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第二章 「彼女がいたのに」


 次の日の日曜日。

 彼女は、定期検査のため、朝から出かけた。

 彼女が検査を受ける病院は、僕と彼女が通っている中学校を運営している企業の傘下だった。

 彼女は、そこで、日曜日を利用して、隔週で検査を受けていた。

 平日にすれば良いのだろうが、彼女が「学校をそんな理由で休みたくない」と強硬に反対したため、日曜日になったのだそうだ。

 僕は、彼女が、病院が用意した車に乗り込んで出て行くまで、手を振って見送った。

 何の検査かは、知らない。

 彼女に聞いても、教えてくれなかった。

 以前、一度だけ、付き添いを申し出た事があったが、寮母から、あっさりと却下された。

 曰く。

「女の子が病院で検査するのに、なんで男のあなたが必要なの?」

 ごもっともだ。

 僕が、付き添えるはずがない。

 おかげで、特に趣味のない僕は、彼女が検査を受ける日は、どこにも行かず、ずっと部屋に篭る。

 テレビを観たり、ネットで他愛もないサイトを流し見したり。

 どうせ夕方まで、彼女は、帰ってこない。

 勉強でもすれば良いのだろうが、僕は、残念な事に、そこまで勤勉ではなかった。 

──宿題、やりたくないなぁ。

 でも、やらないと、また彼女に借りを作ってしまう。

 それはそれで良い気がした。

 いや。

「ダメダメ。今度こそ自分でやらないと」

 彼女に、届かなくなる。

 距離が開く一方だ。

「……宿題、しよう」

 僕は、やる気なさげに、机に向かった。

 教科書とノートを、机の上に引っ張り出す。

 相当な、労力が必要だった。

 つい、窓の外に、目が行く。

 もう、梅雨入りしても良い時期。

 なのに、晴天。

「明日くらいから、曇りがちになるとか言ってたな」

 雲が、ゆっくりと流れる。

 良いなぁ、雲は、宿題がなくて。

 そのまま、時間だけが過ぎた。

 気が付くと、午後の四時だった。

 彼女が帰ってきてしまう。

 宿題には、一切、手が付いていない。

 もうダメかも知れない。

 いや、勉強が出来なくたって、生きてはいける。

 でも、宿題をしなければ、「次はないわよ」と言っていた彼女に、首を絞められるかも知れない。

「それは、嫌だなぁ」

「何が、嫌なの?」

 吃驚した。

 彼女が、僕の部屋にいた。

 いつの間に入って来たのか。

 全然気付かなかった。

 人の気配には人一倍敏感なはずの僕は、なぜか、彼女の気配だけは、察知出来ない。

 悪意がないからなのか。

 ずっと一緒にいたから、単に「慣れて」しまったのか。

 とにかく。

 昔から、彼女が背後から近づいて来ても、それに僕が気付かないので、良く驚かされ、からかわれていた。

 彼女は、平然と、僕の机の上に乗っているノートをのぞき込んだ。

 彼女は、意識していないのだろうが、顔が、僕と彼女の距離が、近づく。

 僕の鼓動が跳ね上がった。

 机の上には、僕の、真っ白い、ノート。

 それをのぞき込む、彼女の横顔も、白い。

「真っ白ね」

「……許可は?」

「もちろん」

 ここは男子寮なので、女人禁制だ。寮母の許可なく、女子は入って来られない。

 それでも、少なくとも、宿題の面倒を見る、と言う理由だけでは、許可は出ない。

 僕と彼女には──特に彼女には──寮母は甘い。

「じゃ、始めますか」

 彼女は、張り切って言った。

 何を、とは聞かない。

 いつもの事だ。

「……お願い、します」

 僕は、ただただ、頭を下げるしかなかった。

 

