第二章 「彼女がいたのに」
次の日の日曜日。
彼女は、定期検査のため、朝から出かけた。
彼女が検査を受ける病院は、僕と彼女が通っている中学校を運営している企業の傘下だった。
彼女は、そこで、日曜日を利用して、隔週で検査を受けていた。
平日にすれば良いのだろうが、彼女が「学校をそんな理由で休みたくない」と強硬に反対したため、日曜日になったのだそうだ。
僕は、彼女が、病院が用意した車に乗り込んで出て行くまで、手を振って見送った。
何の検査かは、知らない。
彼女に聞いても、教えてくれなかった。
以前、一度だけ、付き添いを申し出た事があったが、寮母から、あっさりと却下された。
曰く。
「女の子が病院で検査するのに、なんで男のあなたが必要なの?」
ごもっともだ。
僕が、付き添えるはずがない。
おかげで、特に趣味のない僕は、彼女が検査を受ける日は、どこにも行かず、ずっと部屋に篭る。
テレビを観たり、ネットで他愛もないサイトを流し見したり。
どうせ夕方まで、彼女は、帰ってこない。
勉強でもすれば良いのだろうが、僕は、残念な事に、そこまで勤勉ではなかった。
──宿題、やりたくないなぁ。
でも、やらないと、また彼女に借りを作ってしまう。
それはそれで良い気がした。
いや。
「ダメダメ。今度こそ自分でやらないと」
彼女に、届かなくなる。
距離が開く一方だ。
「……宿題、しよう」
僕は、やる気なさげに、机に向かった。
教科書とノートを、机の上に引っ張り出す。
相当な、労力が必要だった。
つい、窓の外に、目が行く。
もう、梅雨入りしても良い時期。
なのに、晴天。
「明日くらいから、曇りがちになるとか言ってたな」
雲が、ゆっくりと流れる。
良いなぁ、雲は、宿題がなくて。
そのまま、時間だけが過ぎた。
気が付くと、午後の四時だった。
彼女が帰ってきてしまう。
宿題には、一切、手が付いていない。
もうダメかも知れない。
いや、勉強が出来なくたって、生きてはいける。
でも、宿題をしなければ、「次はないわよ」と言っていた彼女に、首を絞められるかも知れない。
「それは、嫌だなぁ」
「何が、嫌なの?」
吃驚した。
彼女が、僕の部屋にいた。
いつの間に入って来たのか。
全然気付かなかった。
人の気配には人一倍敏感なはずの僕は、なぜか、彼女の気配だけは、察知出来ない。
悪意がないからなのか。
ずっと一緒にいたから、単に「慣れて」しまったのか。
とにかく。
昔から、彼女が背後から近づいて来ても、それに僕が気付かないので、良く驚かされ、からかわれていた。
彼女は、平然と、僕の机の上に乗っているノートをのぞき込んだ。
彼女は、意識していないのだろうが、顔が、僕と彼女の距離が、近づく。
僕の鼓動が跳ね上がった。
机の上には、僕の、真っ白い、ノート。
それをのぞき込む、彼女の横顔も、白い。
「真っ白ね」
「……許可は?」
「もちろん」
ここは男子寮なので、女人禁制だ。寮母の許可なく、女子は入って来られない。
それでも、少なくとも、宿題の面倒を見る、と言う理由だけでは、許可は出ない。
僕と彼女には──特に彼女には──寮母は甘い。
「じゃ、始めますか」
彼女は、張り切って言った。
何を、とは聞かない。
いつもの事だ。
「……お願い、します」
僕は、ただただ、頭を下げるしかなかった。
僕は、夕食の時間までに、宿題を「手伝って」もらい、「何とか」終わらせた。
かくして、また一つ、借りが増えてしまったのだった。
***
その日。
そろそろ梅雨に入る、月半ばの、月曜日。
空は薄曇りで、天気予報によれば、晴れ後曇り、降水確率が三十パーセント。
どうにも半端な天気だった。
僕は、早起きに失敗して、彼女がいつも乗るバスに、間に合わなかった。
そのせいか、どうにも、頭がすっきりしない。
ぼやっとしたままバスに乗り、学校に着いた。
教室に入ると、僕は、無意識に、彼女の姿を探す。
どんな時でも、気付けば、彼女を目で追っている。
半ば、習慣になっているような行動だ。
彼女は、女の子同士の話題に入る事もなく、一人、席に座っていた。
「おはよう」
「……おはよう」
「元気ない?」
「いいえ、そんな事ない」
彼女の返事は、どこか素っ気ない。
一定の距離感。
そして、僕の中の劣等感。
彼女が、学校で、必要以上に僕に接してくる事は、ない。
「そっか」
会話が、途切れてしまった。
何か言わなくては、と必死に話題を探す。
「ええと」
「?」
「い、いやほら、一人で座ってたからさ、どうしたのかな、と思ってさ」
我ながら、もう少し良い話題はなかったのかと後悔する。自分の語彙の貧困さに絶望しかかった。
「……ない」
「へ?」
「時間が、ない」
彼女は、僕から顔を背け、呟くようにそう言った。
──時間がない?
