Ⅱ.二人の約束①
「お止めください、母上! この者は私の大切な友人なのです!」
慌てて駆けつけたアルフレートが、カザリンから庇うような格好でユリウスの前に立つ。
友人だと言い放った皇子の小さな背中を見つめて、ユリウスは驚きを隠せずにいた。
「そこをお退きなさい、アルフレート。その者は畏れ多くも皇后であるわたくしに楯突いたのです」
「ユリウスは私の意思を尊重せんがために意見したのです。この者に罪があるというのなら、それは私自身が招いたもの。罰するというのであれば、まず私に罰をお与えください」
主張するアルフレートの身体が小刻みに震えていることにユリウスは気づいた。
皇后に溺愛されていると噂される皇子はしかし、母親を前に恐怖と戦っているように見えた。
「何を馬鹿なことを……あなたのためを思い、この者の過ちを正そうと、ただそれだけのことです。幼いあなたが口出しする必要はありません。そこをお退きなさい」
過剰に息子を心配する母。傍目にはそう見えないこともない。だがこれは違う、とユリウスの直感が告げていた。
アルフレートが反抗的な姿勢で母親に反論する。
「退きません。真に私を思ってくださるなら、私の友人に恩情をくださいませ。そうしてくだされば、私もあなたを信じることができます」
皇后が雷鳴に打たれたような表情を垣間見せる。
「条件付きで信じてやる」とでも言いたげな皇子の態度に、深く大きなショックを受けていた。
息子からこのような反抗を受けて、彼女の高いプライドが傷つかないわけがない。しかし同時に、我が子に嫌われることを恐怖する心情が、カザリンの胸のうちにはあった。
「いいでしょう。そこまで言うなら、あなたに免じてこの場は見逃しましょう」
あくまで寛大さを見せつけるように居丈高な口調で、皇后は譲歩の言葉を口にする。だが、ただ引き下がるつもりもない。
「あとでわたくしの部屋にいらっしゃい、アルフレート。あなたの気持ちを聞かせてほしいわ」
柔和な物言いは高圧的な雰囲気に相殺され、否とは言わせない空気が場には漂っている。
アルフレートは素直に頷くしかなかった。
「はい……」
息子の返事に満足して、ようやく皇后は立ち去った。
皇后の背中が見えなくなってから、アルフレートはその場にぺたりとへたり込む。
「殿下っ」
そのまま崩れ落ちそうになるアルフレートを慌ててユリウスが支えると、小さな皇子は蒼白な顔に笑みを浮かべた。
「間に合って良かった」
青ざめたまま安堵する皇子の姿に、ユリウスは自戒する。
「私の思慮が足りなかったばかりに、殿下にこのようなご無理を強いてしまいました。申し訳ありません」
この期に及んで恨み言ではなく謝罪を吐きだすのか、とアルフレートは失笑した。
「どこまでお人好しなのだ、そなたは」
だがその笑顔もすぐに消える。
「すべては欲を掻きすぎた私の失態だ。ユリウスの優しさに甘えて、自分の立場を見失っていた……私が愚かだったのだ」
そんな反省とともに、自分の心が乾いていくのをアルフレートは感じていた。
物心ついたときから心を閉じ、可能な限り感情を薄くして生きてきた。それは自分を守る盾であると同時に、諦めという逃避だった。始めから期待などしなければ落胆もない。
だから他人との間に距離を置いて、感情の無い人形のように振る舞ってきたはずだ。それがどうしてユリウスに踏み込むことを許してしまったのか……。
心を許すべきではなかった。喜びを知らずにいれば、それを失って苦しむこともないのだから。
心を閉じて。感情を忘れて。無関心な自分に戻らなければ――そう言い聞かせて希望を捨てようとしたアルフレートだったが、ユリウスがそれを許してくれなかった。
「明日の夕刻、訓練場でお待ちしています」
「え?」
不意をつかれたアルフレートが戸惑いの声をあげる。
ユリウスは静かに笑った。
「明日から正式にご指導できる旨を、先刻申し上げました。士官学校の授業が終わったあとの夕刻から、剣術の稽古を行ないたいと思います」
何事もない、日常の延長のような口調でそう告げたあと、ユリウスは表情を引き締める。
「ですから明日の夕刻、訓練場でお待ちしております。何時間でも」
ユリウスは念を押すように最後の言葉に力を込めた。
静かで柔らかい口調にもかかわらず、否定を許さない圧力を感じたアルフレートは、迂闊にも返事をし損ねてしまったのである。