 僕は、夕食の時間までに、宿題を「手伝って」もらい、「何とか」終わらせた。

 かくして、また一つ、借りが増えてしまったのだった。


        ***


 その日。

 そろそろ梅雨に入る、月半ばの、月曜日。

 空は薄曇りで、天気予報によれば、晴れ後曇り、降水確率が三十パーセント。

 どうにも半端な天気だった。

 僕は、早起きに失敗して、彼女がいつも乗るバスに、間に合わなかった。

 そのせいか、どうにも、頭がすっきりしない。

 ぼやっとしたままバスに乗り、学校に着いた。

 教室に入ると、僕は、無意識に、彼女の姿を探す。

 どんな時でも、気付けば、彼女を目で追っている。

 半ば、習慣になっているような行動だ。

 彼女は、女の子同士の話題に入る事もなく、一人、席に座っていた。

「おはよう」

「……おはよう」

「元気ない?」

「いいえ、そんな事ない」

 彼女の返事は、どこか素っ気ない。

 一定の距離感。

 そして、僕の中の劣等感。

 彼女が、学校で、必要以上に僕に接してくる事は、ない。

「そっか」

 会話が、途切れてしまった。

 何か言わなくては、と必死に話題を探す。

「ええと」

「?」

「い、いやほら、一人で座ってたからさ、どうしたのかな、と思ってさ」

 我ながら、もう少し良い話題はなかったのかと後悔する。自分の語彙の貧困さに絶望しかかった。

「……ない」

「へ?」

「時間が、ない」

 彼女は、僕から顔を背け、呟くようにそう言った。

──時間がない?

 直後、予鈴が鳴った。

 確かに時間がない。

 教室の中が、にわかに騒々しく動き出し、クラスメイト達が、自席に戻り始める。

「じゃ、また後でね」

 僕も、席に着こうと、彼女の傍を離れた。

 いや、離れようとした。


 がくっ。


 僕の右手の袖を、彼女が掴んでいる。

 彼女は、無表情に、顔を僕に向ける。視線がぶつかってくる。

 彼女は、何かを伝えようとしている。

 ただ、顔に出ないだけで、視線が、目が、何かを伝えようとしている。

 彼女は、学校では、めったな事では、感情を顔に出したりしない。

 控えめで、目立たない。

 それでいて、その容姿や成績から、一目置かれる存在。

 だから、彼女は、今のように、一人でいる事が多い。

 でも、僕だけが分かる、彼女のサイン。

──こんなの、誰も分からないよな。

「え、ええとね」

 彼女は、何かをためらっているようだ。

 それが何なのか、この時ばかりは、僕でも、その表情からは読み取れなかった。

 違和感。

 何か、心がざわつく。

 いつもの日常で感じるものではない。

「ほらー席につけー」

 本令が鳴り、担任の先生がやってきた。

 HRが始まる。

 彼女は、結局、何も言わず手を離した。


 後で、聞くよ。

 うん、後で。


 お互い、誰にも聞こえないような小さな声で言い、彼女の席を離れた。


        ***


 その日は、どうにも、すっきりなかった。

 すっきりしない理由の一つは、午後の体育の授業だ。

 先週から言われてはいたが、サッカーをする事になっていた。

 人数が足りないので、変則ルールのミニサッカーみたいなものだ。

 それでも、それなりのチームプレイが、要求される。

 チームプレイ。

 これが、問題だったりする。

 僕が持つ、厄介な『力』。

 サッカーのような、チームプレイが重要な競技の場合、僕がある程度加減しないと、周りがついて来れなくなる。

 反応や判断の速度が、圧倒的に違うからだ。

 次元が違う、と言っても良い。

 だから、多少加減を緩めても、そんなに目立つ事がない競技──例えば野球とか──なら、変に周りに気を使う必要がないので楽なのだが、そんな事を言っても、今日の授業の内容が変わる訳ではない。

