Ⅱ.貴族たちの噂話②
ユリウスとジークベルトは揃ってきょとんと目を瞬かせる。
「どういうことですか?」
首を傾げるジークベルトと同様に、ユリウスも眉をひそめて子爵を見る。
まるで、事実は必要ない、とでも言いたげな論説に理解が及ばない。
ステファンは納得がいかない様子の子供たちに向かって、くすりと笑う。どうやらすこし呆れているらしい。
「ジーク……皆がみんな、お前のように事実を暴きたがると思わないほうがいい。人というのは自分に都合のいい事柄を信じたがるものなんだ」
「なぜ?」
「そうしたほうが事実に向きあうより楽だからだよ」
「楽?」
ステファンは粘り強く息子の疑問に答えていく。
「言い方を変えれば、そうすることで平常心を保とうとする、ということだ」
貴族社会は常に緊張感が漂っていると言っても過言ではない。
心の平常・平静を保つには相応の胆力が必要になる。それゆえ、責任や圧力に耐えかねて現実逃避する者がいるのも確かだ。
だがジークベルトは、なおピンとこないという顔で言ったものだ。
「そうしないと平常心は保てないものですか?」
「うん。お前の精神力が怪物並みなのは知ってるが、心底不思議そうに言われると、もう説明のしようがなくなるね」
ステファンはどこか諦めたように天を仰いだ。
ユリウスとしても、感心していいのか、呆れるべきなのか、判断に迷う。
「とりあえずジークは、自分が稀有な存在であることを自覚しなさい。その上で、人間とはそういうものなのだと理解することだ」
「……分かりました。人間の多くは自分に都合のいいものを信じたがる傾向にある。それを踏まえた上で考えればいいんですね?」
存外素直に頷いたのは、人生経験において、父親のほうがはるかに上回っていることを分かっているからだろう。
ステファンは気をとり直すように姿勢を正すと、これまでの話をまとめた。
「まず、ユリウスとウーリの噂が、それを好都合と考える貴族たちを中心に広がっていった。そして、その内容を事実だと信じたがる者たちの間で、信憑性を帯びるものに変化していった。そうして、思い込みによる噂話は、彼らの中で事実と相違ないものになった」
「クライルスハイム伯爵は、その噂を信じた者のひとりなんですね」
「そういうことになるだろうね。彼には元々、君に婚姻話を持ち込める材料がなかった。そういう状況で、この噂話はさぞ都合が良かったことだろう」
「しかし、だからといって、どうしてウーリに求婚しようなんて話になるんでしょうか?」
ユリウスの疑問に答えたのはジークベルトだった。
「ユリウス兄さんの気を引くためではないでしょうか。仮に件の噂が真実であった場合、姉上が求婚されて無視はできないでしょう?」
「まあ……そうだな」
実際のところは『一緒にいるとなんだか疲れる妹分』くらいにしか思っていないから、縁談の話を聞いても、あいつもそんな年齢になったんだなぁ、としか思わなかったわけだが。
「どんな形でも、とりあえず気を引くことができれば良かったんだと思います」
「悪感情を好意にすり替える方法なんて、いくらでもあることだしね」
ステファンがそう補足するが、そんなことをさらりと言えてしまうのが、この子爵の恐ろしいところだ。
「つまりクライルスハイム伯爵は、ウーリをきっかけにして、俺と親しくなろうとしている、ということですか?」
「君は次期皇帝の最有力候補である第一皇子――その唯一のお気に入りだからね。ユリウスと親しくなれれば、上級貴族を出し抜いて宰相の座が手に入るかもしれない。クライルスハイム伯がそう考えたとしても不思議はない」
「だとしても、宰相の座とは……大胆なことを考える」
例がないわけではないが、上級貴族を差し置いて伯爵が宰相になるなど、容易ではない。
仮になれたとしても、厳しい目で手腕を問われることになる。
それでも目指そうというのだろうか。
ユリウスの表情から思考を読みとったらしい。ステファンがくすりと笑う。
「彼は自分の政治的才覚にずいぶんと自信があるみたいだったからね」
揶揄的だが、どこか同情めいた響きがある。
「よく伯爵本人からそれだけの情報を引きだせましたね」
「相手を侮って下に見ると、人は口が軽くなるものだ」
事もなげに答える子爵の姿に、ちょっとだけ背筋がひやりとする。
無能を装い相手を油断させる。それがステファンの常套手段なのだろう。
貴族社会で流れる『シルヴァーベルヒ子爵ポンコツ説』は、この人が自分でばら撒いた噂なのではないか――そう疑いたくもなるというものだ。
つくづく敵に回したくない人だ。
紅茶を飲み干してひと息ついたジークベルトが、複雑そうな表情で肩を落とす。
「話をまとめると、勘違いと願望から広まった噂をうっかり信じた伯爵が、見当違いの縁談を持ち込んだあげく、今ここで物笑いの種になっているということですね……社交界って怖いなぁ」
身も蓋もない総まとめをして遠い目をする。
「まあ……迷惑な話ではある」
ステファンが同意するように頷いてから、ユリウスを見る。碧い瞳が鋭利な光を放った気がした。
「ユリウスの気を引きたいなら、君に直接求婚すればいいものを……」
「目が本気です。怖いです。やめてください」
反射的に拒絶の言葉が滑り落ちる。だって殺気が飛んできて本気で怖い。
自分の可愛い娘がダシに使われて腹立たしいのは分かるが、これに関してはユリウスも被害者だ。責められても困る。
「父上。くだらない冗談でユリウス兄さんを困らせるのはやめてください」
ジークベルトが父親に対して叱りつけるような低い声を浴びせた。
ステファンはただ笑う。人の悪い笑みだった。
冗談なのに殺気を飛ばしてくるなんて、悪趣味な人である。
「とりあえず、今後しばらくはクライルスハイム伯爵の動向に気を配っておくことにします」
鳥肌のおさまらない左腕をさすりながら、ユリウスは吐息した。