伍話 異邦の剣士
屍が血の華を咲かせる無人の野に、一人立ち笑声を上げる魔人を遥か遠くから眺める者があった。イヴァンとフーゴである。二人は衛兵の集団が優勢に闘いを進めていた間もこの戦場を離れる事を選択した。それが功を奏し魂喰いの殺戮の牙をギリギリの処で免れていた。
「許せ、ヘルマン」
己の言葉で死地へ赴かせ結果的に見殺しになってしまった事に罪悪感を感じ謝罪の言葉を吐露するイヴァン。フーゴは無言で湧き上がる感情を抑えていた。ヘルマンだけではない。共に艱難辛苦を乗り越えてきた大勢の仲間が命を落としたのだ。それを前にして眺める事しか出来なかった己の不甲斐無さ。その怒りを思わず目の前の相手にぶつけたくなる。
「ゆこうか」
互いに感情を隠し合いイヴァンはそう言うと虐殺と言う名の爪痕が刻まれた広場に背を向ける。まだ衛兵としての任務は終わっていない。今誰よりも魔人についての情報を持っているのは自分たちなのだ。これを持ち帰り何としても次へと役立てねばならない。戦場から離脱する衛兵の二人組と入れ違いに広場の方へと歩を進める者があった。巨大な木剣を背負い奇妙な黒の民族衣装を着た、見たこともない異国の風貌を持つ男であった。
「おい、貴様!!そっちは危険だ。行けば殺されるぞ!!」
フーゴが足を止め怒声と共に警告する。みすみす命を失いかねない愚かな異国の男に対する怒りが込められていた。男は衛兵の言葉が耳に届いていないのか、それとも解しないのか歩みを止めるどころか速めて魔人へと迫ってゆく。
「まずい、魔人がこちらを見ている。逃げるぞ、どうした?」
今のやり取りが魔人に聞こえたとも思えぬが赤い瞳がこちらを見つめていた。イヴァンが覇気のない声で逃亡を促すが、フーゴは信じられないといった呈で呆然とし、すれ違った男の後姿から目を離せないでいた。
「あの異人、笑っていた」
ぼそりと呟くと若い衛兵は同僚の制止も聞かず夢遊病者のように異人のあとを追いかけ始めた。
「フーゴ」
突然の奇行に困惑するイヴァンの呼びかけにもフーゴは応じなかった。壮年の衛兵は僅かに逡巡するが仲間の背中から目を逸らし反対の方向へと歩き出す。広場の出口で更に二人の人間とすれ違った。
魔人は己が創りだした惨禍を見下ろしていた。すると身体の何処からか形容し難い衝動が溢れてくるのが感じられる。心の赴く侭、口が笑みをつくり漏れ出た音は哄笑となって大地を震わせた。笑うのをやめ徐に視線をずらすと、そこには生き残った赤壁の姿。周囲には他にも僅かながら息をしている者がいるようであった。射るような視線の圧力に耐えかねて赤壁が行動を起そうとした時、魔人の注意は広場とは反対方向へと向けられていた。魔人の瞳には自分へと向かって歩いてくる何者かの姿が映る。人間の男であった。感じられる魔力は大したことがない、大地に沈んでいる者たちの方がまだ強い魔力を有していた。だが如何なる故か、磁力を帯びているかのように目が吸い寄せられ離れない。更に近づいてくる。
異邦の剣士は殺意も敵意も発する事なく、散歩でもするかのように魔人へと歩を進める。目には喜悦の光。屍が埋め尽くす広場には目もくれず男の視線は魔人にのみ注がれていた。腰から緩く反った刀、神殺しの謂れを持つ鬼丸國綱を抜くと同時に抑えていた気を解放した。大気を焦がすような波動が未だ距離のある魔人の身体を打つ。刀を一振りすると走り出した。
凄まじい速さで間合いをつめると獲物を見つけた肉食獣の様に襲いかかった。魔人は異邦の剣士の体重の乗った撃ち下ろしを、片腕で握った蒼い大剣を胸の前で掲げ難なく受け止めた。軽々と跳ね退けるとそのまま頭部を割りにいく、後方に体を崩されながら咄嗟に左手を柄から離し峰に当て防ぐ異人。とてつもなく重い剣撃に刀の峰が頭上に迫り、叩き伏せられそうになるが両の足で大地を掴む。身体中の筋肉を震わせ何とか耐えた。
魂喰いが刀越しに男の魔力を喰らってゆく。だが異邦の剣士は如何ほどのものも感じていないようであった。
無尽蔵。
魔剣が喰らう以上の気が男から溢れていた。