直後、予鈴が鳴った。
確かに時間がない。
教室の中が、にわかに騒々しく動き出し、クラスメイト達が、自席に戻り始める。
「じゃ、また後でね」
僕も、席に着こうと、彼女の傍を離れた。
いや、離れようとした。
がくっ。
僕の右手の袖を、彼女が掴んでいる。
彼女は、無表情に、顔を僕に向ける。視線がぶつかってくる。
彼女は、何かを伝えようとしている。
ただ、顔に出ないだけで、視線が、目が、何かを伝えようとしている。
彼女は、学校では、めったな事では、感情を顔に出したりしない。
控えめで、目立たない。
それでいて、その容姿や成績から、一目置かれる存在。
だから、彼女は、今のように、一人でいる事が多い。
でも、僕だけが分かる、彼女のサイン。
──こんなの、誰も分からないよな。
「え、ええとね」
彼女は、何かをためらっているようだ。
それが何なのか、この時ばかりは、僕でも、その表情からは読み取れなかった。
違和感。
何か、心がざわつく。
いつもの日常で感じるものではない。
「ほらー席につけー」
本令が鳴り、担任の先生がやってきた。
HRが始まる。
彼女は、結局、何も言わず手を離した。
後で、聞くよ。
うん、後で。
お互い、誰にも聞こえないような小さな声で言い、彼女の席を離れた。
***
その日は、どうにも、すっきりなかった。
すっきりしない理由の一つは、午後の体育の授業だ。
先週から言われてはいたが、サッカーをする事になっていた。
人数が足りないので、変則ルールのミニサッカーみたいなものだ。
それでも、それなりのチームプレイが、要求される。
チームプレイ。
これが、問題だったりする。
僕が持つ、厄介な『力』。
サッカーのような、チームプレイが重要な競技の場合、僕がある程度加減しないと、周りがついて来れなくなる。
反応や判断の速度が、圧倒的に違うからだ。
次元が違う、と言っても良い。
だから、多少加減を緩めても、そんなに目立つ事がない競技──例えば野球とか──なら、変に周りに気を使う必要がないので楽なのだが、そんな事を言っても、今日の授業の内容が変わる訳ではない。
クラスメイトから見れば、それなりの戦力になるので、重宝されているようだが、僕には、ストレスにしかならない。
もう一つの理由は、彼女の事だ。
朝の彼女の態度が、気になっていた。
僕には、こちらの方が、はるかに重要な問題だ。
何を言いかけたのか。
大事な事かも知れないし、他愛もない事かも知れない。
休憩時間とかに、彼女に聞けば良いのだが、皆の前で話すような内容ではないような気がしていた。
それに、学校にいる時の彼女は、僕と一定の距離感を保とうとする。
そのせいで、どうにも、聞きに行き難い。
実際、席も遠いので、それだけのために立ち寄るのは、不自然だろう。
午前中は、そればかりが気になって、授業の内容が、全然頭に入らなかった。
こんな日もあるよな。
月曜日だし。
自分の言い訳を、自分に言い聞かせ、午前中を乗り切った。
***
「整列!」
学級委員長が号令をかけ、全員が整列した。
やっぱり、外は良い。
机にへばりついて受ける授業が嫌いと言う訳ではないが、体を動かす授業は、それなりに気分が高揚する。
軽めのストレッチのような体操を終え、紅白のゼッケンでチーム分けされた。僕は白組だった。
午後になっても、空は薄曇りのままで、気温も、暑すぎず、寒すぎず、運動するには丁度良い。
かくして、先生の笛の音を合図に、試合が始まった。
開始五分で赤組に一点先制され、終了間際に追加で一点取られ、二点差のまま前半が終了した。
僕はと言えば、ピッチの隅の方で、目立たないように、適当にボールを追いかけていた。
試合は、授業の時間内なので、九十分のフルタイムではなく、十五分で前後半を区切っている。
後十五分で三点取らないと、白組は負けてしまう。
負けチームは、試合終了後に、校庭十週が、ペナルティとして課せられる。
