004
近付かれたことも、後ろに立たれたことも、まったく気付かなかった。武術を習っていることもあり、沙良は気配を感じる能力については普通の人よりも敏感である。刀に囲まれるという不思議な空間に警戒心が緩んでいたこともあるが、だとしても声をかけられるまで意識もできないのはそうそうないことだった。
沙良は相手に気付かれないように気を張り詰める。ゆっくりと息を吐き、軽く脱力したように両手を下げて、自然体で立つ。常人にはそれとわからないが、これが沙良の護身術の構えなのだ。
しかし声をかけてきた少年は沙良の方など向いていなかった。沙良が見ていたガラスケースの中の刀に目が釘付けだった。
「この太刀すっごく綺麗だろ? 仕入れのときに一目惚れしてさ、値段も気にせず買っちゃってさ。
〝青江〟っていう刀なんだ。昔から妖怪とか鬼退治に使われてたらしくてね、最初に女の幽霊を斬り捨てたことから、妖怪退治に使われるようになったんだって。その斬り捨てた幽霊がにっかり笑う女の幽霊だったから、〝にっかり青江〟って呼ばれることもあるらしいね。
でもこれ、実はというか当然というか、複製品なんだ。本物はどっかの資料館にあるんだって。けど複製でも妖怪退治に使われてたっていうのはほんとらしくてね。本物は大脇差って、侍が刀を二本差してるうちの短い方を脇差って言うんだけど、その脇差の中でもかなり長い種類のものなんだよ。でもこれは、その大脇差になる前、青江は元々太刀だったんだけど、それを元に打った刀なんだ。
これを見たときにぐっときてさぁ、仕入れたはいいんだけど売り物にするかどうか今でも悩んでるんだよね。はあ〜、いつ見てもいいよなぁ、こいつはっ」
少年は目をキラキラとさせてガラスに頬ずりせんばかりに、熱の入った声で語った。
うわ〜、オタクだ、と内心で呟いて、沙良はげんなりとした。
でもすぐにハッとする。自分も他人の目にはこんな風に映っているのだと。人前での妄想には気を付けようと思った。
だが今、気を付けるべきはそこではない。何者なのだろうかこの男子は。
沙良はもう一度構えなおした。
「いきなり出てきてなんなのよあんた!?」
「えっ? ああ、失礼しました。この刀剣販売店〝鬼退治〟の店主、東光寺泰明です」
東光寺泰明と名乗った少年がお辞儀をした。両手を身体の側面につけ、背筋を伸ばしたまま腰を深く折り曲げる。まるで旅館の主人のように様になっていた。
礼儀正しい泰明に、沙良は少しの間呆気にとられた。
身体を起こした彼の、白い半袖のYシャツが目につく。そう、制服だ。自分の学校の男子が着ているものと同じもの。
「さっき、現場で会った……」
「現場?」
「現場よ、殺人現場。そこにいたでしょ?」
「そうだっけ?」
泰明が首を傾げているものの、沙良はあの変死体があった殺人現場で声をかけてきた男子が泰明だということにようやく気が付いた。彼は現場で会ったときと今ではまるで雰囲気が違う、別人のようだったからだ。
ここでの泰明はとても物腰が柔らかで、身を切られるような冷たい目ではなく、ずっと優しそうな笑みを沙良に向けている。刀を見るときもニヤニヤとだらしない顔で、ただの刀オタクにしか見えなかった。
「そんな娘、相手にすることないわ」
泰明の背中から鋭い声が響いた。鋭利な声色には明らかな嫌悪感が含まれおり、それは沙良へと向けられていた。
声の主が本当に泰明の背後からすっと姿を現す。
袖から伸びた雪のように白い手が印象的な女の子だった。
この暑いのに上から下まで和装で固めている。着物だから大人びて見えるものの、年は沙良とさほど変わらないようだ。そして沙良に負けず劣らずの美少女だった。艶やかな髪と、漆黒の瞳。切れ長の目は芯の強さを感じさせた。沙良が快活で健康的な印象なのに対し、着物の少女はおしとやかで凛とした雰囲気を漂わせている。そんなところからも年頃の娘とは思えない気高さを持つ女の子だ。
「主、なんでこんな小娘を拾ってきたのよ! いまだに理解できないわっ」
主——泰明をそう呼びつつ、着物の少女は腕を組み、きつい視線を沙良に投げつけていた。
敵意と言ってもいいような感情をぶつけられた沙良の着物少女に対する第一印象は、当然、最悪だった。いきなり出てきて、初対面の相手にこの尊大な物言いである。同じ年代の子になぜこんなにも偉そうにされなければならないのかと、怒りを覚えていた。
「ふん! なんて目つきしてるのよ!? 恩知らずね!」
「う……」
知らない間に睨んでしまっていたようで慌てて引っ込める沙良だが、もう遅かった。
「主、こんな失礼な娘はどっかに捨ててきちゃえばいいって言ってるのにっ」
着物少女は沙良に厳しい目を向けたまま、泰明をちらりと窺った。その泰明はというと、着物少女の態度にまた始まったか、などと呟いて溜め息を吐いている。
