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ほろ苦さは何から生まれる?

作者: 汐梨


バレンタインというものがある。

昔々その昔、イタリア―当時のローマ帝国のとある皇帝が、兵士の士気の低下を恐れて、結婚が禁止したらしい。互いに睦み合っていながら、同じ墓には入れぬそんな男女を憐れんだ司祭は、教会の奥深くで極秘裏に結婚を認めさせていたそうな。しかし、極秘裏に行われていたとて、いずれは明るみに出てしまうもので、司祭は取り押さえられ、処刑されたらしい。2月14日のことである。その司祭の名前をバレンタイン。

彼が殉教した日に敬意を示して、追悼を捧げる日であったはずなのだが、とある詩人が「バレンタインデーの季節になると鳥が恋人を作る」などとうたったことで、なぜだか恋人の日となり、男女が愛を誓う日となった。

ここまでが一連の流れである。ここで言っておきたいことは、バレンタインデーなるものが元々とある司祭の殉教日であったことと、それがいつしか恋人の日となり男女が愛を誓う日であったことだ。

この流れに一切チョコレートなるものは出てきていない。

しかし、この風習が日本へ辿り着いた時、なぜだか「女性が意中の男性に対してチョコレートを贈ることで愛を表す日」ということになっていた。

そして、今年も2月14日を迎える。





2月14日。恋人たちの祭典。周りはとても浮かれ気分です。

友人の宮原麻里奈はお付き合い1年と8ヶ月に突入した片桐大輔さんのために、キッチンで格闘していたそうです。キッチンっていつから戦場になったんでしょうかね、というようなことを言ったら、


「乙女が汗水垂らして好きな人のために頑張ってるところはどこであっても戦場でしょ?」


って返答をいただきました。たぶん深夜かつ2月の気温というところを考慮すると汗水は垂らしていないと思います。汗水垂らしてたら垂らしてたで何て言うか、こう、怨念めいたものが入ってるような気がしますね。そうだったらたぶん煮沸消毒してから食べるべきなのではなかろうかと思います。ちなみにそこから数十メートル離れたところにある彼女の部屋の机には課題が溜まっていると思います。見てはいないけどたぶんそうです。提出は明後日なのにどうなることやら。

そんな猫も杓子も心躍り、希望と絶望が入り混じるそんな日。教室の後ろの方では誰にもチョコレートをもらえない、もしくは、クラスの女子から「一目で義理とわかるチョコレート」をもらってとぼとぼと帰る男子高生がいました。こういうのを絶望って言うんだと思う。でも、家に帰ればお母さんなりお姉ちゃんなり妹なりがチョコレートをくれる人もいるからまだマシだと思います。たとえそれがお姉ちゃんや妹が本命にあげるためにできた失敗作であったとしても。

さてさて、教室の後方で絶望がひしめく中に希望というものもあって。

わたしの席のちょうど左斜め前の席には希望がありました。

そのチョコレートという名の希望に取り囲まれていたのは吉岡葵です。さすがミスター・パーフェクト。チョコレートが山済みです。左隣には吉岡の親友の川原くんが「お前ホント景気良くもらってるよなー」と言っていて、右隣の学年トップの美人さんで、密かに吉岡の彼女と噂されている敷島さんは「手作りのものってもらっても処理に困るわよねぇ」と上から目線で言っていました。……敷島さん口ではそう言ってたけど、このギザのピラミッド並に積みあがったチョコレートの中に、あなたがたぶん3日かけて作り上げたと思われるチョコレートがありましたよ。

……その事実について、わたしはあえて言わないけれど。言ったらあんまり良いことがなさそうなのは、敷島さんがクラスの上位カーストにいて、わたしが中位カーストに属しているということでお察しください。いくら残り1ヶ月あまりの2年生とは言え、そこで高校卒業ではないのである。少なくともあと10ヶ月くらいは高校に在籍しなきゃいけないのだから、無用な争いは避けたい。というか、敷島さんどっちかっていうと苦手なタイプだし。何て言うか、物理的に強そう。勝てない。というか、戦いを申し込みたくない。

そんな左大臣右大臣に囲まれた太政大臣・吉岡はと言うと、終始笑顔で「ありがとう」と言っていた。張り付いた笑顔の得意な奴である。こういう性格は実に政治家向きだと思う。いや、王様向き?帝王学を勉強したわけじゃないからわからないし、マキアベリの『君主論』をチラッと読んだだけだけど、こういうのを「狐の知恵」っていうのかもしれない。

わたしは学校指定のスクールバッグに教科書やらノートやらを詰めて、教室を出た。教科書入れるとき、何かに当たった気がするけれど、それはきっと気のせいじゃない。

麻里奈は片桐さんにチョコレートを渡すため、というかバレンタインデートのために早々お帰りなられた。

そして、ロンリーなわたしは下校しようかと思ったのですが、階段を降りるどころか上がりました。

向かった場所は、社会科準備室。


「あぁ、牧野さんか」


教科書やらプリントやらで埋まった机の中でそれらを避けるように置かれた使い込まれたマグカップ。その中に入っているのはミルクコーヒーということは知っている。

50代に届くかというところの一見して上品な紳士は渡辺先生だ。


「こんにちは、先生。借りてた資料集返しにきました」


「別にすぐ返しに来なくても良かったのに」


先生に借りていた資料集を渡すと、先生はやれやれと言った調子で言った。


「借りたものは早く返さないといけないなぁと思ってたので」


借りたものは早く返す。そうじゃないと、忘れるのである。

図書館で借りた本なら返却期限があるから返さなきゃ!ってなるんだけども、資料室から借りた本って返却期限があるようでないようなものだからうっかり忘れるのである。ちょっと前に借りた本は大掃除した時に見つかって思わずげってした。ベッドと壁の隙間に落ちてるなんて思っても見なかったし……先生も何も言わなかったからだ。