魔人の片腕と異邦の剣士の全身の力が伯仲する。魂喰いと鬼丸国綱が激しい火花を散らす。冒険者や衛兵の装備する鎧を武器ごと断ち切ってきた長大で幅広の魂喰いに比べ、遥かに細い刀身の異国の刀はだがびくともしない。堪えきれ無くなったのは刀ではなく主の方であった。
均衡が破れ徐々に蒼の大剣が迫り刀の峰が額に触れた。異邦の剣士の震える足が大地を割って亀裂を作り深く埋まり始める。このままいけば力任せに頭部を割られ冒険者たちのように両断されるのは想像に難くない。だが異国の男の顔には絶望ではなく愉悦。口が愉しそうに大きく歪んでいた。
少しずつ、少しずつ人間離れした男の気が更に高まっていく。気の高まりと共に男の持つ刀が魔人の大剣を押し戻し始める。異常に発達した魔人の右腕に力が加わり、それでも押され出すと左腕で大剣の柄を握り力を込めた。異邦の剣士と魔人の力が完全に拮抗する。両者の腕が足が小刻みに震えていた。魔人の赤い瞳に驚愕の光が点る。信じられないことに異人の気は更なる高みを目指し尚も膨張を続けていた。
「ぬぉう!!」
腹のそこから雄叫びを上げ異邦の剣士の全身の筋肉と言う筋肉が膨れ上がり魔人の膂力を上回る。両の足が勢いよく大地を蹴り、その力を両腕に伝え眼前まで迫っていた魂喰いを弾き飛ばした。魔人の足が大地を掴み損ね、巨躯が宙に浮く。体勢を崩さず着地した魔人に息をつかせず異邦の剣士が迫る。異人の荒ぶる気を受けて鬼丸國綱が剣の嵐となって縦横無尽に襲うが、魔人は人を遥かに超えた筋力と反射速度でその全てを受けきっていた。初撃の撃ち下ろしとは比べようもない重い攻撃が連撃となって魔人を押して行く。百を越える冒険者と衛兵を軽々と屠って見せた魔人が一撃も返せないほど追い込まれていた。このままではまずいと本能が訴えたのか、流れを断つべく魔人は後方に跳んで大きく距離をとった。
太い筋肉の束で覆われた足が大地に触れた瞬間、魔人を白く光る立方体が包んだ。
白く光る立方体が魔人を囲んでいた。表面には幾何学模様が踊る。直後、立方体は柱のような八つの直方体に分裂すると水平に円陣を組み中心の魔人を圧搾する。魔人が展開する不可視の刻印魔法文字と衝突、激しく紫電を発生させ青い明滅を繰り返す。刹那、魔人の動きが止まった。八つの直方体の想像を絶する圧力で文字による結界ごと動作が封じられたのだ。
魔人の持つ大剣が蒼く強く光ると封縛効果が減衰。
震える手足で力任せに直方体を押し戻す。そのまま手に持った魂喰いが蒼の光閃を引くと八つの直方体全てが破壊された。砕け散った直方体の破片は青白い光を散乱させながら大気に溶けてゆく。
瞬くより短い時間だったが、その隙を見逃すような使い手ではない。だが異邦の剣士は刀を握った手をだらりと下げたまま何もせず立っていた。男の目には興が削がれた光が過ぎる。異人の狂気を宿した黒い瞳と魔人の赤く燃える瞳が交錯し、無言で対峙。物言わぬ視線が交わされ、やがて魔人は踵を返し地下迷宮へと戻って行った。その後姿が迷宮の闇へと消えたあと、漸く異国の剣士は血振りをして刃を鞘に収めた。
魔人の殺戮から逃れ、固唾を呑んで異邦の剣士の闘いを見守っていた人々は胸を撫で下ろす。冒険者と衛兵を虐殺し辺り一帯をその屍で埋めつくした暴風とも言うべき脅威が去っていった。我に返った少数の者達は、生き残った事に安堵する間も仲間を失った悲しみに暮れる暇もなく行動を開始する。何人かが応援を呼びに街へと駆けて行く。魔人を迷宮へと追い返した異邦の剣士に興味は尽きなかったが、直ちに周囲に散らばった遺骸を片付けねばならない、疫病が発生してしまうからだ。何より虚ろとなった肉体は放置すれば彷徨う魂を呼び入れてしまう。今は動く事だった、動いていれば哀しみを紛らわせる事が出来る。
ただひたすら目を見開いて異国の男と魔人の戦いを凝視し続けたフーゴが夢から覚めたように軽く痙攣する。目の前を通り過ぎようとする男に、我知らず何かしらの声をかけようとした時。
「ちょっと貴方、わたしがせっかく動きを封じたのに何で倒さなかったのよ」
