プロローグ
少女はメイド服に身を包んで姿見の前にいた。
貴族屋敷の一室。使用人専用として使われている支度部屋に、今は彼女ひとりだけ。
まだ一の鐘が鳴る前の早朝だから当然だ。
濃紺のロングワンピースにフリル付きの白エプロン。それに頭飾りを付ければ、この屋敷で働くメイドの証となる。
しかし、襟元のリボンをきれいに結んだ彼女は、長い褐色の髪をハーフアップにしただけで、頭飾りは付けなかった。
令嬢の侍女を務めるハイジには必要のないものだからだ。いわば立場を明確に示すための特別な正装に他ならない。
ハーフアップの結び目に素朴な碧いバレッタをパチリと止める。お気に入りの髪飾りを鏡越しに見つめて、黒い瞳を満足げに細めた。
ハイジは鏡の前でくるりと回る。ステップを踏むような軽やかさに、スカートがふわりと舞い上がり、裏地に施された白い綿織物がちらりと姿を見せた。
「うん。型崩れなし」
背面で結んだエプロンのストラップがきれいなリボン型になっていることに満足して、部屋を出る。
使用人専用の階段を軽い足どりで上がって向かう先は、彼女が仕える令嬢の寝室だった。
「今日は太陽が元気ね……」
廊下を明るく照らす朝陽に目を細めて、ハイジは独りごちる。
夏の終わりは近いはずだが、それを感じさせない陽光が、この日の晴天を告げていた。昨夜降り続いた雨が嘘のようなさわやかさだ。
ローヒールのショートブーツでコツコツと軽快な音を響かせて廊下を歩くハイジは、やがてぴたりと足を止めた。
目的の部屋の前で、その扉――使用人部屋とは違う、両開きの大きな扉をじっと見つめる。
緊張はしていない。それは彼女と無縁のものだ。ただ、小さな不安がちくりとその胸を刺激する。
コンコン、と扉を叩いてから、ハイジは部屋の中へと声をかけた。
「失礼いたします、お嬢様。起床のお時間でございます」
返事はなかったが、別にそれは気にならなかった。これだけ早い時間なのだ。まだ寝ていても不思議はない。
彼女が異変を悟ったのは、部屋に一歩、足を踏み入れたあとだった。
静かに押し開けた扉が、いつもより少し重く感じた。さらに風に乗って雨上がりの独特なにおいが鼻先をかすめ、小鳥のさえずりが耳朶を打つ。
閉めきった部屋ではあり得ない感触に五感を刺激されたハイジは、室内を覗きこんで目を瞠った。
状況は一目瞭然。
布をつないで作ったロープが、ベッドの天蓋を支える柱から、開け放たれた窓の外へと伸びている。
急いで窓辺に駆け寄ったハイジは窓外を見下ろした。
脱出に使われたであろう布製ロープが、風に吹かれて力なく揺れている。
令嬢らしからぬ脱出方法はしかし、この屋敷では茶飯事のことだった。
「最近おとなしくなさっていたから、油断したわ……」
悔恨に歯噛みする少女の脳裏に、屋敷をとりしきる執事の言葉がふと蘇った。
――お嬢様は明晰な頭脳をお持ちだが、好奇心が先にたつと途端に記憶力が怪しくなるのが困りものですな。
それは揶揄するような口調だったから、笑って応じた覚えがある。
いま思えば、なんて軽率なことだろう。こんな事態は十分に予測できたはずなのに、あのときの自分はそれを想像すらしなかった。
自分のバカさ加減に腹が立つ。
「ふっ、ふふふ……」
咽喉の奥から低い笑い声が押しだされた。
窓辺を通り過ぎる穏やかな風が、そっとハイジの頬をなでる。今はそれがひどく不快に感じた。
ふいに、艶をおびた唇が美しい弧を描く。
「今日ばかりは許しませんことよ、ウリカお嬢様」
ハイジは、風にそよぐ布を黒い両眼で静かに見つめる。怒りを湛えた双眸が、ゆらりと黒い光を放って鈍く輝いた。