太陽と月と空
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仕事中、外回りから帰ってくると、普段かかってくることのない息子の学校から電話がかかって来た。なんだか要領を得ないが、よくよく話を聞くと、どうやらケンカらしい。
担任の若い女の先生はとても慌てて、というかパニックを起こしていて上手く話すことが出来ない。とりあえず学校に来てくれ、という所だけ理解したら、電話を切られてしまった。
どうしたらよいものか。兎にも角にも学校に行かなければいけない。息子がケンカしたのだ。相手が誰とか、怪我はしたのかさせたのか、そういう重要な部分は聞けなかったのだがとにかくケンカしたのだ。今すぐ駆けつけて叱ってやらねばならない。
課長に半休をもらい、私は会社を飛び出した。
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直ぐにタクシーを拾えた。十秒も走らなかった。息子の通う学校の名前を告げると、二十分で着くという。後部座席にゆったりと座ったら気が抜けてしまった。こういう時、親なら全速力で走って、時には転び、時には倒れながらも駆けつけてやるものではないだろうか。いや、これは違うか。私もどうやら混乱しているらしい。眼鏡を外して、顔を揉み解すように擦る。
もう直ぐ十二になる息子は、実の子ではない。妻の連れ子で、まだ六年と少ししか一緒に暮らしていない。そしてその妻も、二年と半年前に他界している。
妻との出会いは会社だった。あまり優秀とはいえない大学を卒業したてのペーペーの社会人となった私の、教育係となったのが、五年先輩で当時総務課にいた彼女だった。非常に明るく快活で、皆の中心でいつも輝いていた。人をひきつける不思議な魅力のある、まさに太陽であった。私が失敗すると笑い飛ばして次成功させろと激励し、怒らせると実に恐ろしい目だけ笑っていない笑顔で私を責め立てた。そして喜ばせることができると、二十cmも高い私を力のかぎり抱きしめた。そして本当にうれしそうにこう言うのだ。
「ほめてつかわそうぞ!」
と。
私はその妙に古風な言葉が聞きたくてがんばった。とてもがんばった。がんばり過ぎて倒れるほどがんばった。その甲斐あってか、教育期間である一年が過ぎて、私は花形である営業一課に配属となった。同期は有名大学ばかりだった。彼女は、それはうれしそうに抱きしめて、またあの言葉を言ってくれた。私はうれしかった。思い余ってか、その時私は彼女に本気のプロポーズをした。唐突過ぎたかあえなく一蹴されたが。
思い返せば一目惚れだったのだと思う。ぼんやりとした性格と起伏の少ない反応、名前の一部から「月」と昔からあだ名されてきた私が、太陽であった彼女を好きになるのは、しごく当然であったのかもしれない。その後お付き合いからという流れに何とかも持ち込み、私は後に息子となる少年に出会った。
彼はものの見事に彼女に似てなかった。
寡黙で真面目、かっとすることもあるも面に出さず直ぐに冷静に判断することの出来る、表情に乏しい不思議な子だった。
あれから色々とあった。だが、私に懐いてくれているのか、未だに分からない。話もするし友達も紹介してくれる。ちょっとした相談もしあえるしチャンネル争いでケンカになったりもする。出会って六年。二人になって二年半。あまり見た目に感情を出さない息子は、なにを思い、なにを考え、そして私をどう思っているのか。
私は、父親になれているのだろうか。
窓の外を眺めながら、私は息子のいる学校へと進んでいく。
2
これはいったいどういう状況なのだ。
私は目の前にいる二人の子供をみて、唖然としていた。オロオロとうろたえる担任の気持ちがよく分かる。
