表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
たかが子爵家  作者: 鈴原みこと
序章
1/133

プロローグ


 少女はメイド服に身を包んで姿見の前にいた。

 貴族屋敷の一室。使用人専用として使われている支度部屋に、今は彼女ひとりだけ。

 まだ一の鐘(午前六時の報)が鳴る前の早朝だから当然だ。

 濃紺(のうこん)のロングワンピースにフリル付きの白エプロン。それに頭飾り(ホワイトブリム)を付ければ、この屋敷で働くメイドの証となる。

 しかし、襟元(えりもと)のリボンをきれいに結んだ彼女は、長い褐色(かっしょく)の髪をハーフアップにしただけで、頭飾り(ホワイトブリム)は付けなかった。

 令嬢の侍女を務めるハイジには必要のないものだからだ。いわば立場を明確に示すための特別な正装に他ならない。

 ハーフアップの結び目に素朴な(あお)いバレッタをパチリと止める。お気に入りの髪飾りを鏡越しに見つめて、黒い瞳を満足げに細めた。

 ハイジは鏡の前でくるりと回る。ステップを踏むような軽やかさに、スカートがふわりと舞い上がり、裏地に(ほどこ)された白い綿織物(モスリン)がちらりと姿を見せた。

「うん。型崩れなし」

 背面(はいめん)で結んだエプロンのストラップがきれいなリボン型になっていることに満足して、部屋を出る。

 使用人専用の階段を軽い足どりで上がって向かう先は、彼女が仕える令嬢の寝室だった。

「今日は太陽が元気ね……」

 廊下を明るく照らす朝陽に目を細めて、ハイジは独りごちる。

 夏の終わりは近いはずだが、それを感じさせない陽光が、この日の晴天を告げていた。昨夜降り続いた雨が嘘のようなさわやかさだ。

 ローヒールのショートブーツでコツコツと軽快な音を響かせて廊下を歩くハイジは、やがてぴたりと足を止めた。

 目的の部屋の前で、その扉――使用人部屋とは違う、両開きの大きな扉をじっと見つめる。

 緊張はしていない。それは彼女と無縁のものだ。ただ、小さな不安がちくりとその胸を刺激する。

 コンコン、と扉を叩いてから、ハイジは部屋の中へと声をかけた。

「失礼いたします、お嬢様。起床のお時間でございます」

 返事はなかったが、別にそれは気にならなかった。これだけ早い時間なのだ。まだ寝ていても不思議はない。

 彼女が異変を悟ったのは、部屋に一歩、足を踏み入れたあとだった。

 静かに押し開けた扉が、いつもより少し重く感じた。さらに風に乗って雨上がりの独特なにおいが鼻先をかすめ、小鳥のさえずりが耳朶(じだ)を打つ。

 閉めきった部屋ではあり得ない感触に五感を刺激されたハイジは、室内を覗きこんで目を(みは)った。

 状況は一目瞭然。

 布をつないで作ったロープが、ベッドの天蓋(てんがい)を支える柱から、開け放たれた窓の外へと伸びている。

 急いで窓辺に駆け寄ったハイジは窓外を見下ろした。

 脱出に使われたであろう布製ロープが、風に吹かれて力なく揺れている。

 令嬢らしからぬ脱出方法はしかし、この屋敷では茶飯事のことだった。

「最近おとなしくなさっていたから、油断したわ……」

 悔恨に歯噛みする少女の脳裏に、屋敷をとりしきる執事の言葉がふと(よみがえ)った。


 ――お嬢様は明晰(めいせき)な頭脳をお持ちだが、好奇心が先にたつと途端に記憶力が怪しくなるのが困りものですな。


 それは揶揄(やゆ)するような口調だったから、笑って応じた覚えがある。

 いま思えば、なんて軽率なことだろう。こんな事態は十分に予測できたはずなのに、あのときの自分はそれを想像すらしなかった。

 自分のバカさ加減に腹が立つ。

「ふっ、ふふふ……」

 咽喉(のど)の奥から低い笑い声が押しだされた。

 窓辺を通り過ぎる穏やかな風が、そっとハイジの頬をなでる。今はそれがひどく不快に感じた。

 ふいに、艶をおびた唇が美しい弧を描く。

「今日ばかりは許しませんことよ、ウリカお嬢様」

 ハイジは、風にそよぐ布を黒い両眼で静かに見つめる。怒りを(たた)えた双眸(そうぼう)が、ゆらりと黒い光を放って鈍く輝いた。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