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025

 夜になってまた雨が降り出していた。

 雨雲が天を覆い、月明かりを隠している。

 街灯はあるのにどこか暗いこの街並みを、より一層の暗闇で包み込んでいる。

 ねっとりと、肌にこびり付くような夜闇だ。

 十階建てのビルを仰ぐ。

 上へ行けば行くほど靄と闇にまぎれ、屋上まで見渡すことができない。

 けれど一目見ればそれが、廃墟と言うにふさわしいものだとわかる。壁に亀裂が入り、所々が欠けている。鉄骨が剥き出しになっている箇所もある。窓もなくドアもなく、風雨は吹き込み放題。辺りには普通のゴミから、大型ゴミまでも捨てられている。

 工事が半ばで中止され放置されたままのビルは、その存在を根本から否定されたかのように打ち捨てられていた。

「なんかちょっと、怖いね」

 廃ビルを前にした沙良は少し怖じ気づいていた。

 道路側に窓枠用として開けられた無数の穴は、目玉の落ち窪んだ怪物の目に見える。ビルの入り口の中にも先が見えないほどの暗黒が広がり、さながら化け物がその大口を開けて待っているかのように見えるからだ。

「だから帰れって言ってるのよっ」

 邪魔だとばかりに麗月が沙良を睨み付ける。

 沙良はしかし、麗月の言葉に余計にむきになって顔を引き締めた。

「言っとくけどね小娘、お前がどんな目に遭っても、我は助けないわよっ。見殺しにしてやるんだから」

「そ、それでも帰らない!」

 この経験は自分が刑事になったとき役に立つかもしれない。それに一夏を手伝ったことで、自分にも刑事になる素質があるのだと父親に認めてほしいのだ。

「ほんとに獅童さんの安全は保証できないよ?」

 笑みを消した泰明が言っても、沙良は深く頷いた。

「被害に遭うかもしれない女の子がいて、その子をお姉ちゃんが守ってる。これってお姉ちゃんも危ないかもしれないってことでしょ? だったら私、このまま帰れない。お姉ちゃんが危険な目に遭うより前に、東光寺君達に事件を解決してほしいし、私はそれを見届けたい」

 沙良が刑事を目指しているのは、ただ格好いいからとか事件を追いたいからといった薄っぺらなものではない。誰かを守りたいという思いと、その姿への憧れから来るものだった──。


 沙良が小さい頃、父親と銀行に行ったとき、運悪く銀行強盗が押し入ってきた。相手は一人で大型のナイフで武装していた。

 金を手に入れた犯人は逃走の際、近くにいた子供を人質に取った。誰もが動けない中、父親だけは犯人に向き合い交渉という名の脅しをかけ、相手を動揺させ、その隙に犯人を組み伏せた。人質にされた子供は無事で、怪我人もいなかった。

 子供を助けられた親は、沙良の父親に感謝していた。が、父親は、自分は警察だからお子さんを助けるのは当然のことです、と答えていた。犯人を取り押さえた父親も格好良かったが、人命を守るのは警察として当然だと答えた父親が一番格好良かった。だから父親の職業である刑事に憧れた。

 母親が目の前で命を落としている沙良にとって、自分の知る誰かが、自分の目の前にいる誰かが死ぬのは、自分が死ぬことと同じくらい怖い。

 自分は母親の死をただ見ていることしかできなかったから。はかなく、呆気なく、冷たくなっていく身体を揺さぶり、声をかけることしかできなかったから。

 だから今度こそ、守りたい。あのときの父親のように。今一夏が守っているように。自らの手で救うことはできなくても、他に手段があるのなら、それを利用してでも、守りたい。

 そんな沙良の思いが伝わったか、泰明は無感情な表情のまま沙良を真っ直ぐに見た。

「それは仕事の依頼ってことでいいの?」

「うん、そう。東光寺君にこの事件の解決を依頼する」

「この間の蟒蛇事件のときに言った、俺の言うことはなんでも聞くっていう約束は、今でも有効?」

 今度こそ、本当にお金か自分を要求されるのか。それとも、解決するから帰れと言われるか。沙良は覚悟しながら深く頷いた。

 すると泰明の顔がいつもの笑顔に戻る。

「最近母さんの弁当だけじゃ足りなくってさ。学校のある日は弁当作ってきてよ」

「……へ?」

 泰明からの思いがけない言葉に、沙良は動転して間の抜けた返事をしてしまった。

「あの手作りクリームコロッケも頼むよ。あれ、めちゃおいしかったからさ」

「えと……ひょっとして、それが依頼料?」

「ああ。この条件でどう?」

 是非もない。沙良にとってはこの上なく破格な料金設定だ。

 沙良はこのとき、東光寺泰明という同学年の男子がどんな人物なのか、改めて思い知った。その優しさに触れ、胸が熱くなった。だから感謝した。そして何度も頷いた。

「うん、うん! その依頼料払う! ありがとう東光寺君!」

「お礼なら弁当に込めてくれると嬉しい」

「ま、任せといてよ! 涙が出るくらい、おいしいお弁当にしてやるわよ!」

 声を震わせながらも強気になんとか言い切った。沙良の目には涙が浮かんでいた。

「あと、ついてくるのは構わないけど、俺から離れないこと」

「うん。怖いからそうする」

 雨に濡れたふりをして、沙良は涙を拭った。

「主っ、なんでそやつを甘やかすのよ? ——は!? まっ、まっ、まさか! その小娘にっ、ほほ惚れたなんてっ、言わないわよね!?」

 麗月が髪を逆撫でんばかりに取り乱し、その動揺で声まで掠れさせて泰明に詰め寄る。

「ほ、惚れ……!?」

 しかし、顔色を変えたのは泰明ではなく沙良だった。暗闇の中でも提灯のように真っ赤に染まっていた。ついでに胸が高鳴るのを感じて、それを悟られないように傘で自分を隠すのだった。

