Ⅰ.子爵からの忠告②
「人の息子を勝手にナンパしないでもらえるかな」
ふいに冗談めかした声が聞こえてきて、ユリウスは沈みかけた思考の波から浮上した。
顔を上げて視線を左方向に移動させると、客間の入口に赤毛の子爵が立っているのが見えた。
ユリウスを見る碧眼が、からかうような光を湛えている。
彼がここにいるということは、クライルスハイム伯爵はもう帰ったのだろう。もしかしたら、ユリウスと入れ違いだったのかもしれない。
「ここに来るのは久しぶりだね、ユリウス。思ったより元気そうで、安心したよ」
ステファンがユリウスの対面に腰を下ろすと、ハイジが心得た様子でお茶を注ぐ。
子爵は紅茶を一口飲んで息を吐きだすと、満足げに頬を緩めた。お気に入りのブレンドなのかもしれない。
「ここ最近は大変なことも多かったですけど、ステファン卿にサポートしていただいたおかげで、何とか乗り切れました」
エーリッヒが病に倒れてから今日まで、ステファンは仕事や家督相続の手続きなど、ユリウス一人では手が回らないことを手伝ってくれていた。
彼が「安心した」と言ったのはそこも含めてなのだろう。
「今日は思いがけず時間ができたもので、久しぶりに来てみたのですが、間が悪かったようですね」
「いや、いいところに来てくれたよ。聞きたいことがあったんだ。ユリウスはクライルスハイム伯爵を知っているか?」
「クライルスハイム伯……」
ユリウスはしばし黙考して記憶を掘り起こす。
「確か北西のマグデブルク公爵領に領地を持っている社交性の高い人物だったかと」
「会ったことが?」
「一度だけ声をかけられたことがあります。近衛騎士になった直後に、その就任を祝ってくれましたが、あまりいい印象は受けなかったですね」
ステファンが笑う。苦笑と失笑を混ぜたような笑い方だった。
「その様子だと、ジークの予想通り、今回の縁談はあまり良い話ではなさそうですね」
ユリウスが確認するように尋ねると、なぜかステファンはにやりと口の端をつり上げた。
「昼食がてら伯爵と話をしたんだが、彼はウーリよりも君に興味があるみたいだったよ」
含みのある言い方だった。だがそれだけでは、まだ話が見えてこない。
ステファンが意味深に笑いを深める。
「何かと君の話を引きだそうとしていたんだ。人柄を特に知りたがっているようだったね」
なるほど。やたら楽しそうに笑うのはユリウスの訪問がタイムリーだったからか……。
相変わらず人の悪い笑顔である。
この腹黒子爵のことだ。そう簡単に情報をくれてやったはずはない。決定的なことは何も言わず、相手を煙に巻く姿がありありと想像できた。
「ちなみに、彼は宰相の地位にも強い関心を持っているようだ」
なんでもないことのように子爵は言うが、たかが会食の雑談でどうやって相手の口を滑らせたのか……。
思い通りに情報を引きだすステファンに空恐ろしさを感じるが、いま重要なのはそこではない。
「宰相の地位……つまりディルクハイム侯の後釜か、あるいは失脚を狙っているかもしれない、ということでしょうか?」
「その可能性は高いだろうね」
現在宰相を務めるディルクハイム侯爵は五十六歳で高齢だ。そろそろ世代交代の話が出てもおかしくはない。
だが一方で、皇帝からの信頼が厚く、身体の続く限りその地位を降りることはないだろう、という予想が有力でもある。
クライルスハイム伯爵は二十六歳。
「年齢を考えれば、後継の座を狙っている可能性が高そうですが」
「そうだね。けど、出世欲が強ければ、ディルクハイム侯の退陣を待ちきれなくなるかもしれない」
その場合は、なんらかの方法で侯爵の失脚を狙いにいく腹づもりもあるだろう、とステファンは指摘する。
クライルスハイム伯爵と言葉を交わした子爵がそう判断するのなら、信憑性は高そうだ。
しかしこの話で、どうしても分からないことがひとつある。
「でも仮にそうだとして、それがどうウーリに繋がるのでしょうか?」
皆目見当もつかず、ユリウスは首をひねる。
ステファンはわずかに眉を下げて、苦味成分が強めの笑みを浮かべた。
「そこなんだが……どうやら彼は、君とウーリが特別な関係にあると思っているようなんだ」
「……は?」
つい低い声が出てしまった。
眉間にしわが寄るのを自覚する。
ユリウスにとっては、小生意気な幼馴染みでしかないウリカである。あの少女を女性として見たことは一度もなく、まさに寝耳に水というやつだ。
ステファンが肩を竦める。
「一部でこんな噂がある……ベルツ卿はウリカ・フォン・シルヴァーベルヒに想いを寄せていて、彼女が大人になるまで待っているのではないか、とね」
眉間のしわが深くなる。
心の底から心外な話だった。
「何故そんな話に……?」
苦悩するように吐きだすユリウスに、子爵はくっと咽喉を鳴らす。
「十九歳になってもいまだ、結婚はおろか浮いた噂ひとつ出てこないからだよ」
なにを当たり前のことを、と言わんばかりだ。
確かに結婚を考えて不思議のない年齢ではある。目の前にいるステファンはさらに若い十八歳の時に結婚しているのだから。
だがしかしそれにしても……と思うのだ。
ユリウスは眉間のしわを伸ばすように、親指を額にあてる。
「だとしても、短絡すぎませんか?」
「ユリウス、何でも自分を基準にして考えてはいけない。人の多くは短絡的なものだ」
そう指摘を受けても、熟考型のユリウスには首肯し難いものがあった。
同じように考えたのか、ジークベルトも不思議そうに首を傾げている。
二人の様子にやれやれと大げさに首を振ってから、ステファンは補足を入れる。
「上級貴族の中には、噂の通りだと都合がいい、と考える者も多い」
「都合……ですか?」
怪訝に眉をひそめると、それを見たステファンの表情から笑みの成分が消えた。
「ユリウス……君は周りからの評価をもう少し気にしたほうがいい。俺たちがいる貴族社会は、常に他人の目が光っている場所だ。自分がどう見られているか、きちんと把握しておくべきだよ」
忠告めいたその言葉に、若干の反感情が生まれる。
「俺は他人の評価に踊らされたくありません。人にどう批評されようと、俺自身の価値や存在意義が失われるわけじゃない」
これまで貴族社会の理不尽さにずっと晒されて生きてきた。ユリウスはユリウスなりにその理不尽と戦ってきた自負がある。だから少し意地になった。
ステファンが苦笑する。
「若いねぇ……本質的にはエーリッヒにそっくりなくせに、どうして妙なところだけ俺と似てるのかな、君は」
彼はどうやら自嘲しているようだった。
「俺も、昔は同じように思っていたよ。他人の評価を気にしてなんになる。自分には関係ない。そう思って、無関心を気どって満足していた」
目を伏せて小さく息を吐くと、ステファンは静かな声で続けた。
「そのせいで、大切な友人を失ったよ」
その声には実感が嫌というほどこもっていた。
実体験による後悔の念。それがあるからこそ、忠告せずにはいられなかったのかもしれない。
そう気づいて、ユリウスは自分の浅く軽率な思考を恥ずかしく思った。
返す言葉が見つからず、わずかな戸惑いとともに、若き伯爵は琥珀の瞳を床に落とした。