005
沙良の父親は警察署長。そして彼女は今その警察署長の父親と、将来自分のなりたい職業について揉めている真っ最中だった。沙良は父親のように、姉のように、憧れの刑事になりたい。けれどそれを、当の父親に猛反対されているのだ。
一夏が刑事になるときも父親は同じように反対したが、一夏は諦めずに有名一流大学に進学し、その卒業後に超難関と言われている国家公務員試験を受けて好成績で合格した。これで父親に認めさせて警察庁に入庁したのだ。
沙良も同じ道を進もうとしているものの、やはり今のうちに色々と経験しておきたいと、一夏のあとをつきまとっている。これは父親には内緒でしていることで、沙良が倒れたなんて連絡されればすべて父親の知るところとなる。そうなると大目玉だけではすまない。学校へ行く以外は外出禁止ということも充分あり得るのだ。
「獅童さん、怪我とかしてなくて気絶してるだけみたいだったから、家に運ぶのが一番かなって思ったんだけど、やっぱ失敗だったかな。なんなら今から病院行く? お姉さんとお父さんにも連絡取ろうか?」
「うわあ! それだけはどうか勘弁してください! 助けてくれて本当にありがとうございました!」
沙良は何度も何度も頭を下げた。しかも最敬礼で。
「疑ってほんとにごめんなさい! まさかそこまで考えてくれてたとは思わなくて」
「なら、これでおあいこってことで」
沙良が頭を上げると、泰明の顔はニコニコとしたものに戻っていた。
「我とはおあいこじゃないわよっ。こんな娘を可愛いなんて! いつも隣にいる我には言ったこともないくせに! よくそんなにしれっと言えたわね!」
「ちょッ!? くっ、苦しっ……!?」
麗月が泰明のYシャツの襟を引っつかみ、絞るように両手をクロスさせてぐいぐい揺らしていた。
「ぐぐゥッ!? だからなんで麗月が怒るんだ!? ぐげ……ッ、麗月のこと、けなしたわけじゃ……ないだろッ……」
「ううっ、うるさい!」
「麗月はっ、可愛いってより……うぐ!? 綺麗、だろ……ッ」
「……何!? 今、我が綺麗って……? そ、そっか……綺麗、ね。主は我のこと、そう思ってたのねっ」
「おがあッ!? しっ、死ぬぅ……」
麗月の怒りはおさまり、顔をぽっと赤らめている。けれど絞め技の方は止まっていない。照れて嬉しそうに微笑んでいる麗月の目には、窒息しそうになっている泰明の姿は映っていないようだった。
それを見て沙良は少し羨ましい気がした。ここまで他人と仲良さそうにするのは、自分では考えられないからだ。校内で色々な生徒と会話はするものの、こんな風にふざけ合ったり、悩みを相談したりということはない。だからなのか、泰明と麗月のやりとりはとても微笑ましかった。くすりと笑みを漏らしていた。
「わ……笑ってないで……助けてよ、獅童さん……っ」
「あっ、ごめんね。でも二人を見てると、いいなって思って」
「いいっ……て? 主と我が!? なっ、何言ってんのよ小娘!? おぉお前にっ、主と我の何がわかるっていうのよ!?」
文句を言っているようでいて、麗月の顔はもう湯気でも出そうなくらいに真っ赤になっていた。声色にも怒気はなく、内心では喜んでいるのだな、と沙良には感じられた。
麗月は素直ではないものの、ほぼ間違いなく、自らが主と呼ぶ少年に想いを寄せている。そういう他人に好意を抱くという気持ちを、同じ女として羨ましく思った。
「うげぇ……!? 死ぬじぬぅぅぅッ……」
が、想いが募りすぎて泰明が死にそうになっているのだが。
そんな泰明は、自らを主と慕う美少女のことをどう思っているのだろう……。
と、他人事なのに気になる沙良は、勝手に色々と乙女な想像を巡らせていた。
「それで小娘、失礼な態度を改める気になったの?」
死にかけていた泰明を解放した麗月が、再び沙良に鋭い視線を向けていた。
「失礼って……さっき謝ったでしょ? お礼も言ったし」
「我が言ってるのはね、お前を助けた我が主が名乗ったのに、お前は名乗らないの? ってことよ!」
沙良は、あっと声を上げた。指摘されたとおり、自分は名乗り返していなかった。
それを聞いていた泰明が死の淵からなんとか蘇って、二人を取りなすように答えた。
「獅童さんのことなら知ってるから大丈夫だよ」
「そういえばなんで私のこと知ってるの? おんなじ学校に行ってるのはわかるけど」
「同学年だからね。それに獅童さんは学校でも目立ってるし」
「ごめん。東光寺君、だっけ? 私は君のこと、知らないや……」
「クラスが違うからしょうがないよ」
泰明は人懐っこそうにニコッと笑った。
その、どちらかというと可愛い微笑みは、先ほど現場で会ったイケメンのおじさまこと、川越警部補となんとなく似ていると沙良は思った。
同時に、ドキッとした。顔がみるみる熱くなっていく。
彼女の頭の中では泰明と川越の笑顔が重なり、お互いに向き合っていた。
「いい……いいよそのニコニコ顔! キラースマイルだわ! イケメンなおじさまと相性抜群! うーん、やっぱその笑顔のままで迫っちゃうんだね! 相手がちょっと困っても攻め続けちゃうタイプだうんうん!」
よく読む本の中の展開が沙良の頭の中で繰り広げられていた。
つまりはまあ、腐っている方向の思考だ。
川越警部補のことで一夏と騒いでいたのも、この妄想で盛り上がっていたのだった。