 クラスメイトから見れば、それなりの戦力になるので、重宝されているようだが、僕には、ストレスにしかならない。

 もう一つの理由は、彼女の事だ。

 朝の彼女の態度が、気になっていた。

 僕には、こちらの方が、はるかに重要な問題だ。

 何を言いかけたのか。

 大事な事かも知れないし、他愛もない事かも知れない。

 休憩時間とかに、彼女に聞けば良いのだが、皆の前で話すような内容ではないような気がしていた。

 それに、学校にいる時の彼女は、僕と一定の距離感を保とうとする。

 そのせいで、どうにも、聞きに行き難い。

 実際、席も遠いので、それだけのために立ち寄るのは、不自然だろう。

 午前中は、そればかりが気になって、授業の内容が、全然頭に入らなかった。

 こんな日もあるよな。

 月曜日だし。

 自分の言い訳を、自分に言い聞かせ、午前中を乗り切った。


        ***


「整列!」

 学級委員長が号令をかけ、全員が整列した。

 やっぱり、外は良い。

 机にへばりついて受ける授業が嫌いと言う訳ではないが、体を動かす授業は、それなりに気分が高揚する。

 軽めのストレッチのような体操を終え、紅白のゼッケンでチーム分けされた。僕は白組だった。

 午後になっても、空は薄曇りのままで、気温も、暑すぎず、寒すぎず、運動するには丁度良い。

 かくして、先生の笛の音を合図に、試合が始まった。

 開始五分で赤組に一点先制され、終了間際に追加で一点取られ、二点差のまま前半が終了した。

 僕はと言えば、ピッチの隅の方で、目立たないように、適当にボールを追いかけていた。

 試合は、授業の時間内なので、九十分のフルタイムではなく、十五分で前後半を区切っている。

 後十五分で三点取らないと、白組は負けてしまう。

 負けチームは、試合終了後に、校庭十週が、ペナルティとして課せられる。

 ハーフタイムで、急遽、作戦会議が開かれ、僕がフォワードに上がり、何とか逆転を狙う、と言う事になった。

 僕に、得点力を期待したのだろう。

 そして、再び先生の笛の音で、後半戦が開始された。

 ボールは、赤組のディフェンス陣に阻まれ、なかなか僕に回ってこない。

 赤組には、サッカー部のレギュラーがいる。

 白組には、いない。

 戦略的にも、技術的にも、大きなアドバンテージがあった。

──ちょっと不公平かもな。

 ちら、と校舎の時計を見る。

 後、十分しかない。

 どうする? 一旦下がって、ボールを獲りに行くか?

 その時。

 渡り廊下を、彼女が歩いているのが、視界の端に映った。

 あれ? と思い、僕は立ち止まってしまった。

 女子は保健の授業を受けているはずなので、今この時間に、そこを歩いているのはおかしい。

 何かあったのだろうか?

 僕は立ち止まったまま、彼女が校舎へ入って行くまで、目で追っていた。

 彼女は、体が丈夫ではないと言う理由で、運動する授業の時は、見学が許されていた。

 今日のように、座学の授業の途中で退席すると言う事は、気分が悪くなったか何かで、保健室に行く途中なのかも知れない。

 ちょっと心配だった。

「おーい、ボール行ったぞー」

 クラスメイトの声で、我に返った。

 そうだ、試合中だったんだ。

 見れば、ボールがかなり遠い距離から、僕めがけて飛ん出来ていた。

──無理したなぁ。

 僕めがけて、と言うより、とにかく相手ゴールへ飛んで行け、的なロングパスだ。

 パス、と呼ぶには、あまりに適当な方向だ。

 それでも、赤組のディフェンス陣の対応は早かった。三人が、すでにボールめがけて走り出していた。レギュラーがいるといないとでは、チーム全体の動きに、決定的な差がある。

 このチャンスを逃せば、残り時間を考えると、勝ちは絶望的だ。

──仕方がない。

 僕は、ちょっとだけ、『手加減』を緩める事にした。


 足を踏ん張り、勢いをつけて、ボールの方向に走り出す。

 赤組ディフェンスの三人とボールと僕の距離は、僕が一番遠い。

 その差、数メートル。

 でも、まだ間に合う。

 ごぅ、という風切り音が耳に入る。

 一呼吸の間で、その差をゼロにした。

 ボールに体を向ける。

──高いな。

 ボールは、普通にジャンプしてギリギリの位置にあった。

 ヘッドでの競り合いになる。

 勢い良くジャンプ。相手ディフェンスより、頭一つ抜け出した形になる。

 ボールに頭を当て、真下に落とす。

 そのまま空中で、相手ゴールを見、瞬時に、ゴールまでの距離、角度を目測する。

 すでに、赤組のディフェンスの陣形が出来つつあった。

 ドリブルで切り込むには、相手のディフェンスの数が多すぎる。角度もない。

 ボールも僕も、まだ空中にいる。

 着地してからのシュートでは、きっと相手に阻まれてしまう。

 僕は、空中で、無理やり姿勢を変え、シュートの体勢をとった。

 そして。

 

