第三章 「彼女がいなくなって」
寝不足の目をこすりつつ、大きなあくびをしながら、僕は学校に行った。
彼女がいつも乗るバスの時間には、また間に合わなかった。
朝の四時まで会話していたので、彼女との会話が、ついさっきの事のようだった。
──すっかり忘れていたな。
昨日の朝に、何を伝えたかったのか。
彼女が早退したという事件が、それを上書きしてしまっていたらしい。
僕は、教室に入ると、彼女の姿を探した。
半ば習慣とも言える、その行動。
しかし。
どこにもいない。
彼女が座っていた席には、別の女子が座っていた。
席替えしたの? と聞くと、怪訝な顔が返ってきた。
彼女の事を聞くと、余計に怪訝な顔が返ってきた。
なんだ、これは。
何が起こった?
僕は、混乱した。
クラスメイトに、彼女の事を聞くと、誰に聞いても、同じ答えが返ってきた。
誰の事?
──誰の事?
僕が、一生懸命、彼女はこの席に座っていてこういう人物で、と説明しても、皆同じ答えが返ってきた。
誰?
そうだ、携帯電話は?
僕は職員室に駆け込み、担任の先生から、緊急だと言い張り、半ば強引に携帯電話を返してもらい、アドレス帳や着信履歴を見た。
ない。
彼女の情報が、一切、ない。
──そんなバカな!
僕は、混乱し、たくさんの怪訝そうな視線の中、学校を飛び出した。
僕だけが覚えている、彼女。
本当に、彼女は、いたのだろうか?
元々いないとしら、僕が覚えている、この彼女との記憶はなんだ?
僕は、知っている。
彼女の顔。
ちょっと茶色がかった髪。
誕生日だって知っている。今日が誕生日なはずだ。
今日で十四歳になる、学校では大人しく、控えめな彼女。
僕の前ではいつも強気で、たった三ヶ月、先に生まれたからと言って、お姉さん気取りだった彼女。
彼女がいない世界は、僕の世界ではない。
それでも、僕は、この世界で生きて行かなければならない。
どうして?
──彼女と、約束したから。
約束? 誰が誰と約束した? 何を約束した?
──お前が約束をした。それは、この世界を生きる事。それが約束。彼女がそう望んだから。
本当に、僕は、約束した?
──約束、した。
お前は、誰だ?
──僕は、僕。
僕は──誰だ?
突然、僕は、後頭部に衝撃を受けた。
頭が、真っ白になり。
意識が、途絶えた。
***
「なぜ君はここにいる?」
男の声がした。
目を開けると、そこは、どこかの薄暗い部屋だった。
埃っぽい匂いがした。
目の前には、古びたワークデスク。
そして、明度の落ちた、これも古びたスポットライト。机を挟んだ向こう側には、黒いスーツを着た男が、一人。
──何かの取り調べみたいだ。
自分が自分でないみたいに、頭が回らない。
「聞こえているか?」
男は、僕に問いかけているようだ。
ここは、どこだ。
なんで僕は、ここにいるんだ。
頭の後ろが痛い。
手でさすろうとしたが、手が動かない。
僕は、パイプ椅子に太いロープで縛られていた。
なぜ、縛られているんだ?
「聞こえているか?」
男は、もう一度、尋ねて来た。
意識が、はっきりして来た。
僕は、学校を飛び出し、後頭部に衝撃を受けて意識を失い、気がつくと、なぜかパイプ椅子に縛りつけられている。
状況は分かったが、理由が分からない。
「……聞こえています」
何とか、声を絞り出す。のどがからからに渇いていた。
「念のため、拘束させてもらった。悪く思うな」
男はそう言い、身を乗り出す。
「もう一度聞く──君はなぜ、ここにいる?」
そんな事、僕が知りたい。
「分かりません」
「なぜ?」
「分かりません」
「そうか」
男は立ち上がり、部屋を出て行った。
壁が薄いのか、小さく、男の声が聞こえる。どこかに連絡を取っているようだ。
「……はい、そうです。彼は、何も覚えていないかも知れません……はい、はい……」
ここがどこか分からないが、窓もなく、ドアの向こうには、男が一人。
今なら、逃げられるかも知れない。
このロープを、『力』を使って引きちぎれば──
──あれ?
ロープがちぎれない。
経験上、この程度のロープなら、『力』を使えば、簡単に引きちぎれるはずだった。
だが、今はどうだ。
びくともしない。
何度試しても、ダメだった。
──『力』が、なくなっている!
