015
「──くッ!?」
泰明が呻く。
その頭上には蟒蛇の巨大な顎が迫っていた。
「読みが甘かったっ。つがいだったか!」
蟒蛇が元々二匹存在していたことを、泰明は気づけなかったのだ。
パートナーを殺された大蛇は逆上したように吠え、泰明へと空を裂くような勢いで突進する。
先ほどの攻撃で力を使い果たした泰明には、抵抗の手段がほとんど残っていない。咄嗟に魔斬りを構えるものの、術などを展開する様子もなかった。
「我が主に穢らわしい刃を向けるなって言ってるのよ痴れ者が!」
麗月が刀を手に蟒蛇の顔面へと突っ込む。だがほんの僅かに、怪物の方が速く、間合いに入りきらなかった。それでも麗月は主を助けるべく銀刃を振るった。
ガキッと硬質な音が鳴った。
「く……ッ!?」
麗月が呻いて唇を噛んだ。
彼女の刃は、巨大な蛇の頭ではなく毒の牙にしか届かなかったのだ。
麗月の一撃によって折られた大きな牙は泰明の足下に落ちる。それはまだ毒液を滴らせていた。
「これだっ」
泰明は何かを思い付いたような声を上げ、必死に身体を投げ出して化け物の大口を避けて転がりながら牙を拾って立ち上がる。
それと同じとき──
「がッ!?」
主人へ突進する妖魔を止められなかった麗月は、蛇行しながら脇を抜けていく蟒蛇の胴体の攻撃を受けて吹っ飛ばされ、反対の家の壁に叩き付けられる。壁に無数のひびが入るほど強かに、麗月は打ち付けられていた。
しかし怒り狂った巨大な蛇は止まらない。自身の折られた牙を追うかのように、蟒蛇の顎が猛スピードで泰明に切り込む。大きな口を開け、丸呑みにせんと肉薄する。
それをギリギリまで引き付けた泰明は闘牛士のように身体を捻る。蟒蛇の猛攻を辛うじてかわしていた。身体のすぐ脇を、長大な大蛇の鱗に鎧われた胴が走行中の電車のような勢いで通過していく。泰明はそのタイミングを逃さなかった。
「おとなしくしろっ」
持っていた毒牙を蟒蛇の鱗に思い切り突き立てた。
「毒牙・刺突」
蟒蛇が苦痛代わりの咆哮を上げる。狭い道ばたに頭を投げ出すように倒れ込んだ。
「自分の毒は効くだろう」
表情を変えぬまま冷たく言い放ち、麗月を呼ぶ。
「言わなくてもわかってるわ!」
吹っ飛ばされ壁に激突させられた麗月だったが、すでに復活していた。巨体に向かって素早く飛ぶ。そしてほとんど動かなくなっていた蟒蛇の頭上に刃を突き立てた。
「さっきはよくもやってくれたわね、愚か者! 我に気安く触れるなんて、絶対に許さないんだからッ!」
容赦なく、目にも止まらぬ速さで刃の連撃を繰り出す。その巨大な頭をただの肉片へと変えるが如く何度も斬り刻んだ。
蛇の化け物は断末魔を上げる暇もなく、命を絶たれていた。
「ふふ」
麗月が、沙良と同じくらいの年とは思えぬほど妖艶な笑みを漏らす。その身体には蟒蛇の大量の返り血を浴びていた。大人びた美しい顔も、透き通るような白い肌も、綺麗な着物さえも、生臭い血で汚れてしまっている。なのに嫌がる素振り一つ見せない。むしろ嬉しいとでも言いたげに頬を染めていた。
「……今宵は、これで我慢してあげるわ」
麗月が、どこか恍惚とした溜め息を吐いた。
もう一体の蟒蛇の巨躯が消えていく。まるで煙になったように。そこには初めから何もなかったかのように。塵となり、空気に混じり、先に倒されたものと同じく跡形もなく掻き消えた。
「ふぅ。期待してなかったけど、まあこんなものかしら」
「……あ、あれっ? どうして?」
もう一度うっとりとした吐息を漏らした麗月の姿を見て、沙良は思わず声を上げた。
麗月に血がついていなかったからだ。
つい先ほどまでの麗月は蟒蛇からの大量の返り血を浴び、全身どろどろだった。なのに今は血塗れどころか、血を浴びた痕跡さえも残っていないのだ。和装から覗く素肌は闇の中でもぼんやりと輝くかのように白く、艶やかな髪は風にさらりと靡いている。街灯に照らされた着物にも、染み一つ見当たらなかった。まるで返り血など浴びなかったかのように。一滴も余さず吸収してしまったかのように。
蟒蛇が消えてしまったから、その一部である血液も、すべて消失してしまったということなのだろうか。
「さすがは我が主ね。力を使わなくても、奴の動きを見事、止めてみせるなんて」
麗月は年齢以上に艶のある微笑を浮かべて泰明を見た。
「毒蛇でも多くの種類は毒に抗体を持ってないらしい。自分の毒を飲み込んでも消化を助けたりするだけだけど、傷から毒液が体内に入り込んだりすると、そこから血流に乗って全身に毒が回る。結果、蟒蛇はあんな風に身動きが取れなくなったんだ。──て、ネットで調べたことがあって、試してみたんだ。うまくいってよかったよ」
泰明から冷徹な仮面が剥がれ落ちていた。ニコニコとした笑顔を取り戻している。
「それに今の蟒蛇みたいに毒を持つ大蛇の牙は、昔は特に、対人戦闘にも妖魔退治にも重宝されてた武器でもあるしね」
その昔は獣の牙や爪を集め、矢尻にしたりと原始的な武器を専門に扱う者もいた。中でも毒を持つ動物の牙などは貴重で、大きくて新鮮なものが好まれた。だから蟒蛇などの大型の妖魔を狩ることを生業にする者もいたという。それを槍や棒手裏剣などに加工して使っていたそうだ。
敵の毒牙で刺すという攻撃は、そういう知識がある泰明だからこそできた技でもあった。
「麗月、よくやったよ」
「ま、まあ、主の命に従って主の刃になるのが、我の役目だし。我はその役目を果たしただけだけどねっ」
ぷいっと横を向きながらも、麗月の声色は得意げだった。褒められることにも弱いようで、頬にも赤みが差しているように見えた。
「と、ところでさぁ主、その……ご褒美っていうのは、なんなの? あっ、いやっ、ご褒美がほしいって意味じゃないんだけどね?」
「わかってるよ。ちゃんと考えてあるから」
泰明が麗月の頭に手を乗せ、しっとりとした髪を優しく撫でる。
「はうぅ〜……っ」
麗月は急に脱力して、まるで温泉にでも浸かったときのような心地よさそうな声を上げた。化け物を前にしても怯むことなく勇猛であり、その上あんなにも巨大な蛇を容赦なく斬り捨てて倒してしまったのが同じ少女とは思えないほど、麗月は泰明からの撫で撫でに陶酔していた。
その姿は、親に毛繕いをされて気持ちよさそうにしている小猫のようで、沙良には微笑ましく思えた。
そんなとき、警察がまた大騒ぎを始めた。
いつの間にか空間のずれがなくなり、元の一つの世界に戻っていた。
どうも、Mt.バードです。
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