Ⅱ.異端児との出会い①
「負けた……」
試合を観戦していたアルフレートの口から、残念そうな呟きが無意識に転がり落ちる。別にあの少年を応援していたわけでもないのに、軽い落胆が胸中に広がった。
どれだけ激しい戦いでも優雅さを損なうことなく、強者と対等に渡り合った少年剣士の姿が、アルフレートの目には鮮烈に映った。
もう一度見たい――いつのまにか高揚していた気持ちが、そんな願望を呼び起こす。
闘技場ではすでに次の試合が始まっていたが、それには興味を持てず、ただ呆然と前方を眺めやっていたときである。
「もっと近くに行ったほうがよく見えますよ」
後ろから唐突に声をかけられて、アルフレートはびくりと身を震わせた。
余韻に浸りすぎて、いつの間にか警戒心が薄まっていたらしい。
迂闊さを反省しながら振り返ると、そこには例の最年少受験者が立っていた。
先ほどの試合を思いだしてうっかり気分が上がりそうになったアルフレートは、すぐに気を引き締めた。
感情を隠すように仏頂面を貼りつける。
「ここで良い。人の集まる所は嫌いだ」
確かにあの剣術は魅力的だった。でもそれが彼の人柄を保証するわけではない。警戒心を剥きだして答えるのは、人間不振のアルフレートにとっては当然のことだ。
「私も人が大勢集まる場は苦手です」
アルフレートの刺々しい態度を気にした様子もなく、彼は小さな皇子の隣に腰を下ろした。
「特に貴族社会は、人の本音を隠してしまうから、何が本当なのか分からなくなります」
闘技場を眺めながらぽつりと洩らした少年剣士のぼやきには、愚痴のような響きがあった。
だからつい共感してしまったのだ。
「人間は、多かれ少なかれ本心を隠しながら生きる生き物ではある」
そのせいでうっかり本音が出てしまった。
「だが、この社会は異常だ。表に吐きだされる言葉に真実はひとつもない。笑顔で人を褒めながら、心の中では嘲笑っている。信用できる人間など――」
徐々にエスカレートしていく感情につられて声を逸らせたアルフレートは、しゃべりすぎたことに気づいて、はっと口を閉ざした。
「他人を信用できないというのは、辛いことです。あなたはそれを強いられる環境のなかで育ったのですね」
同情めいた視線と口調を向けられて、アルフレートはむっとする。
「そなたに私の何が分かるというのだ」
眉尻をつり上げて反論すると、返ってきたのは予想外の言葉だった。
「そうですね。私にあなたの気持ちは分かりません」
同調でも否定でもない。ただの感想。そんな口調だったから、思わずアルフレートは相手の顔を覗き見た。
最年少の受験者――ユリウスは、笑うでも憐れむでもなく、ただ真っ直ぐに小さな少年を見つめている。
「私は恵まれた環境で育ったのでしょう。父と母を尊敬しており、良き友人も側にいてくれます。だからあなたの辛さを実感として推し量ることはできないでしょう。けれど理解したいとは思います」
「理解できたからといって、それでどうなる?」
きれい事などいらない――そんな心境で言い返すと、ユリウスは「そうですね……」と軽く首を傾げてから、意外な答えを口にする。
「一緒に泣くことはできます」
アルフレートの肩がぴくりと震えた。
――だからひとりで泣かなくてもいい。
そう言われた気がして、足元がぐらつく思いを自覚したからだ。
アルフレートはもういい加減、ひとりで耐え続けることに疲れていた。
このまま甘い言葉に乗ってしまえば楽になれる……その誘惑に強く惹かれたことは否定できない。
だがそれに縋っては駄目なのだ――と、自分に言い聞かせて、小さな皇子は歯を食いしばる。
「私は……泣いてはいけないんだ」
けれども、強くあろうとする意志とは裏腹に、弱音が口をついてこぼれてしまった。
「涙を見せれば、それが弱味になる。つけこまれる……」
声が震えて、言葉に詰まる。
じわりと視界が歪みかけて、アルフレートは拳を握りしめた。
泣くな、泣くな、泣くな――そう思うほどに、涙腺の制御が利かなくなって、自分自身の感情に苛立った。
こんな姿を見られてはいけない。早くこの場から立ち去らなければ――
そう思って立ち上がろうとしたときである。
ばさり、と何かが頭上から被せられた。
一瞬何ごとかと驚いたが、視界が白く染まって、自分の周囲に大きな影が落ちるのを見たアルフレートは状況を理解した。
ユリウスが自分のマントをアルフレートの体がすっぽり覆われるように被せたのである。
ぽんぽん、とマントの上から優しく背中を叩かれる。それが不思議と温かい。
「見られてはいけない涙なら、こうやって隠して守ります。だから今は、我慢しなくても良いのですよ」
アルフレートの目から涙がこぼれ落ちた。
静かに囁かれる声に、何故だがひどく安心させられる。
不意打ちのように触れた優しさに、アルフレートの理性の糸は切れてしまった。
ぼろぼろと溢れだす涙とともに、微かな嗚咽が口からこぼれる。
ずっと堪えていた感情のすべてを解放するように、小さな皇子はしばらくの間、泣きじゃくっていた。