039
悲鳴が聞こえた。
それもすぐ近くで、いたずらや冗談の類ではない鬼気迫る声。断末魔のような叫びだった。
「先に行け麗月っ」
「承知よ、主」
麗月が地を蹴り、凄まじい速度で消えていく。
「俺から離れないで」
「うんっ」
泰明と沙良も走ってあとを追った。
街灯が一つだけ灯っている暗い路地。そこに二人が辿り着いたときには、すでにことが終わっていた。
狭い袋小路。ゴミ捨て場であるそこに、おびただしい量の血液が広がっている。その血溜まりの中に、死体が捨てられていた。
沙良は息を呑む。声が詰まり、うまく悲鳴が上げられなかった。
ゴミ捨て場に転がっている死体は、まるで血液の池に浮かんでいるかのように、血に塗れている。肉体の損傷具合は素人の沙良が見ても明らかで、無惨にも首が肩口からへし折られていた。いや、折れているのではなく、斬られている。鋭く、強靭な刃物で、骨ごとざっくりと斬殺されたように。
しかも、大きく深い裂傷は、沙良が数えられる限り五本にも渡って刻まれていた。五度も斬り付けられた、ということだろうか。
その死体の奥に、着物の少女が立っていた。肉塊となり果てた者を、なんの憂いもなく見下ろすようにして。
「りっ、麗月……ちゃん……!?」
沙良の声が上擦っていた。
立っている少女が血に濡れていたからだ。その美しい顔も、綺麗な着物も、どす黒く染まっていたのだ。
「麗月ちゃん……その血、どうしたの……?」
「ああ、これね。これはここに倒れてる人間の血よ」
艶やかな声で答えた麗月が斬殺された死体に平然と目を向ける。
その視線につられて沙良も地面に転がるぐちゃぐちゃにされた肉塊を見てしまい、慌てて視線を戻した。
「な、なんで……麗月ちゃんが、この人の血を……?」
「ちょっと、我を疑ってるの? 無礼な小娘ねっ」
「いや、私……疑ってなんかっ」
麗月を疑う——つまり、そこに転がっている死体は麗月の仕業によるものではないか、ということ。
そんな可能性がないわけではないことに、沙良は初めて気がついた。
「無礼なお前に答えてあげる義務なんかないけど、なんで我が血で穢されてるかなんて、我にもわからないわよ」
わからない、とはどういうことだろうか。
現に死した人が血の中に捨てられていて、麗月はその返り血を大量に浴びているのだ。彼女が殺したのではないのだとしたらなぜこんなにも返り血を浴びているのか。確かに麗月がこの人間を殺す理由はないが……。
沙良がそんなことを思っていたときだった。
「主のものにはかなわないけど……。人の血って、美味ね……」
麗月の口から信じられない言葉が飛び出す。それは熱のこもった吐息混じりの口調だった。
しかも彼女は、手についていた鮮血を、べろりと赤い舌を覗かせ、舐めとった。
その光景が沙良の脳裏で、先日の雨の中の記憶と重なる。
ヨロヅセナノを倒したあと、大怪我をして身体中から血を流していた泰明の傷口を、麗月が舐めていたあの光景だ。
そのとき沙良は、傷口を舐めて癒やしているのだと思った。
けれど今の麗月は、傷を負っているわけではない。どう見ても返り血を、他人の血を、味見でもするように口に運んでいるようにしか見えなかった。
先ほど麗月も言ったではないか——
〝人の血は美味だ〟と。
では麗月は、人の血を飲んだ、ということなのだろうか。
「なっ、なんで、血なんかを……っ?」
「ふふ」
麗月が年に見合わぬ妖しさで、血のように赤い唇を歪めて微笑を漏らす。
いや、赤いのは唇だけではなかった。それよりももっと濃い——
「赤い、目……!?」
麗月の瞳がギラリと赤く輝いていた。
沙良は、思わず「あっ」と声を上げる。麗月の目がこんな風に赤く見える瞬間を思い出した。これは、妖魔との戦闘の際にも、何度か目にしている。蟒蛇やヨロヅセナノと戦ったときも、麗月の目は闇の中でも赤く光っているように見えたのだ。