これを見ていた泰明は、少しだけ引いた。そして刀のことを話しているときの自分は他人にこんな風に見られているのだと気付く。だからなるべく気を付けようと思った。
「もう大丈夫そうだね」
泰明に声をかけられて、沙良ははっとする。慌ててよだれを拭き拭き、ようやく現実世界に戻ってきた。
「うん、大丈夫。助けてくれたのにはほんとに感謝してるから」
まずいところを見られたので沙良は早々に立ち去ろうとした。
「ひょっとして、またあの現場に戻る気?」
「そうだけど?」
「怖い目にあって、気を失ったんじゃないの?」
「怖い目……あっ、そうだ!」
あの古い日本家屋で体験した不可思議な出来事を思い出して、沙良は振り返る。そのことで泰明に聞きたいことがあったのだ。質問で頭がいっぱいになっていた沙良は、ニコニコとしたままの泰明の声のトーンが低くなったことに気付いていなかった。
「ねえ東光寺君、私を助けてくれたとき、あそこで変なもの見なかった?」
「道ばたで気絶する変なおなごなら見たわよ?」
「道ばたできぜ……って私のこと!? ていうか麗月ちゃんも一緒だったの?」
「麗月〝ちゃん〟って何よ、ちゃんって!?」
「じゃあ……麗月?」
「お前のような小娘に呼び捨てにされるほど落ちぶれてないわよ! 麗月〝様〟って呼びなさいっ」
「わかった。じゃあ麗月ちゃんね」
「貴様ぁ!?」
握り拳を作って憤慨する麗月を、まあまあと泰明が宥めた。
「それで、獅童さんはあそこで何を見たの?」
「何を見たっていうか……あの屋敷の壁、おかしなことはなかった?」
「おかしなこと? 壁がどうかしたの?」
「その……壁がこう、独りでに動いたりとか……」
「壁が動く?」
「他にもなんていうか、壁に赤い目みたいなものがビカッと光ったりだとか……」
「壁が光る?」
沙良の言うことを泰明はオウム返しで呟いた。
「……私のこと、馬鹿にしてるでしょ?」
「今さら馬鹿になんてしないわよ。お前は元々、頭がおかしいじゃない」
「ちょ!?」
「こら、麗月」
泰明に軽くたしなめられた麗月だったが、沙良にニヤッと不敵な笑みを向けていた。
「麗月ちゃんていちいちムカつくね!」
「ちゃん付けするなって言ってるでしょ!」
「だからやめろって麗月」
「ふんだ! 主がこの娘の肩なんて持つからよッ」
すねたように呟いて、麗月は出てきたときと同じように泰明の背中に消えた。
「獅童さんのこと、馬鹿にはしてないけど……驚くし、信じられないよ」
「やっぱそうだよねぇ。私だっていまだに信じられないし」
自分で言い出しておきながら、沙良は溜め息を吐いていた。
「夢でも見たんじゃない? だから倒れたとか」
「そうだといいんだけどね」
あれは目の錯覚だったとか幻だったと言われる方が、沙良にだってしっくりくるのである。でも沙良は実際に目にしてしまった。体験してしまった。夢を見たわけでも妄想したわけでもない。
「私、あの壁に襲われそうになったのよ。壁が私の方にすり寄ってきて、食べられそうな気がした」
壁に口なんてあるわけがないのはもちろんわかっている。でもあのときは大口が開いて呑み込まれそうな、そんな恐怖に駆られたのだ。今思い出しても背筋がぞくりとする。
「あれはお化けとか妖怪よ、きっと……。あっ、そうだ。さっき刀の説明してるとき、妖怪退治がどうとか言ってたじゃない」
「それは昔の話だよ。迷信とかが信じられてた時代のね。今の世の中で妖怪って、獅童さん、まさかそんなもの信じてるの?」
泰明が笑顔のまま尋ねてきた。そのニコッとした顔に、沙良は思わずむっとしてしまう。
「そう言わないと説明がつかないって言ってるだけよ。壁が足生えたみたいに動くなんておかしいし、ライトもないのに赤く光るなんてどう考えたってあり得ないじゃない」
「確かにそうだね」
泰明の目はまだ優しい笑みをたたえていた。沙良の言葉にしっかりと耳を傾けて、うんうんと頷いてくれていた。ひょっとすると、泰明の笑顔は人を揶揄するものではなく、この優しげな顔が普段の表情なのかもしれない。
沙良は怪奇現象を体験したときの怯えた心が、少し和らいだ気がした。
「そんな怖い目にあったのなら、もう現場には近付かない方がいいね」
「ううん、そういうわけにはいかない」
泰明が柔らかく諭してくれたものの、沙良は首を振った。そうだ、今はこんなところでもたもたしている場合ではない。
「お父さんに認めてもらって……確約をもらいたいから」
「確約って?」
「刑事になってもいいって確約」
あのような奇妙な殺人事件は滅多にお目にかかれない。それに運良く一夏の担当だ。捜査に協力し、解決に導けば、父親も納得するかもしれない。
「そんなわけだから、私は戻るね。ここまで運んでくれてありがと。じゃあ」
言うなり、沙良は飛び出していってしまった。
「ふんっ、厄介な小娘ね。ねえ主、いっそ記憶が飛ぶくらい強く押し倒した方がよかった?」
もう一度背中から現れた麗月が、流し目で泰明を見上げる。
泰明は、どうしようか、とでも言いたげな溜め息をつき、走っていく沙良の背中を見ていた。
どうも、Mt.バードです。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。