ハーフタイムで、急遽、作戦会議が開かれ、僕がフォワードに上がり、何とか逆転を狙う、と言う事になった。
僕に、得点力を期待したのだろう。
そして、再び先生の笛の音で、後半戦が開始された。
ボールは、赤組のディフェンス陣に阻まれ、なかなか僕に回ってこない。
赤組には、サッカー部のレギュラーがいる。
白組には、いない。
戦略的にも、技術的にも、大きなアドバンテージがあった。
──ちょっと不公平かもな。
ちら、と校舎の時計を見る。
後、十分しかない。
どうする? 一旦下がって、ボールを獲りに行くか?
その時。
渡り廊下を、彼女が歩いているのが、視界の端に映った。
あれ? と思い、僕は立ち止まってしまった。
女子は保健の授業を受けているはずなので、今この時間に、そこを歩いているのはおかしい。
何かあったのだろうか?
僕は立ち止まったまま、彼女が校舎へ入って行くまで、目で追っていた。
彼女は、体が丈夫ではないと言う理由で、運動する授業の時は、見学が許されていた。
今日のように、座学の授業の途中で退席すると言う事は、気分が悪くなったか何かで、保健室に行く途中なのかも知れない。
ちょっと心配だった。
「おーい、ボール行ったぞー」
クラスメイトの声で、我に返った。
そうだ、試合中だったんだ。
見れば、ボールがかなり遠い距離から、僕めがけて飛ん出来ていた。
──無理したなぁ。
僕めがけて、と言うより、とにかく相手ゴールへ飛んで行け、的なロングパスだ。
パス、と呼ぶには、あまりに適当な方向だ。
それでも、赤組のディフェンス陣の対応は早かった。三人が、すでにボールめがけて走り出していた。レギュラーがいるといないとでは、チーム全体の動きに、決定的な差がある。
このチャンスを逃せば、残り時間を考えると、勝ちは絶望的だ。
──仕方がない。
僕は、ちょっとだけ、『手加減』を緩める事にした。
足を踏ん張り、勢いをつけて、ボールの方向に走り出す。
赤組ディフェンスの三人とボールと僕の距離は、僕が一番遠い。
その差、数メートル。
でも、まだ間に合う。
ごぅ、という風切り音が耳に入る。
一呼吸の間で、その差をゼロにした。
ボールに体を向ける。
──高いな。
ボールは、普通にジャンプしてギリギリの位置にあった。
ヘッドでの競り合いになる。
勢い良くジャンプ。相手ディフェンスより、頭一つ抜け出した形になる。
ボールに頭を当て、真下に落とす。
そのまま空中で、相手ゴールを見、瞬時に、ゴールまでの距離、角度を目測する。
すでに、赤組のディフェンスの陣形が出来つつあった。
ドリブルで切り込むには、相手のディフェンスの数が多すぎる。角度もない。
ボールも僕も、まだ空中にいる。
着地してからのシュートでは、きっと相手に阻まれてしまう。
僕は、空中で、無理やり姿勢を変え、シュートの体勢をとった。
そして。
ざん。
次の瞬間、ボールは相手ゴールのネットを勢い良く揺らしていた。
赤組のゴールキーパーは、動く事も出来なかった。
──よし、まず一点。
僕は、自チームを振り返った。
皆、何が起こったのか分からない、と言った顔をしていた。
相手チームもそうだった。
審判役の先生ですら、笛を吹くのを忘れている。
──しまった、やりすぎたか。
ちょっと遅れて、ゴールした事を示す笛の音と、自チームの歓声が上がった。
「すげー、カッコ良い!」
「よーし、この調子で、後二点頼むぜ」
「プロみたいだ」
皆、それぞれの感想を、喜びで表現していた。
僕は、そっと胸をなで下ろした。
一昨日の事を思い出す。
彼女との約束もあって、普段は抑え込んでいるその『力』。
人前で使ってはいけない。
今回は、自分の意思で使ってしまった。
極力、不自然にならないように、小出しで使ったつもりだったが、ちょっと心配だった。
「まぐれだよ、まぐれ」
僕は、センターラインに向け走りつつ、自チームの面々に笑いかけた。
「作戦成功だな。次もよろしく!」
超ロングパスを出した本人から、背中を叩かれた。
