046
泰明も腰に手をやり、和式ナイフの魔斬りの封を解く。ホルダーのボタンに刻まれた五芒星が青白い光を放ち、独りでにボタンが外れた。泰明はそれをホルダーから抜く。
「鬼退治だ麗月。ただし殺さないように」
「承知したわ、我が主。このできそこないの愚か者に、世の厳しさを叩き込んであげればいいのね」
「二対一かよちくしょうが! こんな化け物になってもやられることはおんなじか!? い、いやっ、腹さえ満たしゃ……俺にだって!」
狼男は泰明を見た。麗月は一見少女に見えるが、自分と同じ妖魔だ。凄まじい力を秘めていると予測したらしい。対して泰明は、不気味だが人間であるため、血を奪えると思ったのだろう。
「お、お前が悪いんだぞ! お前が俺を邪魔するからっ、俺に殺されて血を吸われても文句言うなよ!」
「ふぅん。じゃあ貴様も、自ら望んで妖魔になったんだから、我らに斬り殺されても文句言うんじゃないわよっ」
ニヤリと唇を歪めた麗月が凄まじい速度で狼男目がけて飛び出していく。そして手にしていた刀——斬月を振り抜いた。
「うおあッ!?」
沙良の目には追えないほどの速さで繰り出された麗月の攻撃を、狼男は辛うじて避けた。
「な、なんなんだお前そのスピードはっ!? 俺も相当速く動けるようになったんだぞ!? なのに俺がかわすことしかできないなんて……!」
「よそ見してる暇なんてないわよ、できそこないっ」
「——なッ!? うおおッ!?」
色っぽく唇を歪める麗月の言葉に咄嗟に狼男が身を翻す。そこに、肉薄した泰明が魔斬りで斬りかかっていた。
ガキンッと火花を散らし、狼男がナイフのような右の爪でなんとか受け止めた。
「くそ! ブロック塀でも切り裂く爪なのにっ、なんで折れないんだこのナイフは!?」
人だったときの愚痴を口にする癖が残っているのだろう、妖魔はいちいち驚愕して文句を吐き出した。
そんな折り、狼男の肉体からざすっという鈍い音が漏れた。さらに、ぐわあッ!? という悲鳴が上がった。
妖魔の左の腕からボタボタと大量の血が滴り落ちている。彼の左腕の肘から先が地面に転がっていた。
「よそ見してる暇はないって忠告してあげたのに、愚か者なんだから」
麗月がいつの間にか狼男の後ろに回り込んでいた。手についた返り血を赤い舌を伸ばしてべろりと舐めとる。
「ふん、まずい血ね」
貶しつつも、麗月は瞳を赤々と輝かせ、不敵な笑みを浮かべていた。
「くっ、くそっ、くそったれ! 俺は強くなったんだ! 見下されてた頃から、生まれ変わったはずなんだ! なのになんでこんな目に遭うんだよ!?」
「あんたは化け物に堕ちた。そして人の命を奪った」
「うるせえ! 俺をここまで追い込んだのは周りの連中だ! 奴らが俺を見下さなけりゃ、こんな化け物になんてなってなかった! 奴らは俺を見て、生きてたってなんの役にも立たないクズだって思いやがるっ。けどそんな奴らこそクズなんだ! だから殺したっていいんだよ! 生きてたって役に立たないクズでも、俺の腹の足しにはなれたんだからいいだろうがっ」
妖魔になり果てた男の言うこともわからなくはないが、しかしそれは一方的で、身勝手で、自己中心的で、ただの暴論だと沙良は思った。
「……心まで化け物に堕ちたな」
「東光寺、君……?」
感情のわからない能面のような泰明からわずかに怒りが滲み出ていた。それは泰明と親しい者以外は気が付かない小さな変化だったが、沙良には感じ取れた。
「ふん。貴様の言い分には、愚かを通り越して呆れるわね。貴様に殺された者に義理なんてないけど、せいぜいその痛みを貴様にも刻み込んであげるわっ」
麗月も泰明の怒気をくみ取り、歪めていた唇を引き締めて妖魔に鋭い目を向ける。
「お、お前らみたいな化け物なんか相手にしてられるか!」
妖魔が逃げ腰になる。泰明達に背を向けて大きく間を取ろうと筋肉の発達した足に力を込めて飛ぼうとした。
そのとき、麗月が静かに動いた。刀の刃先を後方へ向け、腰から下げた刀を抜刀でもするように腰だめの構えを取る。そして構えたかと思った瞬間に、鈍色の閃光が狼男の足下に走っていた。