「まぁ、そうかもしれないね」


先生は苦笑して、ぱらぱらと資料集をめくった。この行為に特に意味はないと思う。ただ単純に手を動かしたいだけだ。


「君は勉強熱心だけど、こっちの道に行く気はないの?」


こっちの道っていうのはつまるところ歴史学の道だったり、先生だったりである。


「本読むの好きですけど、知識を吸収するのが好きなだけですからね」


あくまでわたしは本を読むのが好きで、たぶん研究とかそういうのには向いてない。本読むのは好きだけど。受験期のリフレッシュは図書館で本を読むことでしたし。


「まぁ、好きなことを仕事にするのは骨が要るからねぇ。嫌いになることだってあるだろうし」


一番好きなことは仕事にしてはいけないと、先生は言っていた。好きだから仕事になるけれど、仕事になれば嫌いになることだってある。好きでいたいなら、仕事にしてはいけないということらしい。


「で、君はたぶんただ返すために来たんじゃないんでしょ?」


ぐっ。先生はお見通しだった。

先生とは付き合いはそんなに長いわけじゃないけれど、1年の頃に世界史係だったからか、話す機会は多くて、それで何となくこうやって話すことが多くなって。

まぁつまるところ、先生は誰にも言っていないわたしの考えっていうものがわかっているのだ。


「……渡せてないんですよね」


「やっぱりね。ここに来るってことはそういうことなんだろうと思ってたよ」


わたしが教科書を入れようとしたときにつっかえていたのはチョコレートだった。ご丁寧にラッピングされた、チョコレート。……買ってきていた。誰に渡すかって言ったら、吉岡にだ。


「有象無象の中に放り込むくらい簡単でしょうよ。あの子は何て言うんだっけ、そうモテるから」


「放り込むにせよ何にせよおっかない番犬みたいなのがいますよ」


おっかない番犬。それが敷島さんのことであるというのは言うまでもない。


「番犬が常に主人の近くにいるとは限らないでしょうよ」


「……まぁ、そうですけど」


確かに敷島さんは右大臣左大臣レベルにいるけれど、吉岡の行動を制限するほどにはいないということはわかりきった話である。


「渡すだけ渡してくればいいじゃない。減るもんじゃないし」


「わたしの心の平穏は減ります」


「女子高生の心の平穏なんてそんなに重たいものじゃないよ。それより渡せなかった時の後悔の方が甘酸っぱいだろうね」


……先生の言葉は一理あった。

きっと、渡せなかった時の後悔の方が大きい。たとえそれがどんな形でも大きいということはわかっていた。


「どうせ彼はまだ帰ってないんだから、渡してきなよ」


時間は午後4時。まだ吉岡は帰ってないはずだった。

わたしはバッグを握り締め、先生を見た。


「……渡して、きます」


「はい、いってらっしゃいご武運を」


「わたしが行くのは戦場じゃないです」


「うら若い乙女にとっちゃ、好きな相手にチョコレートを渡すのはある種戦争でしょう」


戦争。バレンタイン戦争。何てことでしょう。

バレンタイン司祭が殉教した日で、恋人たちが愛を誓い合う日はいつの間にか戦場になっていたのである。

怖い怖い。バレンタインはいつから殺戮の現場に。

そんなことを思いつつも、わたしは戦場に足を踏み入れたのでした。




戦場に足を踏み入れたわたしは吉岡を探した。教室には、いない。

ギザのピラミッド並に盛られたチョコレートも、右大臣左大臣もいなかった。

携帯にメールも入っていなければ着信履歴もなかった。つまり告白されているというわけでもないんだろうと思う。

そうやって探していたら、廊下に吉岡の姿が見えた。一人きり、かな。


「よしお……」


か、の音は出てこなかった。

吉岡は一人きりじゃなかった。誰かと話していた。それは川原くんでも敷島さんでも、隣のクラスの中川さんでもなかった。


妙子先生だった。


本当のことを言えば、わたしが吉岡にチョコを渡せなかったのは、番犬みたいにおっかない敷島さんがいるからではなかった。

吉岡が妙子先生のことが好きだと、知っていたからだ。

これを知ってるのはわたしだけで、川原くんも敷島さんも、誰も知らない。

遠目で見る吉岡の顔は、教室で見るような政治家ばりの張り付いた笑顔じゃなくて、本当に、嬉しそうな顔だった。


踏み込めない。踏み込んじゃいけない。


そんな気がして、わたしは踵を返した。

邪魔しちゃ、いけない。




それからどうやって家に帰ったかは憶えていない。

けれど、吉岡にあげるために昨日キッチンという戦場で1時間戦った結果できたチョコレートを入れた箱はひしゃげてて、わたしが泣いていたということだけは、事実だったのだ。




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