002
「う……またやっちゃったか」
一夏は周りの反応を見てがっくりとうなだれた。警部補とはいっても刑事としてはまだ新米。一夏としてはあまり目立たないように猫を被っていたいのだが、今のように苛立っていたり沙良のような身内の前ではすぐに油断して口汚い話し方になってしまうのだ。
「ねえねえお姉ちゃん、どうしてあの川越って人と仲悪そうなのよぉ」
沙良はなぜか姉をとがめるように口を尖らせた。
「川越警部補はこういう変死体のあるところには必ず現れるの。ハイエナって呼ばれててね、他の人達もいいように思ってないのよ」
「違うよそうじゃなくて!」
なぜか沙良は身を乗り出して姉に迫る。
「イケメンのおじさまなんてリアルではそうそう出会えない逸材なんだから、仲良くしといてよ!」
「川越警部補がイケメンのおじさま? まあ確かにそうだけど……」
「若い子をあの少年みたいな笑顔で口説こうとするんだけど逆にお持ち帰りされちゃったりした、みたいな経験、あるかどうか聞いてみたいじゃない!」
沙良は興奮して拳までギュッと握りながら一夏に主張した。そしてそのあと頬を赤らめ、大変よろしくない妄想に耽っているようだった。
姉の一夏は、変なトリップをしている妹をたしなめて追い返すかと思いきや、
「それは、うん。ぜひとも聞いてみたいわね。いやあの甘いマスクならちょっとくらい経験あるはずよね、いいえ絶対あるわっ」
まるで妹の妄想を同じ画面で見ているかのように一夏も、にへらっと顔を緩めていた。
「獅童警部補、よろしいでしょうか」
「はっ!?」
相棒の佐藤という刑事に呼ばれ、妹と一緒にはしたない姿を披露していた一夏がよだれを拭き拭き、仕事モードのきりりとした顔に戻った。
「沙良、とにかく帰るのよ」
「私も手伝うよ! そのために来たんだから!」
「それがだめって言ってるの。お父さんに怒られるの、私なんだから。絶対にだめ!」
「私にできることならなんでもするよ? なんかない?」
「いいから帰れって」
しつこい妹を振り切るように一夏が背を向けようとする。
そのとき、人混みを縫って少年がロープ際までやってきた。
沙良が通っている学校の男子の制服姿。
何かいいことでもあったのか、ニコニコとした笑顔。
平均よりもやや身長が高いくらいで、それ以外にこれといって特筆することもない出で立ちの少年だった。何がいいというわけでも、どこが悪いというわけでもない。どこにでもいるような、好かれもせず、また嫌われることもない、クラスの中でも目立たないだろうただの学生だ。
そんな彼よりも目を引いたのが、彼の鞄にぶら下がっていたキーホルダーだった。
それは刀の形をしていて、ちゃんと鞘に収まったデザインになっている。キーホルダーにしては大きく、沙良は見たこともなかったので、変わったものがあるものだと思っていた。
鞄につられている刀型のキーホルダーが、突然吹いた強い風に大きく揺れる。
その途端、遺体を隠すために張られていたブルーシートもまたばさりと音を立てて煽られ、中の様子が見えた。
塀に埋まった遺体を目にした男子の顔つきが、豹変する。
それは驚いたり気持ち悪がったりという普通の反応ではなかった。
笑っていた顔から一瞬で感情が掻き消える。緩んでいた口角は戻り、瞳は冷たい。年齢には似合わない、まるで体温まで下がってしまったかのように冷ややかだった。
その表情のまま、少年は一夏に目を向ける。
「何、君? 沙良の知り合い?」
妹と同じ学校の制服だったのでそう思った一夏。しかし男子の尋常ではない表情を見て、話しかけた声には緊張と警戒が含まれていた。
一夏の言葉を聞いた沙良がふと隣にいる男子を見上げる。
男子も同じように沙良に目線を移動させる。
「うっ!?」
視線を投げられただけで、沙良はドキリとした。心臓を鷲掴みにされたような衝撃だった。それは比喩ではなく、本当に命を握られている気がしたのだ。
「関わらない方がいい、獅童さん」
少年はもう一度、風に煽られたままになっているブルーシートの中の死体を見る。けれどやはり、触れれば切れるような冷たい表情のままだった。
男子はさっと身を翻す。あっという間に集まった見物人の中に消えていった。
「なんだったの今の子。あんたんとこの制服だったけど、同級生とか?」
沙良はまだ固まっていた。