いや、見えた、ではなく、実際にルビーのように濃い赤色の光を放っている。それはまさに、彼女がこれまで戦ってきた妖魔達と同じ色の輝きだった。赤々と禍々しく、他を威嚇するような警戒色の如き瞳の色だった。
どうして麗月が……そう思ったとき、その生白い肌や着物を汚していた血があっという間に消えていく。それはまるで、素肌や服に染み込み吸収されてしまったかのように、跡形もなくなってしまった。
これと同じ現象も、沙良はやはり目撃したことがあった。麗月が蟒蛇を斬り捨てたときのことだ。あのときも彼女は返り血を浴びていたが、次の瞬間には消しゴムで消したように血糊がなくなっていた。そのときもおそらく、今と同様に麗月が吸収したかのような現象が起きたのではないだろうか。
「これではもの足りないけど、人の血にありつけたのは僥倖ね」
麗月はほっそりとした指先を白磁のように艶やかな喉にツツーッと滑らせ、血を飲んだ余韻に浸っていた。
「いっ、今の何!? 麗月ちゃん、血は!?」
「ふん、お前に答えてあげる義務はないって言ってるでしょ」
不安げに尋ねる沙良に、麗月は鼻を鳴らすだけで答えることはなかった。
「ごめん主、妖魔の仕業なのは間違いないんだけど、我も一足遅くて逃がしちゃった」
「そうか……」
いつもの笑みを消した泰明が上の空で返事をして、死体を見ている。麗月が間近で手品みたいなことをしているのに、彼はまるで触れることはなかった。
そんな泰明の態度も、沙良は気になった。
麗月の目が妖魔のように赤く光り、妖魔のように血を啜り、身体についた血糊までなくなってしまったのに。
その、血の持ち主だった人が一人、命を落としているというのに。
この人の命を奪ったのは、妖魔の仕業だ、と麗月は言った。泰明はそれを信じたのだろうか。
麗月も退魔師であると泰明から聞いた。
退魔師について沙良はよく知らないが、泰明がいつもビカビカと稲妻を出しているのと同じように、ひょっとすると人とは違う特殊な体質の人もいて、今のように目が赤く光ったり身体についた血が消えたりという能力があるのかもしれない。麗月がマジシャンのようにどこからともなく刃物を取り出すのも、その不思議な能力によるものなのだろう。
「刃物……!?」
刃物という単語が沙良の心に引っかかった。勇気を振り絞ってもう一度死体を見る。
やはり肉体には刀傷のような、刃物で斬り付けられたであろう傷が何本か確認できる。
沙良は麗月を見る。
麗月自身が口にしたように、麗月を疑うのは……いや、麗月が人を殺すはずがない。そんな理由もないはずである。
さっき血を啜ったように、人の血を食らいたいがため、という理由でもない限り……
「すぐここを離れよう」
突然、泰明が沙良の手を引いて早足で歩き出す。
「えっ、どこ行くの!?」
「祓魔局が動いてるって聞いたろ? そこの退魔師にこんなとこ見られたら疑われてややこしいことになる」
言いながら泰明はどんどん足を速める。
「待って東光寺君っ。そもそも祓魔局ってなんなわけ?」
「妖魔退治をする退魔師達の組織だよ」
泰明の言うとおり、祓魔局とは、妖魔を祓うことを生業としている退魔師達が所属する、その専門機関のことだ。
「退魔師ってことは、東光寺君達の仲間なんじゃないの?」
泰明は答えず、携帯端末を取り出して川越に連絡を入れていた。
このあとは会話どころか走るような速さで歩かされ、獅童家の前に到着した。
「外は危険だから、特に夜は家を出ないようにね」
「ちょっと、東光寺君!」
沙良が呼び止めても泰明は止まらず、麗月を連れてそそくさと帰っていった。
どうして泰明は祓魔局から逃げるような態度なのだろうと沙良は思う。それに気になることは他にもたくさんある。血の池の中で死んでいた人、祓魔局と泰明達との関係、そして、麗月への疑念。
どれもこれもが衝撃的でわけがわからず、沙良はもう暴れ出したくなるくらい混乱していた。
どうも、Mt.バードです。
キャベツを一枚剥いて、洗ってそのままバリバリと食べてしまいます。
何もつけずに食べるのも結構好きです。