今までは、僕にとって厄介なものでしかなかった『力』が、なくなっていた。
理由は、分からない。
僕が気絶している間に、薬でも投与されたか、何か別の方法で『力』を消されたのか。
なんにせよ、はっきりしているのは、今の僕はただの中学生男子で、この状況から抜け出す手段がない、と言う事だ。
絶望。
なんで、こんな事になったんだろう。
僕が何をしたの言うのだろう。
とにかく、ここを出なくては。
男が、部屋に戻ってきた。
机を挟んで、向かい側の椅子に座る。
沈黙が、周囲を支配した。
先に、口を開いたのは、僕だった。
「あ、あの」
「なんだ?」
男は、口を開くのも面倒だ、と言うように、言葉を吐き出した。
瞬時に、頭に血が上る。もう、僕は、黙っていられなかった。
「僕は、何でここにいるんですか? それに、何で縛られなくちゃいけないんですか? そもそも、ここはどこなんですか? もしかして、誘拐ですか? それなら無駄ですよ、僕には両親がいないし。施設に面倒を見てもらっているんです。今なら、全部忘れます。絶対誰にも言いません。だから、早くこのロープを解いて下さい!」
一気にまくし立てた。
息が荒い。
冷静で、いられない。
それでも男は、態度を変えなかった。
再び、沈黙と静寂が訪れた。
いつまで、この状況が続くのか。
主導権は、完全に、向こうにあった。
ふいに、男が立ち上がった。
懐に手を入れ、携帯電話を取り出す。着信が入ったようだ。
男は、また部屋を出て行った。
息苦しい。
薄暗い部屋。
窓もない部屋。
申し訳程度の範囲しか照らさない、古びたスポットライト。
気が狂いそうだった。
聞こえてくるのは、ドア一枚隔てた、この部屋の外側にいる男の声だけ。
それだけが、ここが人間がいる世界だという証だった。
現実の世界。
でも、僕にとっては、現実とは思えない世界。
「……それは……! いえ……はい……分かりました。そのようにします……はい、はい……」
男が戻ってきた。
また、向かい側の椅子に座る。
表情からは、何も読み取れない。
完全に、無表情。
視線が、やけに冷たい。
まるで、自分とは違う生き物を見るような目。
「君は、」
男は、言葉を区切り、再び沈黙した。何か、言葉を探しているようだった。
「君は、この世界で、いや、この世界に」
再び、沈黙。
「この世界に、いたいか?」
何を言っているのだろう?
「彼女がいない世界で、生きて行く事に耐えられるか?」
雷に打たれたような衝撃が、僕の体を貫いた。
彼女がいない世界だって!
今、この男は「彼女」と言った。
彼女の事を、この男は知っている!
「彼女を知っているんですか!」
「耐えられるか、と聞いている」
「知っているなら教えて下さい! 彼女は、どこにいるんですか!」
「君は、存在しない人間だ」
会話がかみ合っていない。
「何を言って……」
「君は、いや君たちは、救済の終わったこの世界に、存在しない人間だ。少なくとも、上層部ではそう認識している。だが、君は、こうしてここにいて、俺と会話をしている。それがどういう事か、分かるか?」
何を言っているのか、ちっとも分からない。
救済?
存在しない?
世界がどうとか、僕がここにいて、彼女がいなくなって、それに、どんな関係があると言うのか。
「俺はな」
男は、初めて、表情を変えた。
哀れみ。
そうとしか言えない顔になった。
男は、静かに、言葉を続ける。
「俺は、下っ端の人間だ。詳しい事は分からない」
男は、一旦、言葉を区切った。
「だがな」
大きく、息を吸い、吐き出した。
「だがな、上層部が決めた事は、納得出来ない」
僕は、男の次の言葉を待った。
「そのロープ、切れないだろう?」
そう、『力』が消えてしまったから。
「君は、普通の、ただの中学生だ。戸籍もあるし、親がいないとは言え、施設の世話になって、中学に通っている。ちゃんと『存在』している。ただ」
「ただ?」
「君が、今、この瞬間に、消えてしまったとしても、世界に影響はない。何も起こらない」
消、える?
「彼女は、結果を残した。君という結果を」
彼女?
頭が、混乱している。結果ってなんだ?
僕が、彼女の残した結果?