「もうっ、なんで呆れてるのよ! 我は主のためを思って言ってるのよ? こんな失礼な娘、つまみ出しちゃいなさい!」
握り拳をふりふり、麗月が泰明の方へと身を乗り出した。
「ちょっと! さっきから失礼失礼って私のことっ?」
「他に誰がいるのよ?」
「初めて会った人に対して、偉そうに上からものを言う人は失礼じゃないっていうの!?」
「助けた者に向かって攻撃しようと構えてるお前みたいな娘よりはましよ!」
着物少女の刃のような声が沙良に突き刺さる。
沙良は言葉を失った。沙良の構えは自然体。ただ立っているだけだから普通はわからないはずなのに、それをすぱっと言い当てられてしまった。
「礼儀知らずね、馬鹿娘。主っ、だから助けるなって言ったのよ!」
「それよ、その助けるってやつ。私は助けてなんて言ってないでしょ!? 大体、気絶してる人を家に連れ込むなんておかしいじゃない! 助けるんじゃなくて変なことしようと思ってたんでしょうが!」
沙良は、着物少女から泰明に視線を移して噛み付いた。
「変なことって、どんな?」
「い、いや、それはだから……私の身体に、イタズラしたりとか?」
「マジックでまぶたに目の絵を描いたりとか?」
「そうじゃなくて! いやらしいことよ! 乱暴とか暴行とか、とっ、とにかくそういうやつ!」
「それいいわね! 今からそうしてあげる。ついでに写真も撮って、ネットにばらまいちゃいましょう」
着物姿の娘が年相応ないたずらな笑みを浮かべて、沙良に迫ろうとした。
「麗月」
泰明がやんわりたしなめるように少女の名を呼んだ。麗月というらしい。
「わかってるわよっ、冗談に決まってるでしょ」
麗月は泰明の元へ引き返した。振り向き様、沙良を睨んでちっと舌打ちをしながら。
「わかってないでしょあんた……」
「ふんだ! そもそもお前、勘違いしすぎなんじゃない? 主がお前みたいな不義理な娘なんて、相手にするもんですかっ。自分が可愛いって思ってるなんて、思い上がりもいいとこよっ」
「いや、可愛いだろ」
「んなっ!?」
異性を平然と可愛いなどと口にした泰明に、麗月はギョッと目を剥く。彼女はここまでで一番大きく表情を変えていた。
「……あ、主っ、今なんて!?」
「だから、獅童さんは可愛いって」
「えっ、うぅ……!?」
泰明の再びの発言に、今度は沙良の表情が大きく変わった。面と向かって容姿を褒められ、沙良は自分でもよくわからないほどに照れた。勝手に顔が赤くなる。男子にここまでストレートに自分の容姿を褒められたのは、生まれて初めてだったのだ。
「しょ、正気なの主ッ!?」
麗月が目をギリッと吊り上げて泰明に掴みかかる。
「なんで麗月が怒るんだよ?」
「え!? いっ、いや……あのっ、それは……っ」
麗月はなぜか頬を染めて勢いをなくし、泰明を放していた。そしてチラチラと、主と呼ぶ少年の顔を盗み見ている。そこに先ほどまでの気位の高さはなく、年頃の乙女のような恥じらいを浮かべていた。
「獅童さんは学校でも男子に人気があるんだよ」
「じゃ、じゃあやっぱりっ、この娘を助けたのって、乱暴するためだったってこと!?」
「ほ、ほらっ、そうだったじゃない!」
沙良はまだ顔を赤くしたまま自分の身体を守るように抱き、泰明からさらに距離を取った。
「なんでそうなる!? 大体それが目的ならもうとっくに寝込みを襲ってるよ」
「……う、うわぁ、そんな言葉が出るってことは、ちょっとはあったんだ、下心……」
「主……。今のは冗談にしても、ちょっときついわよ……?」
沙良と麗月が半眼で泰明を見た。
「なんで二人とも引くんだよ……。仲悪かったんじゃないの? 息ぴったりじゃないか……」
泰明が呆れたように溜め息を吐きながらぶつぶつと呟いていた。
「それで、主。今言ったこと、嘘なわけ!? それともほんと!? どっちよ!?」
麗月が、言い逃れは許さないとばかりに両手を腰に当て、泰明の前に立ちはだかった。
「嘘もほんともない、俺なりに獅童さんに気をつかってみたんだよ。お姉さんと言い合いしてるのが聞こえてたから。獅童さんが危ない目にあったのがお姉さんにバレるとまずいかなって思って」
「うっ……」
麗月の問いにもう一度溜め息を吐きつつの泰明の言葉に、沙良は思わず呻いた。
確かに一夏はすぐ近くにいた。でも原因がなんにしろ、沙良が倒れたことが一夏に知られれば大目玉を食らっていたはずだ。
「それに獅童さんの両親、というかお父さんに知られるのはもっとヤバいみたいな内容に聞こえたからだよ」
「ぐっ!?」
沙良は言い返すことができなかった。
どうも、Mt.バードです。
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