隣にいる兄とノエルに相互に視線を移動させるが、二人は気にした風もない。
「『すべてのことが許されている。しかし、すべてが益になるわけではない』といいます。義となる行いを常に意識していきましょう」
ミサも終え、帰路に進もうとしたリュカが呼び止められた。若くて力もあり、次期伯爵としての立場からか容易に引き受ける。年配者の依頼を終えたら家に戻るそうだ。
「リュカ、力がないんだから無理して受けることはないよ」
「うるせぇな、嫌味か。心配しすぎだ、ノエル。お前ら一緒に帰ってて」
「リュカ」
毎度とはいえ、リュウールが見守る中、リュカは面倒くさそうに離れた。断れない性格なんだから、とノエルが寂しそうに呟く。
「ノエル。あのね、今月兄さまの誕生日なの。一緒にプレゼント選びましょう?」
「そうか、リュカの誕生日。あ、ランベール商会にいい花が入荷したんだ。それ飾ろうよ」
「いい案ね! 兄さま、花が好きだから喜んでくれるわ」
ノエルの破顔は凄まじいほどの破壊力で、あまりの眩しさにリュウールは尊さを感じた。ランベール商会に挨拶し、温室に案内して貰えば高そうな花が四方八方に咲き誇る。
「すごい、植物園とは種類も違うわね」
「商品となる品種を揃えてるからね。どれがいいかな」
二人で選別し、リュカのイメージに合う花を一つ一つ埋めていく。
「こんな話知ってる? 正体不明の伯爵」
「知らないわ。どんな話なの?」
「昔、サンジェルマン伯爵という伯爵がいたんだ。彼は語学に長けてたのはもちろん、錬金術や魔術にも秀でたそうだよ。面白いのが夜会に突如と現れては千年生きてる話をするんだよね」
「へぇ、随分と変わってるわね」
「でしょ…あたっ」
茎で引っ掻いたのか、ノエルの親指の付け根から鮮血が走る。驚いてハンカチを取り出し、リュウールは駆け寄った。
「痛そう、待ってて。水道を借りるわ」
「いいのに」
「土をいじってるんですもの、消毒は大事よ」
冷水でハンカチを濡らし、戻って手当するとノエルの手は傷口が見当たらない。肌が白いから摩った部分が大げさに赤く見えただけ、とノエルが弁解する。気のせいのわけがない、と多少混乱を覚えた時、急に手首を掴まれた。
「ノエル、どうかしたの……あ」
知らずにリュウールも怪我をしていた。真摯な眼差しに狼狽し、声をかけようか躊躇ううちに手首がノエルの顔に触れた。腫れ物を扱うかのように優しく傷口を舐められる。ドキリ、と心臓があの夕陽の日が脳裏に浮かんで高鳴る。
「……吸血鬼なの?」
「違うよ。リュウールも知ってるよね」
太陽の下にいても灰にならない、日中の教会にさえ入り、十字架も平気だった。お伽噺に過ぎないと
「親は普通の人間だよ。身体が弱かった僕を治した人がいてね。代償に吸血行為が伴うらしくて。まだなにかが足りない気がして……やっと、やっと両方手に入れられる」
最後の言葉はほぼ小さくて呟くようにして、ノエルは手を握りしめた。
「このタイミングで話すのはごめんね。実はね、エマニュエル伯爵家から婚約の話が来たんだ。リュウールを嫁にどうですか?って。親は慌てふためいていたよ」
母に提案した苦肉の策が通った事に驚愕で目を見開く。母が折れるのは嬉しい誤算だ。
「リュウールが嫌なら断ろうと思ってる。もし、君の気持ちが変わらなければ」
「私の気持ちはとうに決まっているわ」
初めて会った日から。
「なにがあっても僕の側にいてくれる?」
「私はどんなノエルになっても一緒にいたいわ。あなたの隣以外には考えられない」
「ありがとう、リュウール。君を一生愛すると誓うよ」
甘美な言葉に耳元で囁かれて、重なる接吻で時間が支配されていく。リュカがノエルの心の中にいようと構わない。