「ど、どどうなの!? この馬鹿娘にっ、惚れ……ちゃったのっ!?」

 麗月が問い直した。泰明がもし、惚れている、と肯定したらどうしよう、でも聞かずにはいられないという不安をありありと浮かべながら、己の主人を見上げていた。

 沙良にしても、その答えは大いに気になるところだった。自分は泰明に対して特別な想いなど寄せてはいない……はずだが、相手が自分をどう思っているのかは、やはり知りたいのだ、乙女として。

「どうって、獅童さんのことだろ? 好きだよ」

 泰明が特に表情を変えることもなくあっけらかんと答えた。

 しかし、これを聞いた女子二人の心中は大わらわだった。

「な……なんて、ことよ……!?」

 麗月は白目を剥かんばかりにショックを受け、今にも倒れそうなくらいフラフラしている。

 対して、好きだと言われた沙良は、その場で固まって動けなくなっていた。

 沙良は学校でも、彼女にしたいランキングの上位に入る美少女である。だから男子から告白されるというのは、実は、ないわけではない。そのたびに衝撃を受けてはいるが、それは突然言われる驚きと、なぜ自分なんかを好きになるのかという疑問がほとんどだ。けれど今は、それらとはまるで違っていた。鼓動が一瞬止まったみたいに大きく跳ね上がり、全身が熱い。嬉しいのか恥ずかしいのか怖いのか、よくわからないごちゃ混ぜの感情が胸の中でずっと渦を巻いているような気分に陥っている。

 東光寺泰明は、沙良にとっては確かに命の恩人であり、先ほどは命懸けの仕事を格安で引き受けてくれるなどの優しさを向けてくれる人である。或いは趣味のネタになる人物であり、学校が同じで同学年の男子である。けれど、それだけに過ぎない。はずだ。なのになぜ、ここまで動揺しているのだろう。

 沙良はこのとき、息をするのさえ忘れていた。

「もちろん麗月のことも好きだよ」

 泰明がニコニコ顔のまま手を伸ばして、麗月の髪を優しく撫で撫でした。

「はうぅ〜っ」

 たったそれだけで麗月の顔が至福に溢れる。今度は別の意味で倒れそうになっていた。

 従者を撫でる主人を見て、沙良はまるで小動物を愛でているみたいだと思った。そしてあることに気付いて、あっ、と声を上げた。

 泰明が口にした好きという言葉の意味は、沙良に対しても麗月に対しても同じように思える。そうすると、泰明が沙良に言った好きとは、恋愛感情から来るものではなく、飼っている動物に向ける言葉となんら変わりがないのだ。

 そう思ったとき、沙良はなぜか肩を落としている自分に気が付いた。なぜ自分が同学年の男子の言葉にこんなにも一喜一憂しているのかと、ちょっと腹が立った。ドキドキした自分が馬鹿みたいだと、本当に腹立たしかった。

「麗月、今から片をつけにいく」

「はえ!? な、何!? 今から!?」

 泰明に撫でられて夢見心地だった麗月が、寝惚けていた猫が危機を察して急に起き上がったように主人に噛み付いていた。

「主、またなのっ? 今は雨よ、この天気じゃ、相手に有利なことは知ってるでしょ? 我が倒れることは万に一つもないけど、相手の真骨頂が発揮されるときに仕掛けるなんて、愚かすぎるんだからっ。降ってなければ楽に片付くんだし、その小娘との契約なんて反古にしてしまえばいいのよっ」

 麗月が呆れつつ、しかし真剣な眼差しを泰明に向けていた。

 確かに麗月の言うとおりなのである。

 泰明達が行っているのはルールのある試合ではない。相手は化け物。人間の作った規則など守ってくれるはずもない。

 だから相手が不利になる条件を選んで叩くのは当然のことなのである。何せ失敗すれば自分が命を落とす。まさに真剣勝負、命懸けなのだから。

 それをすべて承知の上で、泰明は麗月に今からの解決を提案したのである。

「頼む麗月」

「むうぅっ!?」

 泰明に本気の顔で覗き込まれ、麗月が頬を染めながら言葉を詰まらせていた。

「わ、わかったわよっ。主の頼みなら、仕方ないわね。まったく、小娘の言うことばっかり聞いて……心配するこっちの身にもなりなさいよね」

 麗月はまだ顔を赤くしたままぶつぶつ独り言を漏らし、先にビルへと入っていく。

「俺達も行こう」

 申し訳程度に設置してある柵の隙間を通り抜け、立ち入り禁止のテープを潜って、泰明と沙良も続いた。

どうも、Mt.バードです。

最近はよく、インド料理を食べに行きます。

チーズナンが最高だなと。

でもお腹がいっぱいになりすぎて困るんですが。

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