忙しなく動く者たちを背景にフーゴの横から若い女の高い声が異国の男へと投げつけられる。男が声の方を向けば豪奢な金髪に勝気そうな青い瞳を持つ美しい女の姿があった。女は精霊銀の白く輝く軽鎧を身に着けており、手には魔術師特有の杖。その頭には赤く光る石が嵌め込まれ魔法式が浮かんでいる。杖の使い込み具合から相当の熟練者の様に思われた。男は女を一瞥すると、何も言わずその場を立ち去ろうとする。
「ちょっと、言葉が分からないの?異国人、貴方に言ってるのよ」
異国の剣士は立ち止まると低い声で女に向け一言だけ口にした。
「余計な事を」
「何ですって!?」
魔術師は思っても無い言葉を返され感情的な声を上げた。男は興味も無いように女の前を通り過ぎ、そのまま街の方へと歩き去る。魔術師は悪態をつき暴言を吐き続ける事で男を見送る代わりとした。その様子は周囲の興味を引き、手を止めた衛兵や冒険者たちの視線を集めていた。尚も罵倒を繰り返す魔術師の横で異人に話しかける機会を奪われる形となったフーゴに、何時の間にか近くにいた赤壁のゲロルドが問うた。
「いいのか?」
街の方角へ消えた異人の背を見つめていた衛兵は小さく頷くと赤壁の三人に礼を言い、後始末に追われる人々の列に加わった。
「俺たちも行くか。シュバイツとグンターを弔ってやらないとな」
ゲロルドの言葉に仲間の二人は首肯しフーゴの後を追った。背後では女の罵詈雑言が尚も続いていた。
「その辺にして下さい、お嬢様。お怒りはご尤もですが淑女にあるまじき行為です」
横に控えていた女としては長身の騎士が謹厳実直に宥める。全身を精霊銀製の鎧で覆い、腰には輝くような銀色の鞘を持つ剣が、背には円盾が背負われていた。そのどれもが小さい傷が絶え間なく刻まれており魔術師の装備と同じ様に使い込まれていた。鎧から出た頭部は兜を被っておらず、金色の髪は短く刈り込まれ、髪型とは対照的に女性らしい顔立ち、その青い瞳は強い意思の輝きを放っていた。
「シャールロッテ、お嬢様はやめてと何度言ったら分かるのよ、わたしの事はリーゼと呼べって言ってるでしょう」
「ではリーゼ、周りの者が何事かと好奇の目で見ております。一緒にいる私まで恥ずかしいので大声を上げて喚くのはやめて下さい」
慇懃無礼な物言いに更に感情的になりそうになるが、噴火の寸前で自制心が僅かに上回った。深呼吸を何度か繰り返し心を落ち着かせる。その様子を女騎士は黙って見守っていた。魔術師は間を置き
「あの蛮族、貴女はどう見た?シャールロッテ」
真剣な表情で騎士に問いかける。
「恐るべき使い手と見ます。あれ程の魔人とまともに打ち合える人間がいるなど、実際に目撃していたとは言え自分の目が正直信じられません」
女騎士の怖れを含んだ目は魔人が消えた迷宮へと注がれていた。
「あの魔人、わたしの最大封縛魔法を一瞬で破壊したわ」
「えぇリーゼ。更に瞠目すべきは異国人は確実にあの時に出来た僅かな隙を認識していたと言う事です、そしてその絶好の好機をわざと見逃した。あれほどの強さを見せた魔人を相手にしてです」
視線を魔術師に戻し数瞬の間考え込むようにして続ける。
「あの男はお嬢様、リーゼが手を出さなくても自分の勝利を確信していたのではないでしょうか。ですから余計な事をしたと憤慨したのでは。そして魔人も己の敗北を悟り身を引いたとしたら」
「化け物ね」
リーゼと呼ばれた女魔術師は端正な顔に引き攣った笑みを浮かべる。
「はい、言葉通り」
「勝てる?」
リーゼは返ってくる答えを恐れるように女騎士に問うた。
「何度も言っているでしょう、リーゼ。勝てぬ人間などこの世には存在しません。勝てないと断言する輩はお頭が足りないのです」
目に確信の意思を込めた女騎士は主人に向かって言い切った。リーゼは安心したように頷く。
「アサンテとヤースコーにも見ておいて欲しかったわね。もしかしたら敵対する事もあるかも知れないし」
「宿に帰ったら私が出来るだけ詳しく伝えておきます。それから、あの異邦の剣士の攻略法を」
「でもあの蛮族が一人じゃなく同じ位階の仲間がいたら笑っちゃうわね」
リーゼの軽い口調に暫し無言の後シャールロッテは口を開く。
「それは笑えない冗句です、リーゼ」
面白くない冗談を聞いたように女騎士は答えた。