Ⅲ.怒りの矛先①
「もう良い!」
ぐだぐだと諦め悪く言い訳を続けようとしたザムエル・ヒルデスハイマーを一喝した皇子が、椅子から立ち上がる。
ザムエルがびくりと身体を揺らし、カルステンさえも後退りしそうになった。
「ひっ」と小さな悲鳴をあげて元公爵が尻もちをつく。
怒りを滾らせてザムエルを睨む菫の瞳は、相手を射殺しそうなほどの凄みがあった。
「今の証言だけでも、貴公の罪は明白である! この場にいるすべての者たちがその証人だ。素直に自らの非を認めるのならばともかく、他者や臣下にその責任を転嫁させようなどとは愚劣の極み! 公爵の権限を傘に着て如何なる無理を通そうとも、そう簡単に道理が引っ込むとは思わぬことだ」
第一皇子殿下は母親である虚飾皇后によく似たお飾り皇子だ――そんな噂を耳にしたことがある。
(見誤るにも程があるだろう……)
噂のいい加減さを確認する思いで、ヒュッテンシュタット公カルステンは事態を見守った。
「ザムエル・ヴァルテンベルク・フォン・ヒルデスハイマー。正式な裁可が下るまで、貴公には謹慎を命じる。王都の屋敷にも領館にもすでに騎士隊を差し向けてある。逃げられるなどと思うなよ」
手回しが早いことだ。
常に先回りして動いていることが分かる。
抵抗する気力を一息に削がれたザムエルは、もはや憔悴しきって肩を落としていた。
アルフレート皇子は元公爵に興味を失ったように視線を移動させて、カルステンを見据える。
「ヒュッテンシュタット公。此度の告発がなければ、国は重大な犯罪を見逃し続けることになっていただろう。貴公の働きは称賛に値する。功績に見合った報奨を、と考えているが、何か望みはあるか?」
驚いたことに、カルステンに声をかけたときには、皇子の表情は平静さをとり戻していた。
空気すらも引き裂きそうだった怒りの気配が今は微塵もない。
普通なら余韻くらいは残しそうなものだが、それさえなく、皇子はただ静かにこちらを見ている。
カルステンへと視線を移すときの瞬きひとつ――たったそれだけで、感情を切り替えたとでもいうのだろうか。
あの甥が近衛を務めているのだから、無能ということはないだろう――それくらいの認識はあった。
しかしこの皇子は予想を超えた逸材かもしれない。
(それゆえに危うい……)
この潔癖さと苛烈さ……彼の治世が実現しうるとしたら、その行く末は平凡なものではあり得ないだろう。
とてつもない名君か。
あるいは、とんでもない暴君か。
きっと、そのどちらかになる――引きこもり公爵は漠然とそう考えて「面倒くさいなぁ」と内心で気落ちするのだった。
カルステンは膝を折って、改めて皇子に一礼する。
「過大なる評価をいただき恐悦に存じます。ひとつだけ、お願いを申し上げてよろしいでしょうか?」
「何だ?」
「こちらのオットマールの言い分を聴いていただきたいのです」
オットマールを連れてきた理由のひとつが、ここにある。
ただ、自分の意思ではなかったとはいえ、六年もの歳月、不正に手を貸していた事実がある。あまり良い感情はもらえないかもしれないと覚悟していたが、意外にもアルフレート皇子は穏やかな視線をオットマールに向けた。
「いいだろう。口上を許す。主張があるなら言ってみろ」
それは、どこまでも無感情な声音だった。
内容を聞いてから感情を決める。そんな腹づもりなのかもしれない。
おかげでオットマールの震えは収まったようなので、ありがたくはある。
「わ、私は……脅されたこととはいえ、決してやってはいけない罪を、犯してしまいました……」
おそるおそるといった様子で、オットマールが懺悔を始める。
「どんな事態になるか分かっていながら、我が身かわいさで公爵様に従い続け、結果として今、ヴァルテンベルク公爵領の領民は貧困に喘いでおります」
泣きだしそうな声で言葉を続け、ついにはその場に平伏した。