自分のアシストでゴールが決まったのだから、喜んでいるのだろう。その素直な反応に、僕は安心し、そして、嬉しかった。
試合は、三対一で負けてしまった。
一点目のゴール以降、僕は、常に三人のマーカに付き纏われた。
その上、赤組がディフェンスに徹してしまい、決定的なチャンスはおろか、僕に届くパスすら来なかった。
しかも、僕は、チームメイトには悪いが、マーカを適当にあしらいつつ、別の事に気を取られていた。
試合中も、その後のペナルティの校庭十週の周回中も、ずっと気にしていた。
彼女は、どこに行ったんだろう?
どうして、授業中に、あそこを歩いていたんだろう?
結局、授業が終わっても、彼女が、渡り廊下に現れることはなかった。
***
「早退?」
僕が教室に戻ると、彼女の姿がなかった。
それとなく、クラスの女子に尋ねてみたところ、彼女は、授業中に急に気分が悪くなり、保健室へ行って、そのまま早退した、とのことだった。
そう言えば、渡り廊下を歩いていた彼女は、カバンを肩にかけていたような気がした。
正直、そこまで、注意して見ていなかった。
僕は、教えてくれた女子にお礼を言い、職員室へ向かった。
朝の一件が、どうしても気になる。
彼女は、何かを、僕に伝えようとしていた。
それは、少なくとも、早退する、と言う事ではないだろう。
あの時、彼女は「後で」と言った。
彼女が「後で」と言えば、必ず「後で」なのだ。
彼女は、約束──そんな大げさなものではないが──を破った事は、今まで、ない。
──よっぽど具合が悪かったのかな?
僕と彼女には、中学校に上がる際、緊急時の連絡を取るためだと言われ、個人用の携帯電話を貸し与えられている。
学校では、携帯の持ち込みは原則禁止だったが、施設に面倒を見てもらっているという事情と、登校した時に先生に預けて下校時に返すという条件で、特例として認められてもらっていた。
だから、早退したのなら、彼女は、自分の携帯を返してもらっているはずだ。
僕の携帯に、彼女からのメッセージかメールが入っているかも知れない。
でも、それを確かめるには、担任の先生に事情を話さないといけない。
「失礼します」
職員室に入り、担任の姿を探したが、見当たらない。
入り口近くにいた他の先生に聞くと、授業の準備やらで、さっき職員室を出たばかりだ、と言われた。
──仕方ない、公衆電話を使うか。
職員室の前の廊下には、校内で唯一、公衆電話が設置してある。
暗記している彼女の携帯の番号をプッシュする。呼び出し音が数回鳴り、留守録に切り替わった。
タイミングが悪かったのだろうか。
もしかすると、今ごろバスの中にいるかも知れない。
それとも、カバンの中に携帯が入っていて、着信に気付いていないだけなのかも知れない。
三回掛け直して、留守録に、連絡を欲しい旨を手短に吹き込み、教室に戻る事にした。
「仕方ないよな。帰ったら、見舞いのついでに聞けば良いよな」
僕は、人に聞こえないように、自分に言い聞かせるように、呟いた。
どうにも、すっきりしない。
六時限目は、僕の中で、数ある授業の中でも限りなくワーストに近い、現国だった事もあってか、全然頭に入らなかった。
それでも、時間は、そんな僕には関係なく、進む。
すっきりしないまま、時間だけが過ぎて授業が終わり、僕は、担任の先生から携帯を受け取って、そそくさと学校を後にした。
正門を出て、携帯を見る。
彼女からの着信は、入っていなかった。
メールも入っていなかった。
***
「ただいま」
誰も居ない、僕の部屋。
あまり、家具はない。
作り付けの机とクローゼットとベッド、そして、ノートPC。それに、いくつかの参考書と漫画本。
これが僕の全て。
シンプルだな、と思う。殺風景とも言う。
生活感がないのが、僕らしい。
いつでも、ここを出て行くことが出来る。
でも、中学生の僕には、生活力がないので、今は施設に頼るしかない。
いつ、ここを出て行けるのだろうか?
