燃え尽き坂
子どもの頃、今思えばくだらないことに挑戦したりしませんでしたか?
突拍子もない空想をしたりしませんでしたか?
そんな子どもの頃のあるあるを元に書きました。
燃え尽き坂。
それは杉の木台という高台の住宅地に存在する、とてつもなく傾斜の急な坂のことである。
アスファルトではなくコンクリート舗装されたその坂は壁のようにそびえ立ち、坂の多いこの住宅地の中でも別格の存在感を見せつけている。名前の由来は定かではないがコンクリートの色が燃え尽きた灰のように見えるからだとか、登ると燃え尽きたように疲労困憊するからだとか様々な説がある。
小学5年生のケンジはその燃え尽き坂に戦いを挑んでいた。
戦いの内容は至ってシンプルで「足を着かずに自転車で登り切る」というものだ。自転車で足を着かずに坂を登るというごく当たり前のことが挑戦になるほど燃え尽き坂は手強い存在なのだ。そしてこの戦いはケンジのプライドを賭けた戦いでもあった。
ケンジと燃え尽き坂の出会いは4月の始めだった。新学期のクラス替えで同じクラスになったサトルと仲良くなったことがきっかけだ。ゲームの話で盛り上がり、サトルの家でゲームをしようという話になった。
「俺んち、ちょっと遠いけど大丈夫?」
「杉の木台だろ?そんなに遠いか?大丈夫だって。」
「ずっと坂登るし、トドメに家の前の坂が『燃え尽き坂』っていうエグい坂でさ。」
「なに、その坂。そんなエグい?」
「あの坂はチャリで登るの無理かな。俺、足着かずに登ったことないもん。」
「俺、陸上やってるしそんな坂余裕だって。楽勝、楽勝。」
小学5年生のケンジにとって遊びに行くときに自転車は必須だった。杉の木台は行ったことがないが、学校でサトルと待ち合わせて一緒に行くし大丈夫だと思った。また陸上クラブに所属していて脚力には自信があった。坂ごときにビビってたまるか、と高をくくっていた。
しかし、その自信はあっけなく崩されてしまった。
まず見た目に圧倒された。燃え尽き坂は「坂」というより「壁」だった。コンクリート舗装された様子は妖怪ぬりかべのようでケンジをジロリと冷酷に見下ろした。
あんなに強気だったケンジは一瞬ひるんだが、持ち前の負けん気を取り戻し燃え尽き坂に挑んでいった。燃え尽き坂は生意気な小学生など屁でもない、といった様子でケンジを返り討ちにした。高台の坂道をずっと登り、消耗した体力で挑んだのだから無理もない。50メートル足らずの坂だが、半分も登らないうちに自転車を降りる羽目になった。
肩で息をし、ガクガクする足で自転車を押しながら悔しさをかみしめた。脚力に自信があったぶん、打ちのめされたような悔しさだった。悔しくて情けなくて「燃え尽き坂制覇」を誓ったのである。
そして今日が再挑戦の日。
前回はコースを甘く見ていたことが敗因だった。杉の木台は古くからある住宅地で区画整理がされておらず、山の斜面に沿って建った家々の間を縫うように曲がりくねった坂道が続く。この坂道の連続がじわじわと体力を奪っていく。そして件の燃え尽き坂は頂上付近にあり、登り切ればもうそこはサトルの家だ。すなわち、いかに体力を温存した状態で燃え尽き坂に挑めるかがカギになる。
サトルには家の前で待っててほしい、と頼んだ。燃え尽き坂に挑むから見届けてほしいと。ケンジの挑戦にサトルはマジかよ、と驚いた。絶対無理だ、と言いつつも無鉄砲なケンジならやりかねないという好奇心をにじませてサトルは証人を引き受けた。
行くぞ。
ケンジはゆっくりとペダルをこぎ始めた。まずは学校まで。距離にして500メートルほどの平坦な道だ。ここは何の問題も無くクリアした。
問題はここからだ。学校を出てケンジの家とは反対方向に500メートルほど進むと杉の木台に入る。つまりここから延々と上り坂が続く。
行くぞ。
ケンジは再びそう呟いた。