 ざん。


 次の瞬間、ボールは相手ゴールのネットを勢い良く揺らしていた。

 赤組のゴールキーパーは、動く事も出来なかった。

──よし、まず一点。

 僕は、自チームを振り返った。

 皆、何が起こったのか分からない、と言った顔をしていた。

 相手チームもそうだった。

 審判役の先生ですら、笛を吹くのを忘れている。

──しまった、やりすぎたか。

 ちょっと遅れて、ゴールした事を示す笛の音と、自チームの歓声が上がった。

「すげー、カッコ良い!」

「よーし、この調子で、後二点頼むぜ」

「プロみたいだ」

 皆、それぞれの感想を、喜びで表現していた。

 僕は、そっと胸をなで下ろした。

 一昨日の事を思い出す。

 彼女との約束もあって、普段は抑え込んでいるその『力』。

 人前で使ってはいけない。

 今回は、自分の意思で使ってしまった。

 極力、不自然にならないように、小出しで使ったつもりだったが、ちょっと心配だった。

「まぐれだよ、まぐれ」

 僕は、センターラインに向け走りつつ、自チームの面々に笑いかけた。

「作戦成功だな。次もよろしく!」

 超ロングパスを出した本人から、背中を叩かれた。

 自分のアシストでゴールが決まったのだから、喜んでいるのだろう。その素直な反応に、僕は安心し、そして、嬉しかった。


 試合は、三対一で負けてしまった。

 一点目のゴール以降、僕は、常に三人のマーカに付き纏われた。

 その上、赤組がディフェンスに徹してしまい、決定的なチャンスはおろか、僕に届くパスすら来なかった。

 しかも、僕は、チームメイトには悪いが、マーカを適当にあしらいつつ、別の事に気を取られていた。

 試合中も、その後のペナルティの校庭十週の周回中も、ずっと気にしていた。

 彼女は、どこに行ったんだろう?

 どうして、授業中に、あそこを歩いていたんだろう?


 結局、授業が終わっても、彼女が、渡り廊下に現れることはなかった。

 

        ***


「早退?」

 僕が教室に戻ると、彼女の姿がなかった。

 それとなく、クラスの女子に尋ねてみたところ、彼女は、授業中に急に気分が悪くなり、保健室へ行って、そのまま早退した、とのことだった。

 そう言えば、渡り廊下を歩いていた彼女は、カバンを肩にかけていたような気がした。

 正直、そこまで、注意して見ていなかった。

 僕は、教えてくれた女子にお礼を言い、職員室へ向かった。

 朝の一件が、どうしても気になる。

 彼女は、何かを、僕に伝えようとしていた。

 それは、少なくとも、早退する、と言う事ではないだろう。

 あの時、彼女は「後で」と言った。

 彼女が「後で」と言えば、必ず「後で」なのだ。

 彼女は、約束──そんな大げさなものではないが──を破った事は、今まで、ない。

──よっぽど具合が悪かったのかな?

 僕と彼女には、中学校に上がる際、緊急時の連絡を取るためだと言われ、個人用の携帯電話を貸し与えられている。

 学校では、携帯の持ち込みは原則禁止だったが、施設に面倒を見てもらっているという事情と、登校した時に先生に預けて下校時に返すという条件で、特例として認められてもらっていた。

 だから、早退したのなら、彼女は、自分の携帯を返してもらっているはずだ。

 僕の携帯に、彼女からのメッセージかメールが入っているかも知れない。

 でも、それを確かめるには、担任の先生に事情を話さないといけない。

「失礼します」

 職員室に入り、担任の姿を探したが、見当たらない。

 入り口近くにいた他の先生に聞くと、授業の準備やらで、さっき職員室を出たばかりだ、と言われた。

──仕方ない、公衆電話を使うか。

 職員室の前の廊下には、校内で唯一、公衆電話が設置してある。

 暗記している彼女の携帯の番号をプッシュする。呼び出し音が数回鳴り、留守録に切り替わった。

 タイミングが悪かったのだろうか。

 もしかすると、今ごろバスの中にいるかも知れない。

 それとも、カバンの中に携帯が入っていて、着信に気付いていないだけなのかも知れない。

 三回掛け直して、留守録に、連絡を欲しい旨を手短に吹き込み、教室に戻る事にした。

「仕方ないよな。帰ったら、見舞いのついでに聞けば良いよな」

 僕は、人に聞こえないように、自分に言い聞かせるように、呟いた。


 どうにも、すっきりしない。

 六時限目は、僕の中で、数ある授業の中でも限りなくワーストに近い、現国だった事もあってか、全然頭に入らなかった。

 それでも、時間は、そんな僕には関係なく、進む。

 すっきりしないまま、時間だけが過ぎて授業が終わり、僕は、担任の先生から携帯を受け取って、そそくさと学校を後にした。

 正門を出て、携帯を見る。

 彼女からの着信は、入っていなかった。

 メールも入っていなかった。


        ***


「ただいま」

 誰も居ない、僕の部屋。

 あまり、家具はない。

 作り付けの机とクローゼットとベッド、そして、ノートPC。それに、いくつかの参考書と漫画本。

 これが僕の全て。

 シンプルだな、と思う。殺風景とも言う。

 生活感がないのが、僕らしい。

 いつでも、ここを出て行くことが出来る。

 でも、中学生の僕には、生活力がないので、今は施設に頼るしかない。

 いつ、ここを出て行けるのだろうか?

