Ⅳ.ステファンの思惑②
ウリカの自室は淡い緑の色調で統一されている。
必要最低限にしか物が置かれていないのは、ウリカ本人がしょっちゅう出歩いていて、部屋の使用頻度が低いからだろう。貴族令嬢の部屋としては少し殺風景な印象だ。
『変わり者令嬢』らしいともいえる部屋の中で、二人はのんびりと食事を楽しんでいた。
「ひとつ引っかかっていることがあるのだけれど」
スープで喉を潤してから、ハイジが話を切りだした。
「今日ウーリが脱走したのって、もしかして……」
「十中八九、父上の差し金だろうね」
ジークベルトは事もなげに回答する。
「脱走防止の観点から見れば、あの対策は詰めが甘すぎる。父上にしてはね……。なのにそのあとの対応は、用意周到ともいえる完璧さだった。ハイジもそこに不自然さを感じたから疑問を持ったんでしょ?」
「そうね。違和感があるな、と思ったの」
「そもそも、脱走を本気で防ぎたいなら、もっと簡単で、かつ確実な方法があるしね」
「簡単で確実?」
「姉上だって、伯爵家との縁談の日に逃げだしたらどんな問題に発展するか、それを想像できないほど馬鹿じゃない」
「あっ……!」
黒い両眼がはっと見開かれる。
ハイジも気づいたようだ。
「そう。昨夜のうちに釘を刺しておけばいいだけなんだよ」
突飛な行動が多いウリカでも、分別はちゃんとある。前日の寝る直前にでも縁談があることを念押ししておけば、脱走を図ろうなんて考えないはずだ。
なにかと派手な行動に目が眩んで、当たり前のことを失念していただけのこと。
「おそらく父上は昨晩、今日の予定を念押しする代わりに、別の――姉上の興味を掻きたてることを言ったんだと思う」
「内容によっては、居ても立ってもいられなくなって、日の出とともに行動してもおかしくはないかもね、ウーリの性格なら……」
いや、あの娘なら陽が昇る前に動きかねないな――とハイジは呆れたように吐息した。
「今回の話は、父上が乗り気じゃなかったせいもあって、みんな表立っては口を噤んでるようなところがあったから、姉上の意識も薄れていたはずだし」
「ウーリも今回の話には興味なさそうだったから、余計かもね」
それすら全てステファンの計算に入っていたのだとしたら、恐ろしいことだ。
「けど、どうしてそんな回りくどいことを?」
直接本人に事情を説明すればいいだけではないのか――その疑問は尤もだ。
ジークベルトは頭の中で情報を整理しながら説明を始める。
「まず前提として、今回の縁談は断るつもりだった」
ハイジがひとつ頷く。
子爵が始めからそのつもりだったのは彼女も知っている。
しかし――
「そのためには、姉上の代役を立てる必要があった」
「なぜ?」
ここが分からない。
伯爵の人柄を確かめるだけなら、ハイジが身代わりになる必要はないはずだ。普通に付き添いとしてその場にいればいいのだから。第一、そちらの方がずっと自然だ。
ジークベルトが出した結論はひとつ。それは――
「クライルスハイム伯爵の力量を測るため」
ハイジは驚きに目を丸くする。
ジークベルトは説明を続けた。
「観察眼、推察力、対応能力。それらを正確に把握することで、判断材料を増やすことができる。それは今後の対策で役に立ってくるはずだ」
伯爵がこのまま素直にウリカとのことを諦めるとも思えない。貴族の婚姻は恋愛感情以外の理由で結ばれることのほうがずっと多いからだ。
そうした場合、次の対策が必要になってくる。
つまりこれは、その場凌ぎの茶番ではなく、もっと先を見越しての対応ということだ。
サンドイッチの最後の一切れを口に放り込んでひと呼吸置いたあと、ジークベルトは口の端をわずかにつり上げた。
「ちなみに、伯爵は目の色の違いに気づかなかったみたいだね」
ハイジがはっと目を瞬く。
身代わりの指示があったとき、あの当主はこう言った。
――髪色だけカツラで隠して、あとは終始伏し目がちにしていれば誤魔化せるだろう。
これには、大雑把だな、という印象が拭えない。