いや、出て行くのだろうか?
以前、そんな話を、親代わりでもある寮母にした事がある。
「そんな事は、大人になってから考えるものよ」と言われた。
そう。
両親や親族等の身よりの無い僕たちは、自活出来るようになるまで、ここにいるしかない。
それに、ここが嫌いな訳でもない。
今は、彼女と同じ屋根の下にいられる事に感謝しよう。
僕は、カバンをベッドに放り投げ、部屋を出た。
帰宅の挨拶をするために、寮母のところへ向かった。
行ってきます。
ただいま。
最低限の挨拶をする事。
それが、僕と彼女のように、両親がいない人間が、ここにいるためのルールのようなものだった。
「ただいま帰りました」
「あら、お帰りなさい」
寮母は、いつも朗らかで、柔らかい口調で、出迎えてくれる。
「どうしたの? 学校で何かあった?」
「いえ……」
「彼女の事ね?」
そう、僕は、彼女が早退した事実を、確認しに来たのだ。
早退して、その後、彼女はどこで何をしているのか。
部屋にいるのか。
部屋にいるなら、見舞いに行きたい。
でも、女子寮に、男である僕が行くには、管理者でもある、寮母の許可が必要だった。
「彼女は、具合が悪くて、病院に行っているわよ。もうすぐ戻ってくると思うけど」
これには驚いた。
病院に行く程具合が良くないとは、考えていなかった。
朝は、そんな様子ではなかったのに……
「戻ってきたら、僕、見舞いに行きたいんですけど、良いですか?」
僕の、十三年程度しか積み重ねていない良識の範囲では、親しい人間が病院に行ったなんて聞いたら、まず、様子を知りたいし、何より、本人と話をしたいと思う。
彼女がそうなのなら、尚更だ。
見舞いに行きたいのは、僕の当然の要求だと思った。
でもそれは、あっさりと、却下された。
「今は……、そうね……そっとしておいてあげて。明日になれば、元気になっていると思うわ」
「え? そんなに悪いんですか?」
「いえ……」
寮母は、言葉を濁した。一瞬の事だが、いつもの受け答えではない気がした。
朝に感じた、心のざわつきが、蘇ってくる。
「いえ……、大丈夫よ。ここの人間も付き添っているし。ちょっと、そうね、男の子にはあまり知られたくないような状態なの。察してあげて」
特にあなたにはね、と軽くウィンクしてよこした。
いつもの寮母に戻っている。
さっきの違和感は、何だったのだろう?
『女性特有の何か』、『察してあげて』
そう言われたら、僕は引き下がらざるを得ない。そこまで鈍感ではない。
「……分かりました。じゃ、明日にします」
「そうね、そうしてちょうだい」
寮母は、にこっと笑い、僕に退出を促した。
とにかく、理由がある程度はっきりしたのは、安心材料だ。
僕は、自分の部屋に戻り、明日の準備をし、ネットで適当なサイトを流し見て、そのまま、いつものようにベッドに潜り、眠りに落ちた。
***
深夜、僕は、目を覚ました。
なぜか、自然に目が覚めた。
なんだろう?
直前に、何か夢を見ていたような気がするが、思い出せない。
彼女の事だろうか?
学校の事だろうか?
カーテンの隙間から、月明かりが漏れていた。
満月だった。
時計を見ると、二時をちょっと回っていた。
「丑三つ時か」
別に、何かが起こる訳ではないが、何となく口に出してみた。
「満月に、丑三つ時。なんだかなぁ……」
月明かりが、まぶしい。
何となく、外を見たくなった。
僕の部屋は、二階の角部屋で、コの字になっている建物の構造上、彼女の部屋の向かい側に位置していた。
「あれ?」
彼女の部屋から、光が漏れていた。
まだ、起きている?
