濃度は薄く
その日、俺は道中で買った微糖の缶コーヒーを啜りながら帰路についた。明日は久しぶりのオフなので、今夜は小鹿と自宅で飲む約束をしていた。
小鹿の案を聞くのは、いつも良い刺激になった。俺には考えつかないデザインなどを思いつく彼に、嫉妬しつつも、有難みを感じていた。
今夜は一段と冷え込んでいる。熱燗を美味しく感じる季節になったという事か。
自宅であるマンションの前には、既にスーツ姿の小鹿が待っていた。
「お疲れ様。…あ」
小鹿は俺の片手から缶を奪い取る。
缶コーヒーのラベルを確認すると、ハァとため息をつく。
言いたい事はわかる。一緒に飲むよりも先に、酒に溺れたりなんかしない。
だけど、少し後ろめたい気持ちになる俺を横目に、小鹿は静かに歩き出す。
「とりあえず帰ろう」
今日は本当に寒いという言葉につられ、俺は夜空を見上げる。空気がとても澄んでいて、星がチラチラ見えた。
大量のラフが辺りに散らばった自室を見ても、小鹿は何も言わなかった。何を言っても無駄だと思われているのだろうか。
少ない友人から見捨てられる日がくるとしたら、恐ろしいと思った。小鹿はそんな人間ではない。だが、必要であれば、俺の前から姿を消すという選択もとれる人間だ。この男は昔から強い。俺とは全然違う。
「今夜は、仕事の話はやめよう」
小鹿は笑い、ビニール袋の中からあらゆる酒類をテーブルに並べた。この男は本当に、オンとオフの切り替えが上手だ。
「昔みたいに、くだらない話でもしようじゃないか」
「どんな話をしていたか、くだらなさすぎて忘れた」
「あはは、確かに。あんまり思い出せないや」
そういえば先日藻巳の会社との仕事があった、と話した。仕事の話はしないと言われたが、共通の「知人」の話なら良いと思った。
「なるほど。だからこんなにもドレスのラフがあるわけかい」
「ああ。お前の案を参考に書いたデザインを見て、すごく喜んでた」
「そうか。なによりだよ」
小鹿は梅酒を手にとった。氷で割って飲むとはいえ、まだまだお子様だな、と、心の中で笑ってやった。
藻巳との結婚式を間近に控えている俺は、その為にここ一年、がむしゃらに働いた。母さんのウェディングドレスブランド会社の副社長となれたのも、そのおかげだ。それに、藻巳の両親が営む広告会社との仕事が多く、それらでたくさんの評価を得られたのもある。
「なら余計、健康でいなくてはだめだ」
「分かっている」
小鹿の言葉は時々刺さるが、事実だ。真摯に受け止め、その通りにしなければいけない事ばかり。
小鹿の口から出る正論は、俺の進むべき道そのものなのかもしれない。
いつからか、俺は自分の足で歩けない人間になっていた。
小鹿は、何故普通に歩けるのだろう。
「そういうお前は健康なのか」
「健康診断の結果は良好だよ」
俺の瞳に写る小鹿は、顔色こそ良いが、瞳の色が曇りがちだ。国立病院の医師である小鹿が、健康管理を怠るとも思っていない。
「そうだな。心はいつもざわついているよ。」
俺の言いたい事を当てるところも変わらない。様々な病院からの誘いを断り、とある心療内科への勤務を選んだのは正しい。小鹿は今でも、たくさんの人を救っているに違いない。
「俺はいつも自分が本当に笑っているかどうか分からない時があるからね。でも君に会うと、心から楽しめるし、笑える。藻巳さんに会ってもそうだ。あと、患者さんともね」
そう言いながらも、小鹿はまた上の空になる。自覚はあるのだろうか。人の事は良く見えるのに、自分の事となると疎い一面がある。
もしかしたら、彼を強い男だと思っているのは、俺だけなのかも知れない。
翌朝、いつものように国立病院に足を運んだ。
見知った顔のカウンセラーの女性から話を聞くと、姉は既にカウンセリングを受けた後だった。
待合室に、姉は座っていた。
近くに座っている人達は皆、美しいブロンドの姉に見惚れている。
「あら、緑玖。来てくれてたのね」
周囲の視線を気にせず、俺に駆け寄り、勢いよくハグをしてくれた。
「うん。調子はどう?」
明るい姉の細い身体を確認した後、弱々しいハグを返す。
「とっても元気よ。昨日先生からも、顔色がすこぶる良いって言われたの。退院が早まって嬉しいわ」
最近の出来事についてよく喋り、コロコロと笑う。唇は紅く、髪の艶も良い。
「そうか。先生が言うなら、間違いないな」
「ねぇ、私、本当に緑玖の家に住んでもいいの?なんだか悪いわ」
「なんで悪いんだよ。母さんは海外だし、俺の家にいれば、藻巳も来るし。安心だろう」
「それは嬉しいけれど、だけどね、愛し合っている2人の邪魔をしたくないわ。そりゃ、2人の幸せな姿を見れてお姉ちゃんは嬉しいけれど…だけどね、」
「はいはい」
ループになりそうなので、俺は姉の手を引き、自販機でミネラルウォーターを2本買った。
「うふふ。冷たーい」
手渡された1本のミネラルウォーターに、姉はすごく喜んだ。退院した今は、何でも嬉しく感じるのだろう。
「緑玖。退院は嬉しいわ。でも、仲良くなれた人達と別れるのは、寂しかった。優しくて可愛いお婆さんと、車椅子のお姉さんと、小学生の女の子。皆と話すのは、とても楽しかったの。ご飯の時も1人じゃないし。あ、談話室で皆とテレビを観たりもしたわ。…楽しかったわ。だけどね、」
