2話 水辺の少女
獅童家の朝は慌ただしい。
最近は特に、父親が早く出て行くため、この家の次女である沙良も早めに起きてお弁当と朝食を作る。それを父親に食べさせて送り出してから、ようやく自分の時間だ。顔を洗い、髪を整え、制服に着替える。
沙良は今、椅子に座りながら落ち着いて朝ご飯を食べていた。
ほかほかご飯と豆腐の味噌汁、焼き立ての塩鮭、ふわふわのだし巻き卵、すりごまを和えたほうれん草のお浸し。それから昨日の夜に漬けておいたキュウリと白菜の浅漬けと、朝から豪華な和定食だ。
「畜生がっ、たっぷり寝られると思ったときに限ってこれだ!」
髪を振り乱し、どたどたと大きな足音を立ててリビングに滑り込んできたのは、獅童家の長女であり沙良の姉の一夏だ。外ではいつもぱりっとした印象の彼女だが、今はかなり乱れている。髪はまだ完全に寝起きとわかるくらいぼさぼさ、羽織ったジャケットも片腕が通っておらず、パンツに至っては前が全開で下着が見えてしまっている。
沙良は何気なしに携帯端末を操作する。カシャリという音が鳴った。
「お姉ちゃん、ブラつけた?」
「なんで?」
「シャツにぷっくりしたのが浮き出てるよ」
一夏ははたと足を止めて自身の胸元を確認する。沙良以上に大きく張り出した胸にシャツがぴっちりと張り付いている。そこに二つの突起がツンッと布を押し上げていた。
「ぷっくりとか、えっ、エロい言い方すんじゃねぇよっ」
一夏は妹の前で顔を羞恥色に染め上げ、慌ててリビングを出て行く。
一夏は同性であり妹でもある沙良から見てもかなりの美人。今のような恥じらいを異性に見せれば、きっと特異な趣味を持つ一夏でもいい彼氏ができるはず、と沙良は思っている。あの口汚ささえ直せば、だが。
しばらくすると一夏がまた部屋に駆け込んでくる。そのときにはもう、髪も整い、パンツスーツもぱりっときまっていた。
一夏はテーブルまでやってきて、沙良が用意した朝ご飯を立ったまま頬張る。食パンにチーズを乗せて焼き、そこに黒こしょうと蜂蜜をたっぷりかけた甘じょっぱいトーストだ。それを味わう暇も惜しむように、飲み頃にまで冷めたブラックコーヒーで流し込んだ。沙良も同じように食べ終わる。
獅童家の朝食は元々、沙良が食べていたような和食中心だった。それはまだ母親が健在だった頃からそうなのである。しかし一夏が刑事になったことで、一夏だけはパン食になった。不規則な生活になることが多く、今のように慌ただしくしていることは珍しくないからだ。警察署長である二人の父親も沙良と同じものを食べ、膨大な書類のチェックがあるからとすでに出かけている。
沙良は一夏の出かけるタイミングを見計らいながら、急いで後片付けをして、二人分の弁当を包んだ。
「おい沙良、なんで弁当二つなんだ。ランチイベントでもあんのか?」
「うん。まあそんなとこ」
「な!? ちょっと待てお前!」
いそいそと準備をしていた一夏が、わざわざ手を止めて神妙な顔つきで沙良の顔を覗き込む。
「その弁当、一緒に食べる相手って男じゃないだろうな!?」
「そうだよ?」
「まっ、まさか彼氏か!?」
「あはは! 彼氏? そんなわけないよ! あり得ない、はははっ!」
一夏の焦りっぷりもおかしかったが、彼氏と問われ、いつもニコニコとしているあの男子の笑顔が頭の中を過ぎって余計におかしくなった。
異性のために弁当を作って一緒に食べるというのは、胃袋をつかむという意味でも恋愛目的なのが普通だ。けれど沙良にとってこれは、もはや勝つか負けるかの真剣勝負。胃袋をつかむというより、餌付けしてやろうと思っていた。そのために必要なアイテムがこの、とっておきの手作り弁当なのだ。
あのニッコリ笑顔はBL対象としては大変に素晴らしい人材だが、恋愛対象になどなり得ない。沙良はもう一度強く、恋愛の可能性を否定した。あり得ない。絶対にない。これっぽっちも、微塵も、ない。はず。と。
沙良が恥ずかしがることもなく、隠そうともせずけらけらと笑うのを見て安心した一夏は、すぐに出かける準備を再開した。
「今日は現場に直行?」
「守秘義務だ」
すでに支度ができていた沙良を視界の端に映しつつ、一夏は手を止めずに素っ気なく答えた。沙良が何を言い出すのかわかっていたからだ。
「事件なんでしょ!?」
沙良は目を輝かせる。一夏が仕事の連絡で叩き起こされ、それに応答する声を聞いていたのだ。
その内容は、死体が出た、というものだった。
しかも一夏の口ぶりから、普通の事件ではないらしい、という匂いを沙良は嗅ぎ取っていた。
「また変死体だったり!?」
また、というのは、少し前に近くの街で人が塀に埋まったまま死んでいる、という怪事件が起こったからだ。そのときの担当刑事が一夏であり、沙良も浅からず関わっていた。