「ねえ、そんな足でどこへ行くつもりなのよ?」
「何っ——ぐわッ!?」
飛び上がろうとしていた妖魔が、まるで潰れた蛙のようにべちゃりと地面に突っ伏した。
「あっ……あぁあ!? 足がぁぁぁッ!?」
絶叫を上げる狼男の両足がなかった。どちらの足も太腿から先が切断されていた。
これはもちろん、麗月の構えから繰り出された斬撃によるものだったが、そばで見ていた沙良でさえ、その剣速に目が追いつかなかった。
妖魔が行動不能になったことで、勝負は決した。
それを見ていた沙良は、今回は呆気ないと思った。これまでは妖魔の中でも神様として崇められるほど力の強い蟒蛇や、水辺ではほぼ不死身と言ってもいいヨロヅセナノが相手だったために、泰明達はかなりの苦戦を強いられていた。けれど今回は、それらの妖魔に比べると格段に見劣りするほど、相手が弱すぎた。狼男は、武術の心得もなければ喧嘩さえまともにしたことのない素人だというのは、姉から護身術という名の武術を叩き込まれている沙良ならば容易にわかる。動きにむらがありすぎる上に注意力も散漫だ。泰明と麗月のどちらか一方に集中しても、もう一方にはまったく気が回っていない。だから泰明の攻撃を受け止めたとき、後ろから麗月にああも簡単に忍び寄られて腕を斬り落とされたのだ。加えて、おそらく自分の妖魔の能力や特性などといったことはまったく知らないのだろう。発達した足の筋肉による爆発的な瞬発力や、その瞬発力を長く持続させる持久力など、獲物を速いスピードで長く追いかける狼のような理想的な肉体を手に入れているというのに、それを皆無と言っていいほど使いこなすことができていなかった。
故に弱い。
普通の人間からすれば相当な脅威だろうが、泰明や麗月のような退魔師にかかれば赤子の手を捻るようなものなのだと、沙良は改めて二人のすごさに息を呑んだ。
「くそっ、痛ぇ……! ちっ、血が出て……!? ちくしょうっ、見逃してくれよっ」
「あんたを逃がすわけにはいかない」
倒れたまま動けなくなった妖魔を、感情の乗らない目で泰明が見下ろす。そして唯一残っていた狼男の左手に刃を突き立てた。その左手は昆虫の標本のように地面に磔にされていた。
「ぐぎゃああああッ!? なっ、何すんだよ、おい!」
妖魔に堕ちた男は断末魔のような絶叫を上げて泣き言を漏らす。
「……く、そっ……! 痛ぇ……っ、痛ぇよお……! 生まれ変わったはずなのにっ、 ちくしょう……」
「その薬、どこで手に入れた」
妖魔の言葉を無視して泰明は睨み付けた。怯え始めている相手をさらに脅すように、ナイフのグリップに力を入れて握り直す。
狼男が掠れた声を漏らす。目を剥き、強烈な痛みと恐怖で混乱したように目玉をせわしなく動かしていた。
「その薬の情報をどこで知った」
「ちょっ、ちょっと待て……っ、待ってくれ! 俺は奴らを見返してやりたかっただけなんだ! なんの理由もなく俺を下に見る奴らだ、ほんとなんだ!」
凄む泰明に気圧された妖魔が叫び散らす。
必死に訴える狼男を見ても泰明の態度は変わらない。それどころか、
「雷神蛇光!」
己の霊力を青き雷へと変換し、左手に刺した魔斬りから妖魔の肉体に電撃を叩き込んだ。
「がッ!? あああああッ!?」
妖魔の男が痛烈な悲鳴を漏らした。青い電撃が身体中を走り、感電したように痙攣している。
その、泰明の非情な行為を目の当たりにして、沙良も思わず呻いて口元を押さえた。
しかしこの電撃は、相手を殺すためのものではなかった。現に狼男は地に這いつくばってはいるものの、意識もはっきりしていて泣きそうな顔で泰明を見上げている。
その泰明は、妖魔を凍えるように冷たい瞳で覗き込んでいた。
この表情からも、先ほどの青き雷は対象に痛みを与えて脅すためのものだったのだと、沙良は理解した。いつも沙良には優しさを向けてくれる泰明の残忍な一面を目撃して、沙良は言葉を失っていた。
どうも、Mt.バードです。
心が疲れたときは、とにかく包丁でざくざくと野菜を切ってる気がします。
終わるとちょっとした達成感があって、嫌なことを忘れている確率が高いです。




