008
「なんで我が、こんな小娘を助けてやらなきゃならないのよッ」
沙良と毒蛇とを隔てるように、苛立ちの声が舞い降りた。声の主である着物の少女は、結構な高さから着地したというのに足音さえしない。優雅に、ふわりと軽やかに、そしてどこか艶っぽい所作で。和服をはためかせて。
「消え失せなさい愚か者!」
鋭い声で命を発した着物少女は、大口を開けた蛇の顔面を引っぱたいた。少女の攻撃は速すぎて沙良には叩いたように見えたが、一瞬だけ、その少女の手が鈍い銀色に光ったことにも気付いた。
平手打ちを食らった塀の化け物は悲鳴を上げるかのようにぐわんと大きく波打ち、元の壁に戻った。壁は初めから屋敷の塀であり何事もなかったように、ただの石壁になっていた。
「……助かった、の?」
沙良の身体から汗がどっと噴き出る。手の平などもうべとべとだ。その手の平は、誰かの手の平と重なっていた。とても温かい手だった。
「……東光寺君!?」
沙良の手を握っていたのは泰明だった。先ほど、あの巨大な口から逃げることができたのは、泰明が手を引いて毒牙から回避させてくれたからだった。
「近付くなって言っただろ」
少年は呆れたように溜め息を吐きながら沙良を軽くたしなめた。
「獅童さん、大丈夫?」
「……は、れ? あれ?」
沙良の身体から力が抜ける。泰明の顔を見て安心したのか、緊張が一気に解けたのだ。
倒れそうになる沙良を泰明が抱き留めた。
「大丈夫じゃなさそうだね」
「う、え? えと、あの?」
沙良は顔が熱くなるのを感じていた。顔だけではない、全身がヤケドしそうなくらいだ。心音が身体の中で大きく響いている。ドキッドキッとうるさいくらいに。それに鼓動が速い。なんだかその心臓辺りが苦しくなってくる。
一夏に鍛えられている沙良は、こんな風に男子に抱き締められた経験などない。息が触れあうくらい近くに顔を寄せ合ったことも、もちろんない。泰明が沙良を覗き込んでいる。その目から視線を逸らすことができない。見つめ合ってしまう。
(何、これ?)
腐女子向けの本を読んだり、いつもの妄想をしているときの高揚感とはまったく違う、なんだかふわふわするような気分に、沙良は大いに戸惑った。
「ちょっと小娘っ、さっさと主から離れなさいよ! 八つ裂きにされたいのッ!?」
着物の少女、麗月が髪を逆立て、両方の握り拳を振って怒っていた。
その声で我に返る沙良。自分が今とても恥ずかしいことをされている現実にようやく気付いた。沙良と泰明の唇同士が触れそうになっている。
「なっ、何すんのよ!」
「うわっと!?」
沙良はすぐに体勢を立て直して思い切り泰明を突き飛ばしていた。
「恩を仇で返すなんてね。なんて非礼な小娘なのよお前は!」
「だ、だって、東光寺君、キスしようとしてたでしょ!?」
「きっ、キスぅッ!? わわ我が主が貴様にそんなことするはずないでしょ!? やっぱりお前は八つ裂きに──」
「疑われた上に突き飛ばされるならキスしとけば良かったよ」
「う!?」
またも笑顔でそんなことを言われて、沙良はすかさず手で唇を覆い隠した。頬がさらに熱っぽくなった。
「主っ、この娘にばっかり何言ってるのよ!? わ、我にはそんなこと——」
「だからなんで麗月がおこっ……くっ、苦し!?」
泰明の服の襟を握ってクロスさせ、麗月はぐいぐい首を絞めながら泰明を揺さぶっていた。
その、東光寺家でも見た二人のやりとりに、沙良はほっと安堵の溜め息を漏らす。ただ泰明が死にそうになっているので、ちょっと申し訳なかった。
「また助けてくれて、ありがとうございます」
沙良は二人に向かって深々と頭を下げた。泰明と麗月がここに来なければ、自分は間違いなく死んでいた。あの蛇みたいな怪物に食い殺されていた。だから真剣に感謝した。
けれど振り向いた麗月の目は沙良を敵視するかのように厳しかった。視線で心臓を射貫かれ、呼吸さえも止まってしまいそうなほどに。麗月は沙良に、本気の怒りを向けていた。
「貴様、ここへは来るなって忠告されたでしょ! 助けてもらった命を粗末に扱うなんて、相当な愚か者ねっ。いえ、貴様一人が死ぬのなら構わないわ。死にたければ好きにすればいいのよっ。でもね、我が主まで巻き込まないで!」
「そ、そんなつもりは……」
「貴様は貴様だけの都合で動き回って、他人に迷惑をかけすぎなのよ! どうせそんな自覚もないでしょうけどね! でも確実に周囲を巻き込んでるのよっ。巻き込まれた人間は、命を落とすことにもなりかない。それにさえ気付いてもいない、たわけ者!」
「な、何言ってるのよ!? なんでそんなこと麗月ちゃんに言われなきゃ──」
「じゃあ教えてあげる」
沙良の言葉を遮った麗月の声が低いものに変わる。艶やかな唇が吊り上がり、不敵な笑みが浮いていた。
「貴様の姉、一夏って言ったっけ? 貴様が首を突っ込んだおかげで、多分、奴までこのくだらない騒動に巻き込まれたわよ」
「えっ? なんで……お姉ちゃんが?」
一夏がこの事件に巻き込まれた、とはどういうことなのだろうか。そもそも麗月が言っていることが、沙良にはよく理解できなかった。麗月は沙良を明らかに嫌っている。だから意地悪なことを言っているだけ、ということも考えられた。それに一夏は元々この事件の担当なのだから、巻き込まれるも何もないのである。
だけど麗月の鋭い眼光に射貫かれた沙良は、それ以上言い返すことができなかった。
「疑うのも貴様の勝手よ、好きにするといいわ。でもね、何が起こっても、それは貴様の責任だってこと、忘れないようにしなさい」
「くっ……!?」
知らない間に自分が何かをしでかして、それに姉が巻き込まれてしまっているなど、信じたくはない。でもここまで言われては、沙良の心は揺れる。もし麗月の言葉が嘘ではなく本当だったとしたら。湿気と熱気が肌に粘り着くような暑さなのに、沙良は寒気を感じた。
自分のせいで、姉の命が危険に曝されるなんて、そんな……。
「おい、そっちの野次馬も追い払え。ロケ車も早く退けさせろ。封鎖を急ぐように言われただろ」
警察の怒鳴り声がここまで聞こえてくる。この屋敷付近でも慌ただしく走り回っているようだった。
どうも、Mt.バードです。
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