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第一章 「彼女がいて」

 僕と彼女は、物心つく前から、ずっと一緒だった。

 お互い、親がいないので、同じ施設で育てられた。

 保育所、幼稚園、小学校と、いつも一緒だった。

 僕と彼女は、いつも、一緒で。

 一緒に遊んで、一緒に寝て。

 これが、普通の事だと、思っていた。

 そんな僕たちの関係に変化があったのは、中学に進んでからだ。

 その中学校は、施設の母体である企業が、運営していた。

 中高一貫教育を掲げおり、有名私大への進学率も県内トップで、全国的に有名な学校だった。

 そのためか、県外から転入して来る人も多く、学生寮が完備されていた。

 僕と彼女は、その寮へ移ることになった。それぞれに、個室が与えられた。

 移ったと言っても、建物は同じ敷地内にあったので、別棟に移ったというだけだ。

 最初は寂しかったが、すぐに慣れた。

 自分だけのプライベートな空間は、中学生くらいになると、どうしても必要になるらしい。

 その時くらいから、だろうか。

 彼女は、学校内で、僕と距離を置くようになった。

 境界、とでも言うのだろうか。

 僕と彼女を隔てる、見えない壁のようなもの。

 あからさまに避けるとか、そう言ったものではなく、僕を、今までいつも一緒だった僕を、クラスメイトと同じように扱う、一線のようなもの。

 学校にいる時だけなので、そんなに気にする事ではないのかも知れない。

 でも。

 僕にとって、普通じゃない事。

 今までとは違う、何か。

 僕は、何か、不自然さを感じていた。

 朝や帰りが一緒になった時に、理由を聞けば良かったのかも知れない。

 でもどうしてか、二人きりになると、その話題を切り出す事が出来ない。

 そもそも、何を聞いて良いのか、分からなかった。

 学校から帰ってくれば、僕が知っているいつも通りの彼女なのに、学校では違う彼女。

 微妙な距離感と違和感。

 何とも言いようのない、感覚的なものだった。

 意識し出すと、考え方が、どんどんネガティブになる。

 僕を嫌いになった?

 学校で、僕と一緒にいると、都合が悪い?