「この間の事件の話はやめろよ」
一夏が途端に不機嫌になる。実はその怪事件の捜査は、急遽打ちきりになったのだ。警察としてはまったく何も解決しないままに。被害者一人、行方不明は二人にも上っているというのに、だ。しかも被害者である屋敷の主人の遺体は消えたまま。警官と、被害者の子供も行方不明のまま。自らが担当する事件でこんなにも被害が出ているのに、突如上からの命令ですべてを中止させられたのだ。
さらにである。報道にまで手が回っており、最初に変死体が発見されたと発表されただけで、そのあとは手違いでしたとばかりに、ただの事故、として片付けられている。それからは一切、ニュースなどでも報じられてはいない。まるで何事もなかったかのように。
捜査が打ち切りになった日、帰ってきた一夏は、もう思い出したくもないと長い髪を乱暴に振り払いながら話していた。それを父親が黙って聞いていたのを、沙良は覚えている。
沙良もネットなどで調べてみたものの、嘘だと思うくらいまったく情報が引っかからなかった。あのあと実際に事件のあった場所まで足を運んでみたものの、本当に何も起こらなかったかのように静かなものだった。
「言っとくけど、お前には関係ねえし、連れても行かねえぞ。お前が関わると親父にどやされるのはあたしなんだからな」
まともに学校行ってろ、と一夏は靴を履きながら沙良を振り切ろうとした。
そこで沙良は奥の手とばかりに、持っていた携帯端末の画面を一夏の目の前にかざす。
「これな〜んだ?」
「げっ!?」
一夏は思い切り慌てた。そこにはリビングにいる服装の乱れた自分が写っていた。もちろんブラジャーをしていない、パンツも前が全開で下着が丸見えのときの姿だ。沙良がご飯を食べながら携帯端末をいじっていたのは、この一夏を撮影するためだったのだ。
「そんなもんいつの間に!?」
「これ、お父さんに見せたらどうなるんだっけ?」
「て、てめえ……!」
二人の父親は相当に厳しく、そして怖い。言い合いをしても最後は必ず負けるし、暴力に訴えても一夏でさえかなわない。それに警察署長といえば、直属ではないにしても一夏の上司でもある。現場へ向かう前に、しかも女である一夏がこんな淫らな格好でいることが知られれば、社会人としての自覚があるのか、現場の風紀を乱すつもりか、などなど懇々と説教されることは目に見えていた。
「今日の現場、どの辺りなの?」
沙良はニコッと微笑む。一夏にはそれが小悪魔の微笑みに見えた。くそっ、と言いたげに舌打ちして、場所を教える。
「それ、うちの学校の近くだよ」
「だから言いたくなかったんだよ」
学校の近くであれば、沙良は必ず嗅ぎ付けてそこへ辿り着く。そんな能力を持っているかのように鼻が利くのだ。どこかのイケメンのおじさま刑事と同じように。
そしてそれが予測できる一夏は、自分の知らないタイミングで沙良が現れるより、そばで自分の監視下に置いておく方がまだ安心だと考え直したようだ。観念したが如く深々と溜め息を吐いた。
「はあ。そんな年で死体ばっか見てっと、ろくな大人になんねえぞ。絶対あたしの言うことを聞く。これが守れねえなら連れて行かねえ」
「やった! だからお姉ちゃん大好きなんだよ!」
沙良は思わず一夏に抱きついていた。
「さ、最近なんなんだよお前!? ベタベタしやがって」
そうは言うものの、一夏はまんざらでもない様子で照れていた。
自分のせいで一夏を危険に曝すという大失態をしてからというもの、沙良は特に一夏が無事でいることに幸せを感じていた。
だからなのか、それまで以上に話すようになったし、ことあるごとに今のように抱き締めたりをするようになったのだ。さっきのように事件が絡んだりすると、姉であろうと脅したりと容赦がないのは変わらないわけだが。
「あたしとの約束、破ったら親父に報告すっからな。死なばもろともだ」
「わかってる。それは絶対に守るから。あ、それから、今度池袋でやるイベント、お姉ちゃん行けないでしょ? だから私が代わりに新刊買ってきてあげる」
「まじか! よく言った妹よ! 沙良が妹であることをお姉ちゃんは誇りに思う!」
一夏が狙っているのは、イベントでも委託分もあっという間に売り切れてしまう人気サークルの本なのだ。いつもは買えず、ショップ通販のサイトの売り切れという文字を眺めているだけだったが、それが手に入るかもしれないという期待が持てただけで、一夏は多分に興奮していた。沙良をギュッと抱き返す。
獅童姉妹はしばし、玄関先で熱い抱擁を交わしていた。
どうも、Mt.バードです。
今日から2話が始まりました。
これからもよろしくお願いします。