誕生日に選んだ花は嬉々としてもらえ、三人で一ホールのケーキを食べた。
正式に婚約話が決定しても、母は相変わらず素気ない態度で、それも吹き飛ぶくらいに幸せに満たされる。週末前にはノエルが来訪し、共に夜を過ごす日が多くなった。同時期にリュカの塞ぎ込む光景を度々目につくようになった。
「リュカ、顔色が少し悪いよ。ちゃんと眠れてるの?」
「お前らか。成人の儀を知ってるだろ、二十歳のお祝いの。リュウールも婚約者が決まったから、それまでの間に俺も決めろって母さんがうるさい……」
「えっ、兄さまは植物学者になるのでしょう?」
「……まだ母さんには言ってない……」
消え入りそうな声で呟く兄をノエルが肩を寄せて抱き締める。苛立ちを隠さず、リュカは顔を顰めて手で押し退けた。
「今は触るな、イライラする。放って」
「ノエル」
「わかったよ、リュカ。僕はずっと味方だから」
植物園についても尚、ベンチで気落ちするノエルの頬に手を添える。
「兄さまは大丈夫よ、時間がかかりそうだけれど……」
「そうだね。側にいなければいけないのに、仕事だ……。また来るね」
「えぇ、待ってるわ」
「愛してるよ、リュウール」
名残惜しそうにノエルと別れ、リュウールは一人になる時間が増えていく。翌日以降はリュカは植物園に顔を出さなかった。
「っ……まただわ。最近傷の治りが早いわね」
次第に植物園に集まらなくなり、代理でリュウールが世話をするようになった。
時々、不器用に傷を作っては、血が出ても少し経てば塞がった。聞いてみようにもノエルの目はいつもリュカを追い、独りにしないように寄り添う。寂しくはないと言えば嘘になるけれど、今のリュカには必要だと信じて、見守るように距離を取った。
「兄さまに打破できる方法が見つかるかしら……」
一滴の血に滲み染まる花びらのように、日常は少しずつ蝕んでいった。
◆◇
「申し訳ございません! 奥様はおられますか!?」
「若様が怪我をなさった、急いで医者を!」
「兄さま!!」
教会の依頼を受けたリュカが高所から落下し、大怪我を負った。
玄関ホールで神父様に担がれたリュカがいて、二人の職人がしどろもどろになる。青白い顔で瞼を閉じ、額と脇腹からは流血している。動揺が屋敷中を走る中、母は俊敏に手配を指示した。医者の見立てでは二ヶ月ほどの治療となり、意識を戻した兄はこってり母から安易に受けるなと怒られるのを忘れない。
「リュカが怪我をしたって!?」
「しーっ。兄さまは無事よ。忙しいのに来てくれてありがとう」
「構わないよ。顔を見られただけでもよかった」
規則正しく寝息をたて、静かに眠るリュカの姿にノエルは落ち着いたようだった。この時、リュウールがノエルの方を振り向いていたなら、また違った結末もあったのだろうか。声にならない囁きを聴き逃したのを知るのは、発した彼だけだ。
「なぜ、リュカは血が止まらなかったんだ……」
ここからはリュウールの記憶が曖昧だ。
ある日、突然リュカが家出をし、リュウールは理由もなく屋敷に閉じ込められた。一切外出を許してもらえず、ノエルにさえも会えない。知らぬ間に婚約は白紙になり、ランベール商会の人と揉める声で玄関ホールに向かえばメイドに戻されてしまった。
「どうして、ノエルに会わせてくれないの? 兄さまは!?」
「お嬢様、どうか部屋から出ないようにしてください」
「あなた様のためです。どうかお願いですから……」
扉が閉められる瞬間に目にした、母の泣き腫らした顔はこれっきりだった。半年後に解放されても、リュウールとすら顔を見合わさない。外出を許されず、急激に隔離された狭い世界で、ただひたすらに時が過ぎるのを耐える日々だ。
「お嬢様、成人おめでとうございます」
「おめでとうございます」
「ありがとう」