「どのような罰でも受ける覚悟はできております。ですが、どうか……何も知らぬまま、要らぬ苦労を強いられているヴァルテンベルクの領民をお救いいただきたいのです!」
オットマールはずっとその罪悪感に苛まれてきた。
ヴァルテンベルク公爵が処罰されたとしても、領民の十年は戻ってこない。
この贖罪を清算できなければ、オットマールは先に進めないのだ。
後悔を前面に出して懇願する領地管理人を前に、アルフレート皇子の表情は変わらなかった。
「領民のことはそなたが気にかけることではない。元より、民の安寧は国が保証するもの。その意味では、人材配置を誤った国のほうにも非はある。心配せずとも、新しい領主の選定には慎重を喫することになろう」
静かにオットマールを見下ろす皇子は、感情を見せないまま淡々と続ける。
「どのような事情があろうと公金の横領は重大な罪だ。しかし、そなたの告白がなければ此度の告発に結びつかなかったこともまた事実。さらに、そなたは自身の罪を自覚し、反省も後悔もしていることが分かった。すでに十分に苦しんだ者にこれ以上の追い打ちをかけるのは本意ではない」
オットマールの赦免理由には気遣いがあるように感じられるが、説明する声はどこまでも無感情だった。だからこそ、その内容に説得力が生まれる。
「とはいえ、けじめは必要だろう」と、言葉をつけ足すアルフレート皇子は、再びカルステンへと視線を戻した。
「オットマールの領地管理人としての資格を一時剥奪し、最大で一年間、見習いとして一からやり直すことを命じる。ヒュッテンシュタット公爵はオットマールが正しい勤めに立ち直れるよう監督せよ」
「イエス・ヤー・ハイネス」
カルステンは再度、片膝をついて礼をする。
その心中では、思った以上に寛大な処分内容に、安堵しつつも驚いていた。
「貴公の望みはないのか?」
皇子はもう一度、その問いを投げかけた。
カルステンが願いでたのはあくまでオットマールの望みであってカルステン自身のものではないだろう、と言いたいらしい。
「ヴァルテンベルク公爵は裁かれ、オットマールには恩情をいただき、私は満足しております」
「そうか……卿は無欲だな」
一瞬ぴりりと空気が緊張した気がした。
目線を上げると、皇子が値踏みするような視線をカルステンに投じている。
しかしそれも数秒のことで、すぐに視線は外された。
「今日はもう疲れた。残りの謁見は明日以降に変更する」
「では、そのように時間を調整しておきます」
宰相と短いやりとりを済ませたアルフレート皇子は、ヴァルテンベルク公爵のことを見ようともせず、謁見の間の奥へと立ち去ってしまった。
その背中には、怒りの残滓が見えた気がした。
近衛を務めるユリウスが物問いたげな視線でちらりとこちらを見てから、皇子のあとを追っていく。
結局、最後まで『最大の矛盾』に言及する者はいなかった。
皇子はそこに気がついていながらも指摘する気はなく、沈黙を貫いていた。
ザムエルは気がついていたかもしれないが、都合が悪いと思い込んで話題に上げることはしなかったろう。
一方は公正さのために事実を無視し、もう一方は保身のために知らぬふりを決め込んだ。
(結局は、あの男の想定通りになったわけか……)
これが政の世界なのだと理解はしている。だからこそ、自分には似つかわしくないとカルステンは思うのだ。
「疲れた……」
引きこもり公爵が忌憚なく感想をもらして嘆息する。
面倒くさがりなカルステンとしては、一年分の気力を使い果たした気分だった。
しかも最後にアルフレート皇子から妙な警戒心を抱かれた気もして、余計に面倒くさい。
ただの誤解なのだから、買い被りはやめてもらいたいところである。
「こんな面倒なことを日常的にやっているとは……気違いか、あの子爵……」
そんな言葉をぼそりと残して、カルステンは謁見の間をあとにするのだった。