目の前にそびえ立つ杉の木台がゲームに出てくる魔王のダンジョンのように思えた。さまざまな敵や仕掛けでケンジを苦しめる。勇者ケンジはプライドを賭けて立ち向かう。目指すは魔王・燃え尽き坂だ。絶対に倒してみせる。
小学生男子にありがちな空想で気分はすっかり勇者となったケンジは坂を上り始めた。始めは緩やかな坂道だ。ゲームであれば雑魚キャラといったところか。こんな奴らにHP(体力)を奪われている場合ではない、できるだけ温存しておくんだ。そんなことを思いながら先を急いだ。
ゲームに出てくるダンジョンというものは敵がいるだけではない。迷路のように複雑ですんなり先に進めなかったり、扉の鍵を開けないといけない等といった仕掛けが存在する。杉の木台は鍵の掛かった扉こそないが、同じような家々が連なる上に道も曲がりくねってわかりにくい。坂道でHPを使い、道を間違えないように進む、坂道に心折れないといった点でMP(精神力)も使う。ますますダンジョンのようだ。
書道教室をやっている家の角を右に。そこから2つめの角は左に。頭の中にダンジョンマップをイメージしながら進む。
コースの中盤を過ぎた頃にはじっとりと汗がにじんできた。坂道は徐々に急になっていく。敵のレベルも上がってきた、ボスも近い。ケンジは回復ポイントに立ち寄ることにした。
ケンジにとっての回復ポイントとは杉の木台の集会所のことだった。集会所の前にベンチと水飲み場があり、ボス戦の前に回復しておこうという作戦だ。
水飲み場でむさぼるように水を飲む。水ってこんなに美味かったっけ。一口飲む毎に回復していくのがわかる。完全回復だ。
もちろんゲームではないので完全回復したわけではないが、勇者ケンジはそう信じていた。集会所を過ぎるともうすぐ魔王・燃え尽き坂のお出ましだ。
行くぞ。
本日3回目の「行くぞ」は一番力が入っていた。あの角を曲がるといよいよ燃え尽き坂だ。
角を曲がるとコンクリートのローブをまとった魔王が現れた。燃え尽き坂は相変わらずの冷酷さでケンジを見下ろした。
今日はひるまない。
ケンジは果敢にアタックを開始した。ハンドルを握りしめ、ペダルに力を込める。ペダルは先ほどの坂道とは比べものにならないほど重い。一回転させるだけで大きな鉄の塊を引きずっているような負荷がかかる。魔王が足に呪いをかけ、足の自由を奪ったようだ。
呪いに苦しみながらもケンジは前進する。前回自転車を降りたポイントは過ぎた。残りあと20メートル。
ここでケンジはフォーメーション・チェンジをした。つまり立ちこぎだ。
しかし魔王の呪いは手強く、フォーメーション・チェンジをしても呪いは解けない。粘ってはいるが、HPもMPも残りわずかだ。その時、魔王のものとは別の呪文が聞こえてきた。
「ケンちゃーーーん!!あと少しだーーー!!がんばれーーーーー!!!」
うつむいていた顔を上げると、坂の上からサトルが声を張り上げているのが見えた。腕をブンブン振り回し、まるで援護をしているようだ。
その姿で、その声で、魔王の呪いは解けた。MPは完全回復し、HPはわずかに回復した。最後の力を振り絞り、ペダルを踏み込んでいく。
パッと視界が変わった。コンクリートしか見えなかった光景から一転、興奮して飛び跳ねるサトルが目に飛び込んできた。
「ケンちゃん!!すげぇよ!!登り切ったじゃん!!すげぇ、すげぇ!!」
ケンジは満身創痍で、その場にへたり込んだ。喋ろうにも呼吸をするのもままならず、何も言えなかった。駆け寄ってきたサトルとハイタッチをするのが精一杯だった。しかしそれで十分だった。
ついに魔王・燃え尽き坂を倒したのだ。坂の上から見下ろすと何とも言えない達成感がこみ上げてきた。汗だくの体に初夏の風が心地よく、青空をいつもより近くに感じていた。
王国を守った訳でも、囚われの姫を救い出した訳でもない。ただ目には見えない宝物を勇者ケンジは手に入れたのであった。