一人はもちろんわが息子である。見事にボロボロだ。口の両端は切れて血が滲んでおり、鼻の辺りには引っかき傷らしい赤い線が二本並んでいる。左目の横には、すでに青を通り越して紫に近い色をした、見るも無残なアザが広がっている。さらには服も埃まみれで、胸元には靴の跡らしい型がそのまま残っている。随分と酷い有様だ。まさにケンカ帰りといった風体だ。
対して、もう一人は女の子であった。私もよく知る息子の友達だ。気の強いボーイッシュな子で、口数の少ない息子とは対照的に良くしゃべる活発な子だったはずだ。少し前まで線の細い少年のようだったが、髪を伸ばしたらしくすっかり少女らしくなった。
その子が、息子と仲の良かった女の子が、俯いて声も上げず泣いていた。号泣だ。背中をピンと伸ばし、時折しゃくりあげるように肩が跳ねる。手はぎゅっと握り締められ、膝の上で震えていた。
その手が、というか拳の中指と人差し指の辺りが、赤く腫れていた。少し血も出ている。まるでなにか硬いものを殴ったような、ボコボコに殴り倒したかのような。
二人を交互に見る。片やボロボロで黙りこんだ息子。片や泣きながら赤く染まった拳を握り締める女の子。これではまるで、女の子が息子を一方的に殴ったようにしかみえない。それ以外この場面から想像できるものがない。でもまさか。
「お父様。とりあえずこちらにお掛け下さい」
唯一落ち着いている学年主任の先生が、見かねたように声をかけた。担任の先生が先に動くのを待っていたようだが、諦めたらしい。正しい判断だ。私以上に担任は取り乱していて、保健の先生に治療を受けている息子に痛くないかと声をかけたり、泣き続ける女の子に近づいてとりあえず頭に手を乗せてみたりと、よく分からないがなにやら忙しくて私が来たことにもまだ気がついていない。
息子の隣に座り、見慣れぬ顔を見た。
「……ケンカ、したのか」
苛められた、という言葉はあまりに過激すぎた。この場では地雷に近い。一瞬悩んでケンカと濁した。息子は痛そうな顔をこちらに向け、グッと眉間に力を入れて頷いた。直ぐに保健の先生が前を向かせる。
が、突然、息子の向かいに座る女の子が首を力いっぱい振った。担任が飛び上がり、零れていた涙が左右に飛び散る。
「ケンカじゃ……ない?」
女の子が首を縦に振る。頬に視線を感じ、息子を見ると、私をじっと見ながら首を横に振る。
「これはどういう……?」
担任に聞くのは難しそうだ。なので学年主任を見る。五十を過ぎてすっかり額の後退したベテラン主任は、深く頷いて口を開いた。
「分かりません」
分からないのかよ!
じゃあ無駄に偉そうに頷くな!
と溢れそうになった言葉を飲み込み、ぐっと堪える。ここで怒ってはダメだ。当り散らすのは赤子でも出来る。子供の前ではきちんとした態度で、模範となる姿を見せるのが親の務めだ。感情に任せてはいけない。理性的に。論理的に。冷静に話をしなければ。
「どういうことなんですか!!」
怒声に飛び上がる。内開きのドアが蹴破られん限りの勢いで開けられ、やけに化粧の濃い顔を真っ赤に怒らせた女性が飛び込んできた。
同じく飛び上がった担任からハンカチを借りていた女の子が、泣き顔のまますごく嫌そうな表情で女性を見た。今思い出した。女の子の母親だ。母親は自身の娘を見ると一瞬で表情を崩し、飛びついて抱き締めた。女の子が更に嫌そうに振りほどこうとするもお構いなしだ。そして検分するように女の子をまさぐると、キッとこちらを睨んだ。怯む私と息子。
そして、機銃掃射のように怒鳴りだした。
3
息子と女の子がケンカするところを見ていたクラスメイトから先生たちが聞いた話によると、こういうことらしい。
お昼休みが始まって十分ほどたったころ、廊下で女の子が息子に対して叫んでいる声がした。ちょっとしたケンカならいつものことらしいのだが、今日ばかりは様子が違ったらしい。息子の方が言い返さないのだ。普段なら言い合いになり取っ組み合いではなくとも手が両方から出るところだ。
だが、今日はいつまでたってもそうならない。小さくなにか呟いたのみで、目もあわせなかったらしい。ついに女の子が手をだした。平手ではなく、拳で、だ。ゴツッと骨と骨がぶつかる耳の奥に響くような音がして息子が倒れる。呆然と立ち尽くす女の子。息子は立ち上がり、二、三言なにかを言って背中をむけた。女の子がついに泣き始める。