具合が良くなったのだろうか?
それとも、僕みたいに、突然目が覚めたとか?
僕の部屋と彼女の部屋の距離は、十メートル程ある。同じ階なので、ベランダでちょっと大きな声を出せば、会話が出来る距離だ。
実はこの距離は、僕と彼女しか知らないが、僕には、飛び越えられる距離だった。
きっと、他の人には、出来ない。
決して人前では見せてはいけない『力』。
一度やって、彼女に散々説教されてからは、やった事はない。
──そんな事しなくても、これがあるしな。
僕は、携帯電話を持ち、彼女へ掛けようと、アドレス帳から彼女の番号を選択して、通話ボタンを押す。
いや、押そうとした。
その一瞬前。
着信が入った。
携帯電話の画面に表示されたのは、彼女の顔写真。
彼女から、だった。
『こんな時間にごめんね』
電話越しの彼女の声は、小さく、ささやくような声だった。
深夜なので、周りに気を使っているのだろう。
──誰も、こんな時間に起きてないって。
僕は、口の中だけで、苦笑した。
『なに?』
「いや、何でも。それより、大丈夫?」
大丈夫、とは、体調の事だ。彼女は、この短いキーワードだけで察してくれたようだ。
『うん、もう大丈夫、だと思う』
「思う?」
『うん、多分』
なんだろう。歯切れが悪い。
寮母からの助言もあるし、この話題は、避けた方が良さそうだな、と思った。
何か、良い話題は、ないだろうか。
僕が、黙っていると、珍しく、彼女から、話題を切り出してきた。
『今日』
「うん?」
『午後の授業、サッカーだったでしょ?』
「うん」
『……使ったわね』
「どどど、どうしてそれを」
『私に、あなたの事で、分からない事はない』
──しまったー……。
僕は、出来るだけ自然に『力』を使ったつもりだったが、彼女には、バレていた。
『……それ、人前では、もう絶対にしないって、約束したよね?』
急に、責めるような口調になった。
良かった、いつもの彼女だ。
「ごめん。でもさ」
『でも、じゃないよ。あなたのその『力』がバレたらどうなるか……もう』
「大丈夫だよ、バレてないと思うし、多分」
彼女が、電話口で、大きなため息をついたのが聞こえた。
『……まぁ、良いわ。でも、二度としないでね。もしバレたりしたら、学校にいられなくなるかも知れないんだから』
「そんな大げさな」
『いいえ!』
彼女の声が急に大きくなった。
つい数分前まで、小声で話していたとは思えない。
『あなたがそんなだから、あたしがいないと……いやその……』
「うん?」
『い、いや、何でもない!』
彼女は、なぜか、ぴしゃり、と言い切った。
『それより、今日……いえ、昨日の六時限目の現国、宿題か何か出なかった?』
しまった、話題がそっちに飛んだか。
僕は、早退した彼女の事が気掛かりで、授業は上の空だった。
宿題?
出たかも知れないし、いや……でも、出なかったような……
『もしかして……居眠りしてた?』
「してないよ」
『怪しい』
「してないってば」
また、電話口から、彼女のため息がもれた。
『明日、クラスの誰かに聞いた方が良さそうね』
「そうだね。僕も、そう思う」
『もう!』
──だって仕方ないじゃないか。君のことが気掛かりで、授業なんて耳に入ってこなかったんだから。
言えるはずないよな、そんな事。
『まぁ、あたしは宿題忘れた事ないから良いけど、あなたは常習犯なんだからね』
「んー」
言い返せない。彼女が言っているのは正論だ。
『まぁ良いわ』
その後、僕たちは、他愛もない会話をし、彼女の『眠い!』の一言で、通話終了となった。
時計は四時を回っていた。
僕は、彼女がいつも通りな事を確認出来て、安心した。
彼女が、学校では見せない一面。
僕にだけ見せてくれる一面。
──寝不足と引き換えにしても、おつりが来るな。
僕は、布団に潜り込み、冴えてしまった眠気を何とか取り戻し、眠りについた。
***
翌日。
彼女は、学校に来なかった。
正確には、いなくなった。
どこに行ったのか、誰も知らない。
それどころか、彼女の存在自体、誰も、覚えていなかった。
世界が、彼女の存在を、消し去っていた。