044
「刃……っ? まさか……っ、刀……!? そんなっ……そうなの……!?」
閃光のように走った銀光を目の当たりにした沙良は目を見開くとともに、打ちひしがれた気分に支配されていく。
目にしたものを信じたくはなかった。できれば彼女を信じていたかった。なのに、やはり、沙良を襲ったのは——
沙良を攻撃した影がゆらりと立ち上がる。頼りない街灯に照らされ、その姿が露わになる。沙良の目に映る。
「う、あ……ッ!?」
喉を引き絞られたようにうまく声が出せなかった。息さえも止まっている気がした。
「妖……っ、魔……」
なんとか言葉を吐き出せた。沙良は今、目撃しているままを呟いていた。
妖魔。
沙良の目の前に立ちはだかるのはまぎれもない妖魔だった。暗闇に僅かに抵抗している街灯が照らしているのは、沙良のような素人でも一目で妖魔とわかるほどの異形であり、醜悪な外見だった。
「麗月ちゃんじゃ……っ、ない……!」
沙良を襲ったのは麗月ではなかった。その安堵で心の中にわだかまっていた嫌な疑念が晴れていく。心中には青空が広がる。しかし一瞬で暗雲がたれ込めた。恐怖という真っ黒な雲に覆われてしまう。さらに驚愕と混乱が沙良の全身を縛り付け、悲鳴さえも上げることができなかった。
代わりに相手からは、グルルルッと唸り声が聞こえてくる。それはまるで猛獣のようだった。声には明らかなほどに、獲物を仕留められなかった怒りが含まれている。そして沙良を威嚇していた。偶然とはいえ攻撃をかわした沙良を警戒しているようだった。
妖魔がジリジリと沙良との距離を詰めてくる。近くで見るとますます畏怖を抱かずにはいられない風体だった。
二本足で立ち、一応人型ではある。性別で言えば、男、だろうか。でも顔は人間ではない。犬か狼のように鼻が突き出し、開いた口に見えるのは凶暴な獣によく見る大きな牙だ。それが恐ろしいほどにぞろりと生え揃っている。尖った歯牙からは汚らしくだらだらとよだれが滴っていた。その姿はまさに、獲物を前にした野獣が如くだ。
次に目に入ったのは、指先から生えた爪だった。どの野生動物にも見られないほどに長く、太く、伸びている。小型のナイフが十本、手から突き出ているようにも見える。先ほど沙良を襲ったのはこの小刀のような爪だった。
2mを優に超えているであろう巨躯の怪物が、鈍く光る刃を構え、沙良に迫る。
足にも爪があるようで、歩を進めるたびにガキッガキッと道路に食い込むような音が鳴っていた。そのたびに、ボロボロになった服と、その隙間から見える黒い剛毛が揺れている。
かっと見開かれた禍々しいほどに赤い目まで、闇の中にゆらりゆらりと踊っていた。
「狼……男……?」
この妖魔は映画などに登場する〝狼男〟によく似ていた。
弱々しい街灯の光が妖魔の手にある強靭な爪に反射する。その、指ごとに生え揃う鋭い刃を見て、一連の殺人事件を起こしているのはこの妖魔なのだと、沙良は直感した。
昨日見た死体が脳裏に蘇る。その肉体には、刃物で斬られたような深い傷が五本にも渡ってついていた。よくよく考えればその傷跡は、刀でつけるのは難しいように思える。確かに麗月のような達人なら、そういう風に斬り付けることも可能なのかもしれない。が、達人になればなるほどそんな無駄なことをせず、一撃で仕留めるものである。それより、沙良が今目にしている妖魔の指の刃のような、たとえば熊のような猛獣の爪による引っ掻き傷の方が断然近い。
昨日の屍にあったのは刀によるものではなく、指先に五本、刃を備えている獣、つまりこの狼男のような妖魔によってつけられたものだ、という考えに沙良は至ったのだった。
「ぐ……っ、う……!?」