 いや、出て行くのだろうか?

 以前、そんな話を、親代わりでもある寮母にした事がある。

 「そんな事は、大人になってから考えるものよ」と言われた。

 そう。

 両親や親族等の身よりの無い僕たちは、自活出来るようになるまで、ここにいるしかない。

 それに、ここが嫌いな訳でもない。

 今は、彼女と同じ屋根の下にいられる事に感謝しよう。

 僕は、カバンをベッドに放り投げ、部屋を出た。

 帰宅の挨拶をするために、寮母のところへ向かった。

 行ってきます。

 ただいま。

 最低限の挨拶をする事。

 それが、僕と彼女のように、両親がいない人間が、ここにいるためのルールのようなものだった。

「ただいま帰りました」

「あら、お帰りなさい」

 寮母は、いつも朗らかで、柔らかい口調で、出迎えてくれる。

「どうしたの? 学校で何かあった?」

「いえ……」

「彼女の事ね?」

 そう、僕は、彼女が早退した事実を、確認しに来たのだ。

 早退して、その後、彼女はどこで何をしているのか。

 部屋にいるのか。

 部屋にいるなら、見舞いに行きたい。

 でも、女子寮に、男である僕が行くには、管理者でもある、寮母の許可が必要だった。

「彼女は、具合が悪くて、病院に行っているわよ。もうすぐ戻ってくると思うけど」

 これには驚いた。

 病院に行く程具合が良くないとは、考えていなかった。

 朝は、そんな様子ではなかったのに……

「戻ってきたら、僕、見舞いに行きたいんですけど、良いですか?」

 僕の、十三年程度しか積み重ねていない良識の範囲では、親しい人間が病院に行ったなんて聞いたら、まず、様子を知りたいし、何より、本人と話をしたいと思う。

 彼女がそうなのなら、尚更だ。

 見舞いに行きたいのは、僕の当然の要求だと思った。

 でもそれは、あっさりと、却下された。

「今は……、そうね……そっとしておいてあげて。明日になれば、元気になっていると思うわ」

「え? そんなに悪いんですか?」

「いえ……」

 寮母は、言葉を濁した。一瞬の事だが、いつもの受け答えではない気がした。

 朝に感じた、心のざわつきが、蘇ってくる。

「いえ……、大丈夫よ。ここの人間も付き添っているし。ちょっと、そうね、男の子にはあまり知られたくないような状態なの。察してあげて」

 特にあなたにはね、と軽くウィンクしてよこした。

 いつもの寮母に戻っている。

 さっきの違和感は、何だったのだろう?

『女性特有の何か』、『察してあげて』

 そう言われたら、僕は引き下がらざるを得ない。そこまで鈍感ではない。

「……分かりました。じゃ、明日にします」

「そうね、そうしてちょうだい」

 寮母は、にこっと笑い、僕に退出を促した。

 とにかく、理由がある程度はっきりしたのは、安心材料だ。

 僕は、自分の部屋に戻り、明日の準備をし、ネットで適当なサイトを流し見て、そのまま、いつものようにベッドに潜り、眠りに落ちた。

 

        ***


 深夜、僕は、目を覚ました。

 なぜか、自然に目が覚めた。

 なんだろう?

 直前に、何か夢を見ていたような気がするが、思い出せない。

 彼女の事だろうか?

 学校の事だろうか?

 カーテンの隙間から、月明かりが漏れていた。

 満月だった。

 時計を見ると、二時をちょっと回っていた。

「丑三つ時か」

 別に、何かが起こる訳ではないが、何となく口に出してみた。

「満月に、丑三つ時。なんだかなぁ……」

 月明かりが、まぶしい。

 何となく、外を見たくなった。

 僕の部屋は、二階の角部屋で、コの字になっている建物の構造上、彼女の部屋の向かい側に位置していた。

「あれ?」

 彼女の部屋から、光が漏れていた。

 まだ、起きている?

