友情の温度
高校二年の夏休みに、俺と青良は二人で、金沢へ小旅行に行った。
緑玖と藻巳さんも誘おうとしたが、二人には既に予定があると言われた。あちらはあちらで二人で出掛けるのだと聞いて、二人の間に何かが始まろうとしているのだと悟った。
その時の緑玖の顔は、穏やかだった。直後に真っ赤になり、理不尽に罵倒された。それを藻巳さんは、宥めるわけでもなく、ただ微笑んでいた。
東京駅から新幹線に揺られて2時間弱、乗り継ぎは無い。
旅を提案したのは俺だった。俺も青良も、親につられて海外に行く事は度々あったが、実は国内へ出掛けるのは初めてだった。
青良は旅行について特に考える様子も見せず、行く?という問いに、ただ頷いた。
「喉乾いた?」
窓際に座る青良は、首を横に振ると、また窓の外の緑の風景へ目を向けた。
都会に住む青良にとって、田園の続く風景は、見ていて心地が良いらしい。田んぼの向こうに古い家が一件。離れたところにまた一件。
金沢へは、あっという間に着いた。駅内は賑わっていたが、東京ほどではない。夏休みという事もあり、もっと人がごちゃごちゃいると思っていた。
俺は青良の手を掴んだ。
「はぐれるなよ」
強く握り返され、遠い地に二人きりという状況も合わさって、心臓が高鳴る。
日に日に濃くなっていくブロンドヘアは、周囲の的となる。握り返す力が強いのは、そういう事だ。青良は好奇の視線になるべく気付かないように、俯きながら歩いていた。
初めて出会った日から、彼女は俯いていた。
居心地が悪いと感じればしゃがみこむ。話しかけられたら耳を塞ぐ。
幼い頃の俺は、彼女を一目見た時に、守らなければいけないと感じた。同時に、その美しい容姿に心を奪われていた。
一度でいいから、笑顔を見てみたかった。誰も知らないであろうその笑顔を、自分だけは知っているのだと、優越感に浸ってみたかった。
実際叶ってみると、優越感などなく、罪悪感が生まれた。
青良は、俺がいないとダメになってしまった。
お前がいないと、セーラはダメダメだ。
幼い緑玖に指摘されたあの言葉は、本当にその通りで、自分はとんでもない勘違いをしていた。
遠い地に来れば何かが変わるだろうと、何故思ったのだろうか。
「青良は、来てよかった?」
何故こんな事を聞いたのだろう。青良は黒い瞳をまんまるにして、首を傾げた。質問の意図を探られている。意図など無いのに。
ーー遠い地の、遠い日の夢を見ていた。
あまりに鮮明だった。身体は汗だくで、夢の内容だけに、すぐに気分は優れなかった。
勤務先の医務室で仮眠をとっていた俺は、腕時計を確認し、10分程休憩時間を過ぎていた事に気付いた。
横になっていたソファのそばにあるテーブルに、看護師からの書き置きがあった。
内容をさらっと読み、汗だくの衣服を脱ぎ捨て、予備の服に着替える。
閉鎖病棟への鍵を開けると、既に消灯時間は過ぎていて、談話室には小さい明かりだけが灯っていた。
ここは食事の席として使われたり、週に一度のヨガが行われたり、様々な用途として利用される。
大きなテーブルと4つの椅子が4組。窓際の一角には小さな本棚があり、その前に座り込んでいる患者がいた。
「眠れないのですか?」
「ええ…」
困ったように笑う青良は、暗がりの中でも分かるくらい、顔色が悪かった。今日は珍しく夕食を残していたんだっけ。
「眠れるように薬を増やしましょうか」
「いいえ。眠ろうと思えば眠れるのですが…」
「では、眠りにつくまで、話を聞きますよ」
一瞬断ろうとして、では、と、青良は頷いた。消灯時間後に話すのは初めてだった。
「私、きっと帰りたいんです」
「…退院したいって事ですか?」
「最初はそう思いました。だけど、そういう意味の帰りたいでは無いんじゃないかと考え始めて」
退院を熱望する入院患者は多い。大半は強制入院だったり、長期入院だったりして、閉鎖的な空間に耐えきれず、泣いたり暴れたりする。
青良は何故か、退院後に症状が悪化する傾向があった。幼児化に近い症状だとカルテに書いた事がある。そうなる理由は明確だが、本人には伝えない。
「先生、お疲れですよね」
「え?」
「顔色が悪いように見えて…それに、少しですが、涙の跡が頬に残っております」
どっちが先生なんだか、わからない状況だ。
「大丈夫、きっと汗をかいたせいです。あ、匂ったらすみません」
「とても良い香りしかしませんわ」
俺を真っ直ぐ見つめるその瞳に、本当に泣きそうになった。
こんなに近くにいるのに、抱きしめる事は許されない。
いつの間にか、青良は俺の身体のそばまで来て、次第に顔との距離が近くなる。
ここにいる自分の立場が、一瞬だけ分からなくなった。
昔から恋焦がれている女の子ーーいや、女性が、俺を求めている。青良は、俺にキスをしようとしている。俺の中にある男性の部分を求めて、あらゆるものを切望している。
見てはいけない。近付いてはいけない。しかし、もし拒んだら、発作を起こすだろうか。拒まなければ、確実に医師としての立場が危うくなる。そうなっても、青良の望む事をしなければいけない。俺は昔から、そうして青良のそばにいたのに。
「うっ…せん、せ」
青良の瞳から涙が零れ、その場に崩れる。
「私、何をしようとしたのでしょう、先生を困らせて、私は…ああ」
そこで初めて、俺は青良の背中を摩った。青良の呼吸が安定するまで、うずくまる彼女の小さな背中を見ていた。
どうやら、俺は本当に疲れ切っていたらしい。談話室にいる俺と青良の姿を見て駆けつけた看護師達の呼びかけに応じないくらいには。
テーブルにメモを残してくれた年配の看護師に青良を任せ、その後どうやってデスクに戻ったかは、正直覚えていない。
「ベッドへ連れていくと、すぐにお眠りになりましたよ」
先程の看護師ーー菅さんは、いつも母親のように接してくれる。
「すみません。菅さんのメモの言う通りにすれば良かったですね」
「いいんです。小鹿先生はきっと、青良さんのそばにいたがると思いましたから」
「敢えて、メモを残したんですね。意地悪だなぁ」
菅さんは笑うと、目尻に皺が出来る。俺が見てきた中で一番優秀な看護師だ。どんな時も判断を誤らず、的確に指示をし、時には母となってくれる。
「菅さん、俺、俺ね、さっき、すっごい辛かったんですよ」
あはは。笑うと同時に、菅さんの笑顔と自分の笑顔の違いに気付き、頭をぐしゃぐしゃとかき続けた。
「辛いんです、俺は、ダメダメなんです!青良のそばに、いちゃいけない…!」
今まで溜めこんできた涙はあふれるように流れ、息が詰まり、子供のように大声をあげた。菅さんは先程の俺と同じように、俺の背中を摩ってくれた。
担当医にならなければ良かった。医師にならなければ良かった。青良と出会わなければ良かった。生きてこなければ良かった。色々なものは込み上げる一方で、なかなか止まらない。
自分の立場を守る程、自分は立派な人間ではない。
背中は温かかった。病室で眠る患者の事は忘れて、一人の男として泣き続けた。