沙良は震える足で後退る。けどすぐに壁に阻まれた。
そこでふと、逃げなければと思い至る。しかしこの追い詰められた状況で逃げるには、どうしても初撃をかわさなくてはならない。
ただ壁伝いに横に逃亡するだけではすぐに回り込まれるし、最悪背中まであの爪が伸びて斬り刻まれて終わるからだ。
沙良はまず冷静になれと自分に言い聞かせ、息を深く吐き出した。
そして身体から力を抜く。自然体で立つ。これが沙良の〝構え〟だ。
狼男がもう一度グルルッと唸る。ナイフのような爪を振り上げ、沙良に飛びかかった。
凄まじい速度で怪物が肉薄する。空を切り裂いて刃が迫る。
沙良は絶句した。
妖魔の動きは想像を絶して速かったのだ。いや速すぎて見えない。
気が付いたときには化け物は目前にいて、刃がギラリと光っていた。
もうだめだと覚悟したそのとき、
「戯け者!」
と女の声が妖魔と沙良の間を引き裂き、ガキンッと金属同士がぶつかり合ったような重い音が鳴り響く。
「う……?」
沙良は無事だった。どこにも傷を負っていない。助かった。いや助けられた。何が起きたかわからずパニックになっていた。
狼男は沙良と距離を置いていた。その両者の間には、刀を握った着物姿の少女が立っていた。
「麗月ちゃん!?」
妖しい美しさをまとった少女は、背を向けたまま沙良をちらりと覗き見る。その瞳は燃え上がるように爛々と赤い輝きに満ちていた。
沙良を斬り裂こうとした殺意の爪は、麗月の銀刃によって叩き落とされたのだった。
「ふふふ。やっぱりお前には馬鹿面が似合うわね小娘」
艶めかしくも小馬鹿にした笑みを向けられる。このことで沙良はようやく混乱という呪縛から解き放たれた。
「り、麗月ちゃん……っ。やっぱり麗月ちゃんだ! よかったぁ!」
麗月の姿を確認した沙良は本当に安堵した。麗月の正体が、この狼男のような姿なのだという可能性もゼロではなかったのだ。沙良は涙ぐみそうになるくらい安心していた。
「まったく、どこまでも阿呆な小娘ね。見当違いで我を疑ってるから、そんな間抜け面を曝すことになるのよ」
一安心したあとに呆れたような態度で罵られ、沙良はなんだか腹が立ってきた。
「馬鹿とか阿呆とか間抜けとか、そこまで言うことないじゃないっ」
「馬鹿を馬鹿って、阿呆を阿呆って、間抜けを間抜けって言って何が悪いのよっ。そもそもがお前の自業自得でしょ!?」
「うぅ……。で、でもあんな状況だったら、普通は麗月ちゃんを一番に疑うよ。目だって今みたいに妖魔と同じように赤く光ってるじゃないっ。麗月ちゃんが実は妖魔で、人を襲ったって思うわよ」
「ふんっ。ここで開き直るから小娘だっていうのよ。まあ、我はお前が疑ってるように、妖魔だけどね」
「……え!?」
麗月は、妖魔。
あっさりとだったが、しかし衝撃の告白だった。疑っていた沙良でさえ、それを受け止められずに絶句した。
確かに、同じ年頃の娘としては妙に艶やかで、浮き世離れしている。透き通るような白い肌に着物を着こなし、常に凛としてぶれることがない。沙良の周りにはいないタイプの少女、いや大人であっても見かけたことはない。けれど麗月は、普通の人間と同じようにご飯を食べるし、普通の人間と同じように感情を持っている。感情のことだけで言うなら、年頃の娘のように恥じらい、異性に想いさえ寄せている。ヨロヅセナノにも感情はあったように思えるが、それは復讐心と妖魔独特の吸血衝動に支配され、とても人と同じようには見えなかった。それなのに麗月は、肉体も精神も、どこを取っても人間にしか見えない。
どうも、Mt.バードです。
5月に入りましたね。
まさかここまで続けられるとは。
これも読んでくださる皆様のおかげです。
ありがとうございます。