そして、女の子は気勢を上げながら息子に飛びかかった。
私は話を聞きながら、息子と女の子を交互に見ていた。さっきから二人ともうつむいて顔を合わせようとしない。向かいに座っているのに、一度もだ。
「なあ」
息子に話しかける。痛々しい顔を上げる。
「一度も、手を上げなかったのか?」
少し充血した目を合わせて、息子が力強く頷いた。その目は、思った通り強い光を灯していた。
それは、決意の光だ。
「……なるほど。分かった」
私がそういうと、息子以外の全員が私を向けた。問いたげな顔だ。だが、これは言うわけにはいかないだろう。息子の気持ちを裏切ることになる。親として、子供の気持ちは尊重しなければいけない。
なにより、これは女性陣には理解できないだろう、男のプライドの問題なのだから。
4
その後様々な嫌みを母親から頂いたが、結局双方おとがめなしとなった。反省文を書くぐらいなんでもないだろう。息子の怪我も見た目ほど酷くないようなので、不味いところはきちんと防いだらしい。女の子の手首が捻挫していたが、そちらも酷いものではない。
なにより、今日の一件は明らかに女の子に過失があるようにみえる。母親もそれに気がつき責任逃れのためか色々とぐちぐち言いそうになったが、私が無理矢理うやむやにした。女の子を悪者にするのは息子も不本意なはずだ。なので喧嘩両成敗ということで濁した。面には出さなかったが、母親は安堵していたようだが。
廊下の先で、息子が女の子になにかぼそぼそと言っている。女の子はまた泣き出していたが、何度も頷きながらゴメンと言っている。多分大丈夫だろう。ちゃんと話せば分かってもらえるはずだ。
「あの、お父さま」
振り返ると、担任の先生が立っていた。
「この度は、私の管理不行き届きのせいで、その、大変申し訳ありませんでした」
消え入りそうな口調でそういうと、地につきそうなほど深く頭を下げた。慌てて頭を上げてもらう。部屋のなかを覗くと、母親がしつこくもグチグチと学年主任に絡んでいる。担任もかなりやられたらしいい。
「いえいえ、いいんですよ。どちらかというと自業自得ですから」
そういうと、担任の先生は首をかしげた。やはり分からなかったらしい。口をもごもごとと動かして、それから悔しそうに小さく突き出した。すねた。
「……よろしければ教えていただけないでしょうか。何度聞いても話してくれなくて……」
申し訳なさそうな、それでいて少し不満そうに俯かせた顔を上げ、上目遣いに尋ねてきた。興味本位というわけではなさそうだ。良いところがなかったので勘違いしそうだが、多分、この人はいい先生なのだろう。
「大したことではないんですよ。あの子も口下手で伝え方、というかやり方かな、少し間違えただけでよくあることだと思います。息子の、なんといいますか。男のプライドです」
「男のプライド……ですか? 男のプライドを守るためにただ殴られていたんですか?」
「逆です。男のプライドにかけて、手を上げなかったんですよ」
「手を、上げなかった……?」
そう。息子がボロボロで女の子が怪我をしていなかったのは、女の子が強くて息子が弱かったとか、いじめを受けていたとか、そんな話ではない。ただ、息子が殴りかえさなかったということだ。
「でも、なぜ手を上げなかったんですか? やりかえして欲しいわけではないですが、いつもあんなに仲がよかったのに突然どうして」
「それは、女の子の方を見れば分かります。最近、あの子以前とどこか違いませんか? たとえばそう、服とか。髪とか。印象とか」
「え? えっと、そういえば髪が伸びましたし今日はワンピースを着て女の子らしく、……え?」
「分かりました? あの子、前はとても男の子っぽいかったですよね。でも大人に近づいて、女性らしくなってきた。息子も気がついたんでしょう。いつも一緒にいた友達が女の子だということに。だから突然手を上げなくなった」
