水色の月、疫病神の目覚め
「…綺麗な月」
コーヒーの入ったマグカップで両手を温めながらクロエは呟いた。
北東の森の奥深く。
彼女が所属するアシナ王国最強の軍隊「王属十字軍」。
その中でも精鋭のみで構成される第一師団は、ある『特別任務』のため、湖の近くを野営地として身体を休めていた。
ここに着くまで3日間、強力な魔物と闘い森を歩いた。
周囲の兵達は、体力的にも精神的にもかなり限界に近いはずだ。
クロエの耳に遠くで不満をもらす兵達の声が聞こえてきた。
「たく、こんなボス級の魔物がゴロゴロ棲む森に俺たち一般兵まで借り出しやがって。まともに休憩もできやしねえ」
「そういうなアストン。
マヒロ団長なんて今頃神巣の洞の中で文字通り神級の敵と戦ってんだぞ。
お前団長の代わりに『疫病神』と戦えるか?
団長みたいな『耐性者』じゃなきゃ、息に触れただけで即死らしいぞ」
「嫌に決まってんだろ」
「じゃあ文句言うな。
団長が『疫病神』との闘い前に余計な力使わないよう、俺たち一般兵が森の雑魚敵を払う。
それが王から命じられた俺たちの任務だ」
「雑魚敵って、副団長や兵長からしたらって話だろ?俺たちにとっちゃA級魔物は怪物同然だろうが」
不満をもらし水筒の中身をごくごくとのみ干すと、一等兵のアストンは立ち上がった。
「どこいくんだ?」
「小便だよ」
アストンは湖まで歩き水際で立ち止まる。
「たく、早く町戻って綺麗なエルフちゃんたちとパブで一杯やりてえなー」
アストンがズボンのベルトに手をかけたときだった。
トプン・・・
静かな泡音が聴こえた直後、水中から巨大な鯉のような水獣が宙高く飛び上がり、アストン目掛け牙をむける。
「くそ!」
スパン―、スパン―
美しいほど軽やかな斬撃音の直後、アストンの目の前には一瞬にして亡骸となった水獣が水面に浮かんでいた。
その上に立つ、クロエが刀の血を払い鞘に納める。
水しぶきに濡れつやめく黒髪を、水色の月の光が照らしていた。
「怪我はないですか?アストン一等兵」
「あっ、ああ」
優しく声をかけるクロエに、アストンは動揺し返す言葉につまった。
「ならよかったです。危険ですからあまり水面には近づかないように。
それと…あの、用を足すなら簡易トイレに」
クロエは恥ずかしそうに顔をそむけ、簡易トイレのある茂みを指差しながら告げる。
その光景を見て笑う周囲の兵の反応にアストンは苛立ちと羞恥心で顔を赤くした。
「クロエ兵長、二度と俺に指図するな」
吐き捨てるように告げ、アストンはクロエに背を向け茂みの方に向かった。
「化け物の妹も化け物だな。粋がりやがって」
去り際にアストンの呟きが耳に入ったが、クロエは聞こえなかったふりをして元いた岩の上に腰を下ろす。
「すまないね。クロエ兵長、皆疲弊してストレスが溜まってるみたいだ」
隣に副団長・ブラッドがやってきて優しく声をかける。
「大丈夫です。気にしてませんから」
「この兵団は、戦士あがりの粗暴な男ばかりだからね。唯一の女性で最年少の君が上官ってことに不満をもつ古い考えのものもいる。
特にアストン一等兵はその典型だ。
私からも彼にはきつく注意しておくよ」
「ブラッドさん。心遣いありがとうございます。でも、兵士になると決めてから覚悟は決めてますから。私はただ私の責務と正義に従って行動するだけです」
「君は本当に団長そっくりだね」
ブラッドは頬を緩め、森の奥に視線を向けた。
その先には洞の入口がある。
数時間前クロエの兄であり、団長のマヒロがただ1人中に入っていった。
数十年に一度目覚める厄災の王・疫病神トキシカントを討伐するために。
『皆ここまでの道のりをよく持ちこたえてくれた!
ここから先は俺一人で行く。
朝日までには必ず戻るから、それまで各自この場所でしっかり体を休めるように』
クロエは洞に入る直前のマヒロの言葉を思い出し不安げに俯いた。
「団長のことが心配かい?」
「いえ。上官の言葉を信じるのが部下の務めですから。それと、任務に私情は挟まないので」
「私情をはさむなら、心配って意味かな?」
「…はい。正直に言うと。できるなら、私も一緒に闘いたいです」
「たしかに、マヒロと同じ『耐性者』の血を引く君や、防護魔法を使いこなせる僕なら疫病神の邪気に触れても即死は免れるかもしれない。
でも…相手はかつて国をも滅ぼした厄災の王。
闘えるかどうかは別の話だ。
それにあのマヒロが仲間や君を危険にさらすことを許すはずがないだろう」
「自分以外は洞に近づくな。それが団長命令ですもんね」
「ああ、団長命令を部下に従わせるのも副団長であるわたしの責務だしね」
「…兄は自分が死んでも、疫病神を祓うつもりですよね?」
ブラッドは不安気なクロエの視線から思わず目を逸らす。
もしもマヒロの心臓が止まったら、そのときは、軍の魔術部隊がかけた、強力な『死後の結界術』が発動する。
半径約10メートル以内のものを外界から封印する結界術。
仮にマヒロが敗れたとしても、自身ともども疫病神を洞に閉じ込めることができる。
それが、上層部の思惑だった。
マヒロも「自分の命で国民の命が救えるなら」と快く上層部の決断を受け入れた。
「あいつとは長い付き合いだからね。誰よりもあいつの強さを近くで見てきた。
厄災の王やら疫病神やら大層な肩書きをもってるようだけど、マヒロが負けるわけが無い」
「はい」
力強いブラッドの言葉にクロエは静かに微笑みを返した。
「でも、あの中に本当に疫病神がいるんでしょうか?」
「どうだろうね。占星者様の預言にすぎないから。ただもし本当にいたとしたら…
この世界を救えるのはマヒロだけだ」
クロエは月を見上げると、祈るように呟く。
「兄さんどうか、ご武運を」
――神巣の洞、深部66層。
「ふー、さすがに空気が薄いな」
マヒロは水筒の水を口に含むと、口元の水気を手で拭った。
辺りは、虹色や紫などカラフルで巨大な水晶石が地面の至る所から生えている。
「できれば任務じゃなく、観光としてきたかったよ」
幻想的な風景に見とれていると突然水晶石が地面ごと動き始めた。
「…擬態か」
地鳴りと共に身体中に鱗のような水晶石をまとった大蛇が現れた。
「なるほど、あんたが門番だね」
『何をしに来た?人間の小僧』
マヒロは両腕をストレッチするように頭上にのばし、人語を喋る大蛇に小さく笑みを返す。
「この先にいる悪い神様に用があるんでね。通してもらうよ」
貴重なお時間を割いて頂きありがとうございます。
本作に少しでも興味を持って頂けたら、下記2点より作品の評価いただけると幸いです。
執筆の励みになります。
・「ブックマークに追加」
・下部の☆☆☆☆☆をクリック