たった1ヶ月の入院の間、話し足りない程充実した時を過ごしたのだろう。閉鎖病棟とは言え、この病院の評判は良い。何より、小鹿の勤める場所だ。
「昨日、小鹿先生は言ったわ。このまま直に良くなるから、カウンセリングは3ヶ月に1度で良いって。それは嫌なの。先生と話していないと、なんだかとても不安なのよ」
「…良くなっている証拠だろう。先生の言う事は、間違いないはずだよ」
「そうなのだけれど。でも、先生と話さないとって思ってしまうの。そう、心がざわついているの。私、本当に良くなっているのかしら」
姉のその様子は、昨晩の小鹿と重なって見えた。
今朝別れてから、小鹿からの連絡は無い。
姉の退院を決めた彼は、その事をどんな顔で姉に告げたのだろう。心がざわついたに違いない。
入退院を繰り返す度、姉は同じ事を口にした。小鹿先生と話さなければいけないと。内容を聞いてもわからないと答え、ただ、上の空になる。
きっと小鹿の居た場所に、風が吹き抜けているのだと思った。
その日、午後休を取れた藻巳が、病院の食堂まで来てくれた。姉と藻巳はいつものように抱き合った。婚約者である俺とよりも、熱烈に。
「ああ、青良さん、どれだけ会いたかったか」
「私もよ藻巳さん。緑玖ったら、全然藻巳さんの話をしてくれないんですもの。つまらなかったわ」
「まあ、青良さんったら」
途端に居心地が悪くなる。これだから女同士は。ここに小鹿がいれば多少は気が楽になるのに。あの頃のように、いち傍観者でいられたのに。
「この食堂の限定ランチが美味しいんですって。小鹿先生から聞いて、退院したら絶対食べるって決めていたの!」
ランチタイムに15食しか出さないという、デミグラスソースのかかったバターライスのオムライス。
「小鹿先生はとてもお優しいですわね」
いつも明るく自信たっぷりの藻巳も、今日のような日は少し弱々しくなる。
俺も藻巳も、目の前のかけがけのない存在を見守る事しか出来ない。姉の担当医である小鹿はそれで十分だと言うが、本当の意味で見守れない小鹿を思うと、自分のこれはエゴだと思い知らされる。
注文してから割とすぐに運ばれてきた限定オムライスを食べながら、太陽光がたっぷり入る、見晴らしの良い食堂だと気付く。
回復には太陽の光が大事だと「先生」が言ってたと、姉は楽しそうに笑う。
「先生に会いたいわ」
ぽつり呟く姉に、俺は戸惑う。
「カウンセリングを前倒ししてもらえるように、頼みましょうか」
藻巳も多少焦ったのか、俺の顔を確認しながら、姉の肩に触れる。
「カウンセリングを受けたいんじゃないの。先生に会いたいの。話さなければならないの…」
オムライスをすくう手は止まる。姉はどこへ行ってしまったのだろう。ここにいる姉は、あのセーラなのだろうか。
高等部3年に進級してすぐの朝だった。セーラは突然、長年開かなかった口を開いた。
「おはよう」と言われた時、頭が追いつかなかった。
俺はセーラの声を知らなかった。セーラはこんな声をしていたのかと、とても驚いた。いや、それよりも、あんなに内気だったはずの姉は、どこに行ったのかと、焦った。
明るく笑うようになり、とてもお喋りになった。
それと引き換えに、セーラは、それまで傍にくっついて離れなかった小鹿の存在を忘れていた。
「先生に会えないものかしら」
退院する度、姉は、小鹿先生へ思いを馳せる。
小鹿が姉の担当医となってから、姉は初めて入院し、そして退院した時だった。
小鹿に見送られながら病院を後にするはずだった。
しかし、「次回のカウンセリングで会いましょう」と言われた瞬間、姉は病院内でひどく泣き叫んだらしい。
知らせを聞いて急いで駆けつけた頃は、遅かった。
鎮静剤を打たれ、病室で静かに眠る姉と、遠くで椅子にもたれかかり、憔悴しきった小鹿を見た時、いたたまれなくなった。
姉に鎮静剤をと判断し、自ら投与したのは、他でもない小鹿だったと話を聞き、俺は、姉の病気を甘く見ていたと後悔した。
その日再入院の手続きをするしかなかった。目を覚ました姉にその事を告げると、姉は首を傾げた。
「どうしてかしら。小鹿先生は、退院していいとおっしゃったわ。何故かしら」
姉は発作を起こす度、その事を忘れていた。顔が涙で乾いて
いる事にも気付かないで。そして、先生が決めた事ならと受け入れ、また元気になる。
姉は、担当医として小鹿を強く慕った。まるで依存だった。小鹿を忘れても、尚。それは忘れる前と同じだが、全く違った。
忘れるなら、俺を忘れたら良かったのだ。何故小鹿を選んだのか。それだけ潜在的に小鹿を求めるならば、何故忘れるという選択をしたのだ。
姉からすれば、幼い頃からそばにいた小鹿も、担当医の小鹿先生も、同じかもしれない。
自分の病の根本を知れば、姉はどうなるのだろう。
小鹿の言う通り、話さない事が正しいのだろうか。
話せなかった頃の姉を思い出した。昔の姉のように、大切な事を話せない苦しさを知り、愛しき日々に思いを馳せる。
俺とセーラは、間違いなく双子だった。