「女の子だから……女の子に手を上げるのは、男のプライドに反するから?」
「その通り」
5
そう。いってしまえば、女性として扱おうとしたのだ。
いつも一緒にいて、身近にいすぎて気がつかないことがある。それは決して大事にしていないわけではない。むしろ親しく感じているからこそ、すこしづつ変化する日々の成長に気がつかないのだ。朝、当たり前のようにおはようと言い、ふと思いついたバカなことを言って共に笑い、些細なことで言い合いになって口を利かなくなり、でもすぐに寂しくなってどちらからともなく和解して、また笑いあい、そして明日も一緒にいると信じてさよならと言う。永遠に続くと信じて。明日の明日も一緒にいると信じて。
だが、ふとしたきっかけで変化に気づいてしまう。近くにいすぎたからこそ気がつかなかった、すでに大きく変わってしまった現実に。そして気がついてしまった変化をもう忘れることは出来ない。知ってしまったことはなかったことには出来ないのだ。それは棘のように、針のように、ちくちくと刺さり続ける。なんでもないように振舞う時点でなんでもなくないのだ。普通を意識することはもう普通ではない。刺さったものを抜かなければ、もういつも通りには戻れない。そして、抜くには必ず、痛みを伴う。それがどんな痛みかは、抜かなければ分からない。
息子は抜こうとしたのだ。刺さったものを。痛みを伴うと知っていても抜かなければいけなかった。なぜなら、大事な友達だから。
そして、女性には二種類いる。女性扱いされて喜ぶ者と怒る者だ。おそらくあの子は後者だったのだろう。突然態度を変えられ、戸惑い、哀しみ、そして憤ったのだ。友達ではなかったのかと。だから手首を捻挫するほど殴りかかった。泣きじゃくりながら。友達だから。
「そうだったの……」
担任は廊下の向こうで楽しげに話す生徒たちを見て、その様子に小さく笑った。さっきまで泣いていた女の子が息子の青あざを触ろうと手を伸ばしていて、本気で痛いらしい息子が逃げ回っていた。さっきまでの空気はどこへやら、だ。
息子は抜けたのだろう。刺さっていたものを。痛みに耐えぬいて。
そういえば、彼女も女性扱いされるのをひどく嫌っていた。妻は女性らしく見えるよういつも気を使っていたものの、それを見つけて女性として扱おうとすると本気で嫌がった。だからといって気がつかなかったり、気がついても何も言わないと、それはそれで嫌らしくすねていた。もしかすると、妻の子供の頃はあの子みたいだったのかもしれない。だとしたらやはり、男というものは母親の姿を追うのだろうか。それとも、母をなくしたあの子が特別なのだろうか。
「それにしても、よくお子さんを理解しているんですね。いえ、理解しあってる、のでしょうね。よく似た親子ですものね」
「え?」
ふと零された言葉に、振り返る。担任の先生は、私を見て、にっこりと笑った。
「さっき息子さんに尋ねたとき、とても素直に答えていましたよね。そしてお父さまも分かったのに何も言わなかった。息子さんが自分で、自分の口からあの子にきちんと伝えたいだろうと思ったからですよね? そして息子さんも、お父さまがちゃんと分かった上でそうしてくれると思ったからあんなに素直に答えたんだと思います。ちゃんと理解しあって、ちゃんと信頼し合ってるんですね。なんか、そっくりですよ」
私は、なにもいえなかった。
息子は、あの子は、私を理解して、信頼してくれていたのか。近くにいたのに、初めて気がついた。
私はあの子の親になれたのだろうか。
どこかで、彼女の笑う声が聞こえた気がした。いや、きっと彼女は笑うだろう。そんなことも分からなかったのかと。
「空!」
息子の名を呼ぶと、駆け回っていた息子が気がついて駆け寄ってきた。
私は膝をついて、腕を広げる。
そして、ぎゅっと抱きしめて、言ってやるのだ。
「ほめてつかわそうぞ!」
と。