時が経ち、四年後にリュウールは成人の仲間入りをした。祝いの言葉さえ嬉しくない。白い吐息で冬の訪れを知り、寒さで鼻と耳が赤くなり身震いした。
十三歳になり、ますます父に似てきたリュシアンと些細なことで喧嘩した。
「兄さんとノエルが亡くなったのだって、半分は姉さんのせいじゃん!」
「どういうこと……? 家を出たんじゃなくて?」
「えっあっ」
「リュシアン!」
「あだっ」
逃すまいと両肩を掴み、いくらか背が伸びた弟を押し倒して迫る。リュシアンはぶつけた拍子に倒れたまま、視線を合わせないまま白状した。
「街外れの湖で二人は沈んだって。よくわかんない遺書あってさ。死が片方を分つより共に絶つことを選ぶって……」
リュウールの脳裏に大怪我した出来事が浮かぶ。本来なら、リュウールと同じくリュカも顕現されるのだとしたら。兄は軽い怪我は日常にしてきたが、絆創膏を常にしていた。今のリュウールのような身体になるまでを思い巡らしても、変化があまりにも遅い。ノエルは悟ったのだろう。永遠にいられないことを。
いつ飛び込んだのか不明にも関わらず、冷たい水温が幸いしたのか美しい姿のままだったらしい。水草が二人を縛り、引き上げられず、また神の愛に背いた罰として放置されてるそうだ。お互いの胸に一輪の大きな花を咲かせて散ったーー。
母がリュウールが後を追ってしまうかもしれないと箝口令をしき、みんな黙認していた。リュウールを守るために。
「馬鹿ね……。そんなことで死ねないわ」
思い出の植物園に一人向かい、立ち尽くす。肌寒く、凍えるまでとはいかずとも鼻水を啜るほどだ。
もう花は枯れ果てただろうかと引いた水路を歩いてると、水仙が視界に移った。小ぶりの花びらを満開に道を作るように沿う。
「そうだったわ、いつも寒い時に咲くのね」
黄色や白に踊る水仙の前でしゃがみ、花をつつく。
「あれから私は誰も愛せなくなったの、不思議と寂しくは感じないものね。ノエルが私の中にいるから……。あなたに染められた身で永遠に生きるわ」
何年か後にはこのまま暮らすのは厳しくなるだろう。
それは幸せなのか、不幸なのか分からない。それでもリュウールは幸せを感じている。季節は何周目となるだろうか。怪我をしても、傷の治りが早くなった。周囲で流れていく時間とは不相応な身体が現実を突きつける。最近は、メイドが「お嬢様は変わらないですね」と羨望の眼差しを注いでくる。
「君がリュウールかね。ノエルが愛を見つけられるとは。非常に歪んだ愛ではあったが……。君はこれからどうするかね?」
誰も来なくなった白いコンサバトリーで、急に声が降ってくきた。物珍しい訪問客はリュアールに静かに話しかけた。ベルが鳴る音も、窓が開く音もしなかった。
年は五十か六十代だろうか、白髭が混ざる黒髭をいじっている。灰色のスーツ姿で和かに落ち着いた渋い声が、リュウールの心を溶かす。
「もしかして……あなたはサンジェルマン伯爵ですか?」
「さて、どうじゃったかな。あの子を創り出した者として責任を取ろう。どうだろう、私の養女にならないか?」
「養女に……?」
手品のように、手のひらからトランプ程のカードが複数現れた。リュウールが目を輝かせていると、瞳が優しく細められた。
「君の母には話をつけてある。養女といっても、君は自由だ。血を分けた息子たちがいるのだが、彼らの話し相手になってもらいたい」
「なんだか賑やかそうね。行くわ」
「歓迎しようーー我が一人娘、リュウール」
ある一人の少女が屋敷から姿を消した。全ての結末を知るのは、母と数年後に若き当主となるリュシアンだけだ。
なに一つ特技や目的を持たなかった少女が、ある一人との恋に人生を染められ、数奇な人物に導かれてーー永遠に咲き続ける。