いくらクライルスハイム伯爵がウリカと面識を持っていないとはいっても、血も繋がっていない赤の他人を身代わりにしてこの程度の偽装で済ませるなんて、軽率だとしか思えない。
だがジークベルトはさっき、ステファンの対応が用意周到だったと言っていた。
つまり、あえてハイジの黒目をそのままにして、クライルスハイム伯爵がそれに気づくか試したことになる。
確かに、観察眼に優れた人物なら、違和感を抱くくらいはしたかもしれない。
だが、伯爵にその様子はなかった。
「代役を立てた理由は分かったけど、万が一でも気づかれたら、どうするつもりだったのかしら」
「それが回りくどいことをした理由だよ」
「どういうこと?」
「万が一身代わりがバレた場合、事態の責任をすべて自分で背負うため」
席を立って窓際まで移動したジークベルトが窓を開け放つ。
穏やかな風が、部屋の空気ごと気分を入れ替えてくれるような気がした。
新鮮な空気を吸って頭をスッキリさせたジークベルトは、ハイジに向き直って、緑色の双眸に好奇の色を宿す。
思考をまとめて考察する作業が、少年は楽しくなり始めていた。
「もっと正確に言えば『無能な子爵が娘の管理に失敗して失態を犯した』という既成事実を作っておくため……かな」
「つまり、家族や使用人を守るため、ということ?」
「そう。屋敷ぐるみで伯爵を謀ったとなれば大問題になるけど、無能な当主が間抜けな失態を犯しただけなら、大目に見てもらえる可能性は高い。クライルスハイム伯爵が打算で動く人なら余計にね」
「確かに……自分の評判を落としてまで、くだらない失態に目くじらを立てたりはしないでしょうね」
「父上ひとりが情けない汚名を被るだけで済む。実質的な損害はゼロだ」
我が父ながら面倒くさいことを考える。
ジークベルトは呆れたように肩を竦めた。
「でも、それなら尚のこと、事情を説明して口裏を合わせたほうが、手っとり早いんじゃない?」
「それは多分、みんなが確実にシラを切り通せるように、じゃないかな」
「本当になにも知らなければ口の割りようもない、ということかしら?」
「そうだね。あとは、事実との齟齬をなるべく少なくしておきたかったんだと思う」
「なるほどね……」
納得したようにハイジは頷いた。
同時に、どこか毒気を抜かれたような表情で吐息する。
朝方ウリカに対して噴出した怒りの感情はすっかり霧散してしまったらしい。
無理もない。結局は当主の策略に振り回された形なのだ。脱力して当然だろう。
「それにしても、そこまで旦那様の思惑を読みとれるなんて、さすがジークね」
苦笑しながらもハイジは少年を称賛する。
しかし当のジークベルトは、ぎくりと顔を強張らせた。
なんだかイヤな予感がする。
言葉の続きを聞いてはいけない気がした。
「やっぱり、あなたが一番旦那様に似て……」
「それは言わないで!」
ジークベルトはとっさに右手を突きだして、ハイジの言葉を遮った。
かなり強めの語調になってしまったが、彼女はそれほど驚いた様子もなく、なんならちょっと笑ってさえいる。
(ハイジのいじわる……)
嫌がるのを分かって言ってるんだな――と知りつつも、ジークベルトは主張せずにいられなかった。
「父上のことを尊敬してはいるけど、僕が目標にしてるのは……」
敬愛している人物の名を出そうとした、まさにその瞬間のことである。
外から馬車の走る音が聞こえてきて、ジークベルトは反射的に振り返った。そのまま身を乗りだすように窓外を覗きこむと、裏門から一台の馬車が入って来るのが見えた。
緑色の双眸が、馬車に描かれた紋章を確認する。
剣の模様にヴェロニカの花を散らした家紋――ジークベルトは考える間もなく、部屋を飛びだしていた。
【第一章 シルヴァーベルヒ】終了です。
・シルヴァーベルヒ家の皆さん
・錬金術師ウィリアム
・皇子アルフレート
・近衛騎士ユリウス
以上、メインとなるキャラクターたちをざっと紹介する感じの内容ですね~