Ⅱ.ちょっとの違和感②
「今日も錬金術師の家に行くのか?」
軍服のジャケットに袖を通しながら、ユリウスが従妹に問いかける。
「そのつもりよ」
「あまり夢中になりすぎて、時間を忘れないようにな」
従兄の忠告はあまりに的を射すぎていた。
ウリカから乾いた笑いがもれる。
「帰りが遅くなりすぎないように気をつけるわ。昨日もそれでモーリッツとハイジにダブルで怒られたもの」
口うるさい執事と侍女への愚痴をこぼすように唇を尖らせる。
そんな従妹の頭を優しくなでたユリウスは、その頬にそっと口づけた。
家族としての挨拶代わりのキスである。
「いってらっしゃい、ユリウス」
母親にも同じように挨拶を済ませたユリウスが部屋の出口へと向かう。
「馬車の準備が整っております」
いつものように用意周到な執事が、心得たように主の剣をそっと差しだした。
「あとのことを頼む」
流れるような所作で普段通りに剣を受けとったユリウスが部屋を出る。
「いってらっしゃいませ、旦那様」
一礼して主を見送る長身の執事を、ウリカがじっと凝視する。
ユリウスが行ってしまったあとも見つめ続けていたら、ハインリヒが困惑気味に首を傾げた。普段見ないその表情がちょっと新鮮だ。
「どうかなさいましたか、ウリカ様?」
「二人ともずいぶんと他人行儀だなぁ、と思って」
ずばりとウリカが言い放つ。
「そうでしょうか? 主従として適切な距離感かと思うのですが」
多少なりとも動揺を見せるかと思っていた。的を射ている確信があったからだ。
しかしハインリヒはいつもと変わらぬ温度差で応じてきた。
本心から言っているのか、平静を装っているだけなのか、当人の眼をつぶさに観察しても判断がつかない。
そもそもの判断基準がユリウスの様子を見てのものだ。
ウリカはハインリヒの人柄をよくは知らない。
それでも、もうひと押しくらいはしてみたかった。
「普通の主従なら、そうかもしれないわね。けど、ハインリヒとユリウスは兄弟みたいに育ったと聞いているわ。もう少し砕けた雰囲気でもいいのではない?」
ハインリヒは少しだけ眉根を持ち上げてから、ふっと口元を綻ばせた。
「そうであったとしても、お互いの立場がある以上、線引きは必要かと思います。人目に触れる場では特に」
隙のない答えが返ってきた。
それ以上の詮索は無用と言われた気がする。
ウリカはこれと類似する感覚を知っていた。
そう。これはまるで――
(お父様と話しているみたいだわ……)
なんとも言えない徒労感に襲われて、少女は肩を落とした。
追及の糸口を失って対応に迷ったときである。
「うふふ」と、隣から楽しそうな声が聞こえた。
「ハインツは今、あの子に『いじわる』をしているのよね」
扇で隠すことをやめたカタリーナ夫人の口元がにんまりと曲線を描いている。
(あ、これは、人をからかうときの顔だ……)
長年の付き合いから、反射的にそう思った。
しかし、いま重要なのはそこではない。
カタリーナ夫人の発言が出た瞬間、ハインリヒがすいっと視線を外したのである。
図星を指されたのは間違いない。とっさに分かりやすく反応してしまったのは、完全な不意打ちだったからだろう。
「いじわる、ですか?」
夫人がその言葉をやけに強調していたのが気になった。
いじめられるユリウス――それ自体がもはやパワーワードではないか。
正直、興味しかそそられない。
「ふふ、そうよ。大方あの子が、ハインツに嘘をつくなり隠し事をするなりしたんでしょうけど」
「えっ!? ユリウスが嘘? 隠し事?」
あの従兄は『誠実の代名詞』とまで言われているのだ。
それが嘘だの隠し事だの不誠実な言葉に塗れようとは、予想外すぎてびっくりである。
「あの子、ハインツにだけは不誠実になることがあるのよ。甘えているのね、きっと」
カタリーナはくすりと笑うが、ハインリヒはむっとした表情で言い返した。
「本当に甘えたいのであれば、隠し事などしなければ良いと思いますが……」
「そう。隠し事のほうなのね」
夫人がさらりと真実を暴き、ハインリヒがぐっと言葉に詰まる。
執事の表情に「しまった」という文字が見えた気がした。
「互いに意地を張ってばかりでは、いつまでたっても他人行儀のままよ。二人ともまだまだ子供で、困ったものね」
大げさにため息をついて、カタリーナは立ち上がる。
「ごめんなさいねウーリ。私もそろそろ出かけなくてはならないのよ」
夫人は名残惜しげにそう告げた。
「気になさらないで伯母さま。戻ってきたばかりだもの。会いたがる友人たちは多いのでしょう」
カタリーナは社交シーズンの後半になって、夫の看病のために家にこもった。
そのあと王都から離れていたこともあり、シーズン中に会い損ねたご夫人方がたくさんいる。
ここ最近は、お茶会に誘おうと躍起になったご夫人方からたくさんの招待状をもらっているらしい。
元公爵令嬢だったカタリーナと繋がりを持ちたがる貴族は多い。
無下に断るわけにもいかないのが、貴族社会の厄介なところだ。
「あまり無理はしないでくださいね」
「あら。ウーリに心配してもらえるなんて、私は果報者ね」
夫人がにこりと微笑む。
「大丈夫よ。無理はしていないわ。せっかくのお茶会ですもの。良い話をたっぷりと聞いてくるわね」
含みのある言い方で答えるカタリーナの唇が美しく弧を描く。
細められた暗赤色の瞳が獲物を捕食するような妖艶さできらりと光りを放った。




