僕はもう嫌だ死にたい本当はそこまで死にたいわけでもないけどもう嫌ださっさと死にたい
僕は今、カレーライスを食べている。食べながら、死にたいだなどと書いている。死にたいという思いは嘘ではない。さて、今日何を食べるか、ハンバーグか、あるいはカレーか。僕はどちらも食べたいがどちらか一つしか選べない。僕はカレーを食べた。さて、ハンバーグを食べたいという僕の望みは嘘だったのだろうか? そんなことはない、ハンバーグだって食べたかったさ。
それと同じさ。生きることと死ぬこと、どちらか一つしか選べないから、僕は今日も生きている。さて、死にたいという僕の思いは嘘だったのだろうか? そんなことはない。この思いはハンバーグだ。四捨五入で切り捨てられたもう一つの答えだ。人生のif文であり、それもまたtrueなのだ。
しかし、僕はそうまでしてハンバーグを食べたかったのだろうか? それもまた、noかも知れない。ひょっとしたら、僕はベジタリアンかも知れない。つまり、本当はそこまでして死にたいわけでも無いのかも知れない。
ならばなぜ死にたいだなどと言うのだろうか。それは人によって様々だが、僕の場合それはつまり、死という大きな存在について考えるという、そのプロセスを通して、人生を喜劇にしたいという思いがあるのだ。よく言う、人生は近距離で見ると悲劇だが、引いて見ると喜劇なのだ、というやつだ。
死ぬという、生涯をかけて行う大事業について考えるとき、そこにはどうしてもマクロな視点が必要になってくる。途端にこの苦しい日々は、くだらない喜劇の一コマと化すのだ。苦しくて、悔しくて、惨めで、心を針でプチプチと刺されるような、このどうにもならない、血と呪いに満ちた、恥の多い、いやいっそ恥が服を着たと言う方が正確かもしれない、糞の日々は、途端にチンケなおもちゃと化すのだ。
その行為を成す上で、死にたいという言葉は、何というか、ちょうど良いのだ。状況にとてもマッチするのだ。例えばこれがポジティブな言葉なら、僕は魅力的な人間だ。しかしそれだと嘘になる。ゆえに行きつく言葉は自然とネガティブな物になる。周りからすりゃ迷惑? 知ったこっちゃない。ばーか。それは嘘だが、やはり僕は心のどこかで、本当に死にたいとも思っているのだ。というか、誰だって、心のどこかでは、やってらんねー死にてーと思ってるはずだ。その気持ちの、多い少ないの問題でしかないのではないか。「死にたいは、生きたい」だと言うなら、僕はこうも思う。「生きたいは、死にたい」だと。すべての物語が結末へと向かうように、生きるという行為の最終目的地もつまるところ死ぬことだと言えるのではないだろうか。だから何だって言うと何でもねーよ。自分でも書いてて意味分かんなくなってきたよ。ハンバーグのくだりから既に意味分かんねーよ。やっぱ死にてーよ、もうやってらんねーよ。なんか良いこと書いてpt入れてもらおうと思ってたけどクソみたいなことしか書けてねーし、何より僕はゴミだから、こんな文章食品ロスだわ。脳は栄養を使うって言うから、食べたカレーがここに注がれてる。こんなクソの文章に。すなわちこれこそ食品ロスだろ。いやもう僕自身が食品ロスだわ。服を着た食品ロスだわこれ。ああもう死にてーよくそったればーか。