4.夢から醒めて
「殿下、今夜は俺は付き添いなんです。婚約者の、シャロンの」
ベアトリスに掴まれていない方の腕で華奢なシャロンを抱き寄せると、彼女は一瞬驚いたように青い瞳を丸くしたがすぐに完璧な笑顔を浮かべた。
「婚約者?」
きょとん、とベアトリスは呟き、セドリックとシャロンの顔を順に眺め、最後にその抱き寄せている腕を見た。
シャロンは恥じらってはいるものの嬉しそうに頬を染めていて、セドリックはそんな彼女にごく自然に寄り添っている。
ぱちぱちと瞬きをしたベアトリスは、すぐにまた快活な笑顔を浮かべた。
「知らなかったわ、婚約おめでとうセドリック! シャロン嬢も」
「ありがとうございます」
素早くセドリックが言うと王女はさっぱりとした様子で頷き、シャロンの腕に自分の腕を掛け彼からその身を奪った。
「さぁ、でも今夜はこの美しい婚約者を私に貸してちょうだいね。シャロン、聞きたいことがたくさんあるのよ」
「わたくしでお答え出来ることでしたら、何なりと」
王女は嬉しそうに微笑み、シャロンと共にソファへと陣取る。
活発で好奇心旺盛なベアトリスは、その後宣言通りシャロンを独占してあれこれこの国のことを質問し、その全てにシャロンは的確に答えてみせた。
隠してはいるものの気性が似ている所為か、シャロンとベアトリスは非常に意気投合し、文化や歴史、他国の風俗などにも話が及び、話は大いに盛り上がった。
外国の言語も飛び交い、向かいのソファに座ったセドリックには半分ほどしか理解出来なかったが、屈託なく楽しそうにしているシャロンを見る彼の表情は、とても柔らかかった。
そして、随分夜も更けた頃。
伯爵家の馬車でセドリックとシャロンは帰宅の途に就いていた。
さすがに疲れたのか、彼の肩に頭を乗せてシャロンはうとうととしている。
「着いたら起こしてやるから、寝ていいぞ」
「わたくしの寝顔はお高くてよ、セディ」
相変わらずの憎まれ口だがよほど眠いのだろう、声に力がない。
そのまましばらくセドリックが王都の大通りを馬車が走る振動を感じながら、窓の帳の隙間から見える静かな夜の街の様子を眺めていると、すっかり眠ってしまったと思っていたシャロンの声が届く。
「…………セディ、ご苦労様。今夜で婚約者のフリはお仕舞いよ」
「え?」
驚いてセドリックが身じろいだが、シャロンは彼の肩に寄り掛かったままなので表情は見えない。
「何故急に」
「今夜の夜会に、例のやんごとない御方もいらしてたの。あなたが堂々とベアトリス殿下にわたくしとの婚約を話すところを、きちんと聞いておられたわ」
ふふ、と軽やかな笑い声。
「そう……なのか?」
あの場には高貴な身分であるオズワルドもベアトリスもいたので、シャロンの婚約者としていても、セドリックは近衛騎士の習いで周囲を警戒していた。
その為、相手が悪意をこちらに向けていれば必ず気付く自信が彼にはあるが、シャロンの言うやんごとない御方、には気付かなかった。女性に好意を持つ男の視線は、セドリックには門外漢だ。
「あなたがあの時、王女にハッキリと言ってくださってよかったわ。他国の王女にまで紹介する、本気の関係だとあの方に知らしめることが出来ましたもの」
「そうか……役にたてたのならば、よかった」
「……ええ。いい働きでしたわ、褒めて差し上げます」
どこまでも偉そうな女である。
何と言っていいか分からずセドリックが眉を寄せていると、くすくすと彼女が笑ってその眉間の皺をつついた。
「怖いお顔」
「生まれつきだ」
「……もうお付き合いいただく必要はありませんけれど、しばらくは婚約を解消したことは伏せておいてくださいませね」
社交シーズンが終われば、人々の興味はまた別のことに移っていく。一時婚約をしていた二人からも、徐々に好奇の目は離れて行くだろう。
「次のシーズンにはあなたが失恋した、と皆勝手に決めつけてくれますわ」
婚約証書を教会に提出してしまっていれば婚約解消は大きなスキャンダルだが、そうでない場合はシーズンの間のひと時の恋扱いである。
「何故君じゃなく、俺が失恋したと決めつけるんだ」
思わずムッとしてセドリックが言うと、色気たっぷりにシャロンは笑った。
「んもぅ、セディ。説明してあげなくちゃ、わかりませんの?」
社交界の高嶺の花と呼ばれる彼女と、近衛騎士とはいえ無表情で怖い顔の彼。フラれるならばどちらなのかは、推して知るべし、といったところだ。
「あなたがわたくしをフッたことにしても、構いませんけれど?」
「……女性に恥をかかせるわけにはいかない」
暗にセドリックがフラれたことにしておくことを了承すると、彼女はまた笑った。
「可愛い方。あなたのそういうところ、わたくし大好きですわ」
「言ってろ」
彼が不貞腐れると、シャロンはいかにも可笑しくてたまらない、という様子で身を震わせるとサッと背を向けた。
「シャロン?」
「そういうわけですので、恋人達のお時間は終わりですわ。首飾りを外してくださいませ」
街燈の灯りが、帳の隙間から薄暗い馬車の中に差し込む。
そこで彼女の白いうなじは、ほんのりと輝いているかのように浮き上がりセドリックは知らず息を止めた。
その白く柔らかそうな肌に触れると、どんな感触がするのだろうと一瞬考え、その不埒な思いを慌てて消し去る。
「? どうかしました? 首飾り、持って帰ってしまいますわよ」
背を向けたままのシャロンが、いつまでも動かないセドリックを揶揄う。
「家宝だぞ、貸すだけだと言っただろう」
「美しい者の身を飾ってこそ、家宝も輝くというものでしてよ」
堂々と自らを美しい、と称するシャロンだが、彼女の悪魔な内面を知っていてさえセドリックも彼女の美しさは認めるところである。
「……そうかもな」
薄暗く揺れる馬車の中で、苦労してようやく彼が首飾りの金具を外すと、シャロンはするりと身を離した。
「シャロン?」
「魔法が解けてしまったみたい」
少し離れた位置に姿勢よく座席に座った彼女は、眠たげだった様子など嘘のようににっこりと笑った。
やがて馬車はコフィ子爵邸に到着し、先に降りたセドリックの手を借りてシャロンも馬車を降りる。
「送ってくださって、ありがとうございます」
「ああ……しかしシャロン、本当にもういいのか? その、やんごとない方がまた迫ってきたりは……」
あまりにもあっさりと話しが済んだので、逆にセドリックは心配になる。だがシャロンはやはりあっさりと頷いた。
「ええ。別の人と婚約している者をしつこく追いかけるほど、みっともない方ではありませんもの」
「そ、そうか……ならいいが」
セドリックが戸惑いつつも何とか納得すると、シャロンは子爵邸の扉の前に立って微笑んだ。
扉が開いて中から執事とメイドが令嬢を迎えに出てきて、まばゆい灯りが逆光になりシャロンの表情が見えなくなる。
「では、気をつけてお帰りになってね」
「ああ。おやすみ、シャロン」
華奢なシルエットと、歌うように朗らかな声。
「ええ。……さようなら、セドリック」
その言葉を最後に、子爵邸の扉は閉じられた。