「約束、したのだろう?」
約束。
僕が。
彼女と交わした約束。
「生きろ、と言われたのだろう?」
男の表情に、穏やかさが宿る。
「思い出せ。そして、抗え。君が出した答えが、彼女の、世界の答えだ」
答え。
抗う。
僕が出す答え。
「可能性があるなら、諦めない事だ。君が答えを出すには、その可能性を試す必要がある」
男は、大きく、ため息をついた。
僕は、目の前の男が、人間であることに、初めて気がついた。
「俺も、しょせんは、人の子なのさ。人間が人間を消すなんて、そんな馬鹿げた事をするために、ここにいる訳じゃない」
「……」
「良いか、一度しか言わん」
男は、立ち上がり、小さく、呟くように、言葉を紡いだ。
それは。
彼女の名前だった。
次の瞬間。
頭が真っ白になり。
そして、暗い闇が、僕の意識を断ち切った。
***
闇の中、僕は、ひたすら、歩いていた。
何も照らす物がない闇。
ここがどこなのか。
歩いているけれども、本当に歩いているのか。
僕には、全てが、不明瞭だった。
黒スーツの男が言った、彼女の名前。
それを聞いた時から、僕はこの闇の中にいる。
どれくらい時間が経ったのか、分からない。
ふいに、はるか向こうに、明かりが見えた。
丸い、光。
徐々に近づいてくる。
それは。
──満月だ。
その刹那。
世界が、広がった。
雲一つない、満月の夜空。
足下は、コンクリート。
目の前には。
彼女が、いた。
***
「君は、戻れ」
彼女は、屋上に張り巡らされた柵から向こう側を見据えたまま、僕に冷たく言い放った。
いつもの彼女の口調ではなかった。
雰囲気も違う。まるで別人だった。
「ここにいれば、死んでしまうより悲しい事になる。だから……戻れ」
死ぬより悲しい事?
死んでしまえば、悲しいなんて思う事も出来ないじゃないか。
そんな事より、僕は、彼女が心配なのだ。
「どうしたんだよ、一体」
彼女は、視線を、ゆっくりと、僕に向けた。
焦点が合っていない。僕のはるか後方を見ているような視線だ。
「もうすぐ、私は、私でなくなる」
「?」
「理解して欲しい訳ではない。現実として、もうすぐ、『私』という存在は、この世界から消えてなくなる」
どういう事かさっぱり分からなかった。だが、僕の心の奥底というか、心の深いところで、ああそうか、今なんだ、という思考が、動き始めた。
僕は、何かの役割を持ち、ここに、いるべくしているのか。
「今なんだね?」
僕の中の誰かが、僕の口を使ってしゃべっている。なんだ、この感覚は。
「……そうか、君も……」
一瞬だけ、彼女の表情が変化した。目を見開き、そしてすぐ、無表情に戻る。
何かを諦めたような表情に見えた。
「そうだ『今』だ。これから起こる事には、本当は君が必要だ。……だが私ともう一人の『私』は、君を巻き込みたくない。だから、ここから、離れろ」
「そんな、勝手な事……」
これから起こる事を知っている『僕』と、それを知らない僕の両方が、それぞれの立場から、そう思った。
そんな事は出来ない、と。
***
「そう、勝手な事かも知れない」
彼女は、僕から視線をそらし、続ける。
「既に決められた事を、私の勝手な思いで変えようとしているのだからな」
「それは、許されない事だ」
僕ではない僕が、しゃべっている。
「許されない? それすらも、勝手な事ではないか?」
「僕たちは、この世界を救済する、それは、決まっている事だろう?」
世界を、救済する?
決まっている事?
「どうやら、僕の中の僕は、分かっていないようだよ。君たちと違ってね」
「そうか」
「それに物分かりも悪い。しかも鈍感だ。僕の中の僕──『彼』と呼ぼうか。『彼』は、君の中の君、『彼女』を好きだそうだよ」
「それは、私の中の『彼女』も同じだ」
「君は?」
「私は──分からない。答えられない」
「それは、卑怯だよ」
「なら」
彼女がこちらを向く。
目が、赤く底光りしている。人間の目ではない。
「君はどうなんだ?」
「僕は、君たちを好きだ。『彼』と同じだよ」
「簡単に言ってくれるな」
「簡単だよ。好き、と言う感情はシンプルだ。言葉でも、態度でも、単純に表現出来る。でも、それと、世界の救済とでは、話の次元が違う」
僕は、何を、言っているんだ?
「さて」
僕ではない僕は、腕時計に目をやる。
深夜0時まで、後数分だった。
「時間は、待ってはくれない。結論を出さなくてはいけない──世界を救うか、『彼』をとるか」
「結論なら、もう出ている」
「そうだね、交渉は決裂だね」
「そのようだな」
「僕は、世界の救済をする君の鍵としてしか、この世界に存在出来ない。世界の救済をすべき扉である君は、それを拒んだ。それが何を意味するのか」
「分かっている」
「だから」
「世界を、救済する」
彼女と、僕の声が重なる。
「始めよう」
「世界の救済を」
刹那。
僕は、再び闇の中に、放り出された。