Ⅲ.子爵令嬢の縁談①
王都ドルトハイムには三重の壁が築かれている。王都の市街地全体を包む外壁。市民街と貴族領を隔てる内壁。そして皇宮を囲う城壁である。
内壁と城壁に挟まれている貴族領の南東。その一角にシルヴァーベルヒ子爵の屋敷はあった。
屋敷の当主ステファン・フォン・シルヴァーベルヒ子爵は、皇帝直属の騎士隊において連隊長を務める大佐である。
ここ数十年、大きな出兵がほとんどなかったにもかかわらず、三十六歳の若さで大佐まで駆け上がったのは異例の出世といっていい。
私生活においては、美人令嬢と評判の高かったベルツ家の伯爵令嬢に惚れ込まれて十八歳で結婚している。
公私ともに順風な人生に羨望の視線を向けられることも少なくない。
尤も、最近では娘に話題をさらわれがちであった。
シルヴァーベルヒ子爵の屋敷は大きくて立派な造りだが、その内装は簡素な飾りが多く、貴族的な華やかさに欠けていた。
廊下の壁紙はアイボリーを基調としたダマスク柄で統一されており、屋敷全体の雰囲気を上品に引き締めている。
各所に飾られている花瓶の花は落ち着いた色で可愛らしく活けてあり、壁にかけられた絵は素朴な風景画が多かった。
シンプルで落ち着いた雰囲気が漂う子爵邸だが、この日は朝から忙しなかった。
令嬢のウリカに縁談が持ち上がっていたからである。
しかも相手は、最近文官として頭角を現していると噂の若き伯爵である。
「信じられないわね。お相手の方はお嬢様の噂を知らないのかしら?」
「まさか。だとしたら、そうとう世情に疎いぞ」
「でも、知っていて申し込んできたのなら、その方もかなりの変わり者なんじゃない?」
「まあ、ちょっと正気とは思えないよな……」
屋敷内でもそう囁きかわす声があった。無理もない。
ウリカ・フォン・シルヴァーベルは貴族令嬢としてはそれだけ異質なのだ。
数学やら経済学やらを学ぶのは別におかしなことではない。領地経営などで必要になることもあるだろう。剣を手にするのも令嬢としては珍しいが、皆無ではない。
だがそんなものは屋敷に教師を呼べばいい。わざわざ市井の学校に通う必要がどこにあるというのか。
ウリカ嬢が変わり者扱いされる所以はそこにあった。
まさに想定外を地でいく令嬢である。
だから縁談の当日に勝手に出歩くことがないよう、対策は立てたつもりだったのに……。
ウリカお気に入りの動きやすい服はすべて隠し、靴もドレスに似合うヒールの高いものだけを残した。
ハイジがあれだけ早い時間に令嬢を迎えにいったのも対策のひとつだった。
にもかかわらず脱走を許してしまった。
おかげで屋敷は大わらわである。
つもりはつもりでしかなかった。こうして脱走されてしまったのは、どこかで徹底を欠いたということだろう。
そこまで考えて、ハイジは違和感を覚える。
計算高くて目端の利くあの当主が娘の行動を予測していなかったなど、あり得るのだろうか。
その当人――ステファンに目を向けると、懐中時計を手にした執事が、そばに歩み寄るところだった。
執事のモーリッツは使用人の中でも一番の古株。六十三歳の高齢で、薄茶の頭髪はその六割以上が白く染まっている。
「旦那様、そろそろお嬢様ご自身の準備を始めなくては、間に合わない時間になってまいりました」
薄茶色の瞳を手元の時計に落として、モーリッツは深刻な報告を主人に届けた。
「困ったねぇ……」
のんびりと応える子爵は、赤銅色の髪を無造作に掻き上げながら、碧い瞳を細める。
さして困っているようには見えなかった。
「困りましたな」
執事の態度も主人のそれと大差ない。
焦燥感に満ちた周囲の雰囲気を二人は見事に無視していた。
だが、この二人が落ち着き払っているおかげで、使用人たちの混乱は最小限で済んでいるという側面はある。
まるで「想定内」と言わんばかりの冷静さ。いつも通りといえばいつも通りだ。
でもそれを想定できるなら、もっと前の段階でしっかりと対策してほしかった。
ついそんなことを思ってしまう。
ハイジは軽く頭を振る。
今は考えていても仕方ない。とにかく目の前の状況に対処するのが先決だろう。
そう思い直したとき、視界に小さな人影が飛び込んできた。
慌ただしい空気に包まれた応接室に、まだ幼い少女が入ってきたのである。
使用人たちが右往左往する室内。そんな中、周囲に気を配ることもなく歩く姿は、危なっかしいことこの上ない。
ハイジは急いで少女に駆け寄った。
「どうされたのですか、マリアお嬢様」
しゃがみ込んで少女に視線の位置を合わせると、あどけない緑色の瞳と目が合った。
「あのね、ウーリ姉さまを捜してるの」
小さな手が、無造作にハイジのスカートを掴む。
まだ四歳になったばかり。シルヴァーベルヒ家の次女である。
赤銅色の頭髪をそっとなでると、嬉しそうに微笑むのがなんとも可愛らしい。
「あらあら、そちらに行ってはダメですよマリア。みんなの邪魔をしてしまうわ」
鈴を転がすような声が響く。
歩み寄ってきた声の主は、若草色のワンピースを着た金髪の女性だった。
マリア嬢を抱え上げると、小さな令嬢と同じ緑の瞳を細めて侍女に謝罪する。
「ごめんなさいね、ハイジ。ちょっと目を離した隙にふらふらと歩きだしてしまって」
かつて美人令嬢と評判だったクリスティーネ子爵夫人は、三人の子を産んでなおその美しさを保っていた。
ハイジが立ち上がって一礼すると、子爵夫人はふわりと笑う。
「ウーリが色々と迷惑をかけていると思うけれど、あなたには本当に感謝しているのですよ」
シルヴァーベルヒ家の変わり者令嬢ウリカ。貴族社会での風評とは裏腹に、家族からは愛称で呼ばれ、愛されている。
だがそれは家族だけにとどまらない。
「奥様、正直に言いますけど、実はあまり大変だと感じたことはないんですよ」
クリスティーネの耳元に口を寄せ、いたずらっ子のように囁くと、夫人はくすりと笑った。
「あら、それは強者ね」
彼女は夫とは違う意味で場の雰囲気を無視するところがある。
ハイジは夫人が生みだす朗らかな空気が好きだった。一緒にいるとなんだか落ち着くのである。
さて癒されたことだし、そろそろ仕事に戻らなければ――とハイジは改めて一礼した。
「準備がございますので、私はこれで失礼いたします。今の時間でしたら書斎には人がおりませんので、おくつろぎいただけるものと思います」
「そう、ありがとう。本当にハイジはしっかり者で助かるわ。あの子ももう少しあなたを見倣ってくれるといいのだけれど……あの自由奔放さは誰に似たのかしらね」
無自覚なセリフをさらりと言わないでほしいものだ。返答に困る。
「母さま……ウーリ姉さまは?」
「姉さまはお出かけ中なのですよ。マリアはみんなの邪魔にならないように、母さまと書斎で遊びましょうね」
穏やかな空気をまとったまま母子は応接室を出ていく。
ハイジは再び気を引き締めて準備に戻ることにした。
彼女にもやらなければならないことがある。