あの少年はなぜ自分のことを知っているのか。同じ学校と言っても、沙良は見かけたことさえない。それに、壁に埋まった変死体を見たときの、あの冷めた表情。死体を見て普通はあんな顔にはならないはずだ。姉を追いかけ回して怖い事件も何度か見ている沙良でさえ、気分が悪くなったのだから。
「沙良、聞いてるの?」
一夏に呼びかけられてはっとする。獅童さん、と呼んだのは、自分のことではなく実は姉のことだったのかもしれない。関わらない方がいい、というのは、一夏への警告か。つまり警察を挑発でもしたいのだろうか。
死体を目撃したときのおかしな反応と、一夏に対する戒め、そして警察への煽り、まさかこれって。
「は、犯人!?」
沙良は呪縛から解き放たれたように大声を上げ、少年のあとを追いかけた。
そんなわけはない。自分の考えは安直すぎて馬鹿馬鹿しいとも思う。それでもあれだけ不可解な要素が重なれば何かあると思ってしまうもの。
幸いにも少年は見つけやすかった。自分と同じ学校の制服だったからよく目立つのだ。
沙良は人混みを掻き分け、去っていく少年に向かって夢中で駆けた。
けれど角を曲がったところで見失ってしまう。沙良が曲がってきたのはこの大きな屋敷沿いの小道。石塀沿いなので道はしばらく真っ直ぐであり、脇道もないように見える。曲がる前までは制服が見えていたはずなのに、そのあとは少年がふっと急に消えたかのようだった。
どこへ行ったのかと沙良はきょろきょろと辺りを見回す。
「あれ? これって……」
沙良はさっき見かけたばかりの珍しいキーホルダーを拾った。
刀型のキーホルダー。沙良の追っていた男子の鞄についていたものだ。
柄を摘んで引くとちゃんと抜けるようになっていて、刀身まで本物の刀のように作られていた。さすがに刃まではなかったが、ただのキーホルダーにしてはよく模造されていた。
「これ、五芒星?」
鞘に戻そうとしたとき、沙良は刀身の鍔に近い部分に五芒星が刻まれていることに気付いた。漫画やゲームなどで見たことがあるものと同じようなものだ。確か、おまじないとか魔除けだったと、沙良は記憶している。
この刀型のキーホルダーが魔除けだったりするのだろうか。なんにせよこれを返してあげる上でもさっきの男子に会わなければと思い、沙良は彼を捜そうと足を踏み出そうとした。そのとき、
「うッ!?」
不意に、背筋にぞくりと悪寒が走った。
さっと後ろを振り向いても何もない。誰もいない。黄昏時、闇が下りようとしている中に、騒動の喧噪があるだけ。だけど沙良は、その喧噪と、自分が、隔絶された場所にいるように感じた。まるで自分だけが別世界に迷い込んでしまったかのような。
ぞわり。
沙良はまた嫌な予感を覚える。
「な、何……?」
少し怖くなって思わず声が漏れてしまった。
ぞわっ、ぞわっ。
また寒気がする。
ふと、脇にある石塀が目につく。
ぐねっ。
「え……っ?」
沙良は見た。
いや、でも、目の錯覚か。
見るからに硬くて頑丈そうな石の塀が、だるんっとたわんだように見えたのだ。
沙良はその屋敷の壁から目が離せなくなった。
そして気付いたときには、自ら石塀に向かって進んでいた。吸い込まれていくみたいに。
いや違った。
沙良の足は一歩も踏み出してなどいない。それこそ目の錯覚。
塀こそが沙良に向かって近付いていたのだ。
そう認識したときにはすでに、壁は沙良の目前にあった。
ぞろりっ。
硬い石塀が滑らかにたわむ。
「な、何……これ……。なんなのよこれ……っ」
こんな硬い塀がぐねぐねとたるんだりするはずがない。独りでに移動することもあるわけがない。
でも目の前でそれは起こっている。
さらに石の壁に、二つの光が灯る。色は禍々しい赤。沙良を警戒して睨んでいるかのよう。
あまりに非常識で未知なる体験に、沙良は恐怖で混乱した。悲鳴が喉につっかえて出てこない。足も根が生えたみたいに動かない。
二つの赤い光が沙良に向かってくる。
鼻先まで迫る。壁が裂ける。まるで口であるかのようにぐばっと開く。
瞬間、沙良は突然道路に倒れ込んだ。誰かに押された気がした。
不意のことで身体を強く打ち付け、そのせいで緊張の糸が切れる。
沙良の意識の中でだけ、夜が進んだ──。
どうも、Mt.バードです。
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