 具合が良くなったのだろうか?

 それとも、僕みたいに、突然目が覚めたとか?

 僕の部屋と彼女の部屋の距離は、十メートル程ある。同じ階なので、ベランダでちょっと大きな声を出せば、会話が出来る距離だ。

 実はこの距離は、僕と彼女しか知らないが、僕には、飛び越えられる距離だった。

 きっと、他の人には、出来ない。

 決して人前では見せてはいけない『力』。

 一度やって、彼女に散々説教されてからは、やった事はない。

──そんな事しなくても、これがあるしな。

 僕は、携帯電話を持ち、彼女へ掛けようと、アドレス帳から彼女の番号を選択して、通話ボタンを押す。

 いや、押そうとした。

 その一瞬前。

 着信が入った。

 携帯電話の画面に表示されたのは、彼女の顔写真。

 彼女から、だった。


『こんな時間にごめんね』

 電話越しの彼女の声は、小さく、ささやくような声だった。

 深夜なので、周りに気を使っているのだろう。

──誰も、こんな時間に起きてないって。

 僕は、口の中だけで、苦笑した。

『なに?』

「いや、何でも。それより、大丈夫?」

 大丈夫、とは、体調の事だ。彼女は、この短いキーワードだけで察してくれたようだ。

『うん、もう大丈夫、だと思う』

「思う?」

『うん、多分』

 なんだろう。歯切れが悪い。

 寮母からの助言もあるし、この話題は、避けた方が良さそうだな、と思った。

 何か、良い話題は、ないだろうか。

 僕が、黙っていると、珍しく、彼女から、話題を切り出してきた。

『今日』

「うん?」

『午後の授業、サッカーだったでしょ?』

「うん」

『……使ったわね』

「どどど、どうしてそれを」

『私に、あなたの事で、分からない事はない』

──しまったー……。

 僕は、出来るだけ自然に『力』を使ったつもりだったが、彼女には、バレていた。

『……それ、人前では、もう絶対にしないって、約束したよね?』

 急に、責めるような口調になった。

 良かった、いつもの彼女だ。

「ごめん。でもさ」

『でも、じゃないよ。あなたのその『力』がバレたらどうなるか……もう』

「大丈夫だよ、バレてないと思うし、多分」

 彼女が、電話口で、大きなため息をついたのが聞こえた。

『……まぁ、良いわ。でも、二度としないでね。もしバレたりしたら、学校にいられなくなるかも知れないんだから』

「そんな大げさな」

『いいえ!』

 彼女の声が急に大きくなった。

 つい数分前まで、小声で話していたとは思えない。

『あなたがそんなだから、あたしがいないと……いやその……』

「うん?」

『い、いや、何でもない!』

 彼女は、なぜか、ぴしゃり、と言い切った。

『それより、今日……いえ、昨日の六時限目の現国、宿題か何か出なかった?』

 しまった、話題がそっちに飛んだか。

 僕は、早退した彼女の事が気掛かりで、授業は上の空だった。

 宿題?

 出たかも知れないし、いや……でも、出なかったような……

『もしかして……居眠りしてた?』

「してないよ」

『怪しい』

「してないってば」

 また、電話口から、彼女のため息がもれた。

『明日、クラスの誰かに聞いた方が良さそうね』

「そうだね。僕も、そう思う」

『もう!』

──だって仕方ないじゃないか。君のことが気掛かりで、授業なんて耳に入ってこなかったんだから。

 言えるはずないよな、そんな事。

『まぁ、あたしは宿題忘れた事ないから良いけど、あなたは常習犯なんだからね』

「んー」

 言い返せない。彼女が言っているのは正論だ。

『まぁ良いわ』

 その後、僕たちは、他愛もない会話をし、彼女の『眠い!』の一言で、通話終了となった。

 時計は四時を回っていた。

 僕は、彼女がいつも通りな事を確認出来て、安心した。

 彼女が、学校では見せない一面。

 僕にだけ見せてくれる一面。

──寝不足と引き換えにしても、おつりが来るな。

 僕は、布団に潜り込み、冴えてしまった眠気を何とか取り戻し、眠りについた。

 

        ***


 翌日。

 彼女は、学校に来なかった。

 正確には、いなくなった。

 どこに行ったのか、誰も知らない。

 それどころか、彼女の存在自体、誰も、覚えていなかった。

 世界が、彼女の存在を、消し去っていた。


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