 悪循環だ。

 僕の勘違いなのかも知れない。

 それとなく、寮母──施設にいた時から、僕と彼女の親代わりのような存在だ──に相談してみたが、やんわりと諭されただけだった。

「年頃の女の子は、難しいの。そっと見守ってあげるのが男の子の役割よ」

 見守る。

 それしか出来ないのかな、僕は。

 もっと何か出来ると、心の中の僕が言う。

 でも、それが何なのか分からない。

「年頃の男の子も難しいわね」

 寮母は、苦笑しながら、そう言った。

 そうか、僕も難しいのか。

 大人では、解決出来ない事。

 同じ年頃同士でしか、解決出来ない事。

 齢十三年の僕には、良い解決策なんて、思いつきもしない。

 経験が、圧倒的に、不足している。

 年頃の人間は、難しい。

 そんなものかも知れない。


        ***


 彼女は、いつも同じ時間のバスに乗る。

 僕は、出来るだけ、そのバスに乗れるように起きようとするが、間に合わない事がほとんどだ。

 だから、早起き出来た日は、すこぶる気分が良い。

「おはよ」

 僕は、バスの停留所に、一人、ぽつんと立っている彼女に、声を掛けた。

「あ、おはよう」

 彼女は、明るく、挨拶を返してきた。

 その日一日が、明るくなる、そんな笑顔だ。

 多少の寝不足なんて、吹き飛んでしまう。

「どうしたの?」

 見透かされた? いや、そんな事はないはずだ。

「い、いや何でもないよ」

「ふぅん」

 彼女の目が、笑っている。

「ホントに、何でもないよ」

「まぁ、良いわ」

 会話が途切れる。

 こんな時、しびれを切らして何か話題を切り出すのは、大抵は僕だ。

「そう言えばさ」

「なに?」

「期末テスト、もうすぐだよね」

 言ってから、しまった、と思った。

 が、もう遅い。

「そうね、誰かさんは、勉強は、進んでいるのかな?」

 彼女の表情が、何か新しい悪戯を見つけたような、そんな顔になった。

──墓穴だ……

 僕は、努めて平静に、答えた。

「進んでいるよ。大丈夫だよ」

「どうだか。中間テストの時みたいに、私に泣きついてこないでね」

「泣きついてないよ」

「数学の証明問題が、どうしても解けないって電話よこしたのは、誰だっけ?」

 明らかに面白がっている。

 彼女は、成績優秀で、小学校でも中学校でも、ほぼ全て、トップの座にいた。

 頭脳明晰。容姿端麗。

 記憶力はほぼ完璧。

 しかも、日々、こつこつと予習復習をこなす優等生だ。

 僕から見て、彼女は、完全だった。

 付け入る隙なんて、微塵もない。

「そ、そういう君は、どうなんだよ」

 僕は、苦し紛れに、彼女に会話のボールを投げた。

 そのボールは、きっと、倍近い速度で返ってくるに違いなかった。

「私は、問題ないよ? ちゃんと、毎日、勉強しているし」

「う、そうだよな」

「もう、試験範囲の絞り込みも出来ているし」

「う……」

「何なら──現国の、私が予想した試験範囲、教えてあげようか?」

 言葉はきついが、話し方のせいか、僕の主観が入りまくっているせいか、他の人が言えば嫌味に聞こえるような言葉でも、彼女が言うと、全然そう聞こえない。

 彼女の口調は、いつも柔らかくて、どこか優しい。

 それに、彼女が張ったヤマは、外れた事はない。

 彼女は、僕と違って、要領が良い。

 それは、分かっている。

 でも、僕は、男だ。

 中学二年生の、男だ。

 一応、厄介な事に、プライド──薄っぺらいが──みたいなものがある。

 僕は、見栄を張った。すぐに後悔する事になるのだが。

「いらないよ、大丈夫。多分、今回は大丈夫」

「じゃあ、昨日出た宿題、やってきた?」

 宿題?

 えええっ?

「……忘れてるね、その顔は……」

「……忘れてた……」

「もう……」

 すっかり、忘れていた。

 と言うより、覚えていなかった。

 きっと、居眠りしていた。

 僕は、がっくりと、うな垂れた。

「仕方ないわね」

 彼女は、救いの手を差し伸べてくれた。

「ノート貸してあげるから。でも、次はないわよ?」

「……恐縮です……」

「これで、貸し一つね」

 実際は、一つどころではないのだが。

 今まで、何度、この手の会話が繰り返された事か。

 でも、彼女は、僕を責めない。

 僕を、決して突き放さない。

 何でだろうか。

 一度聞いた事があるが、返ってきた答えは、今の僕と彼女との関係、そのものだった。

『私は、あなたより三ヶ月も早く生まれたの。私の方が年上なの。お姉さんなの。年長者は、いつも年下の面倒を見るものなの』

 つまり、彼女は、僕の『お姉さん役』を買って出たのだ。

 異論はあったが、彼女を論破する事は、未だに出来ていない。

 だから僕は、彼女に、未だに頭が上がらない。

「何で返してもらおうかなー。そう言えば、明日は土曜日だよねー」

 嬉しそうだ。

 悲しい事に、僕は、彼女が嬉しそうにする顔が、好きだった。

 彼女が僕をどう想っているかなんて、僕には分からないが、物心つく前からずっと一緒だった彼女を、僕は、大好きだった。

 もちろん、口にした事はない。

 不釣り合いだと思っているから。

 僕は、お世辞にも、格好の良いオトコノコではない。

 背も、高くない。彼女と同じか、ちょっと低いくらいだ。

 成績も、控えめに言っても、あまり良くはない。

 自慢出来るのは、せいぜい、体育の成績くらい。

 体の丈夫さだけが、取り柄だった。

 優等生の彼女とは、あまりにかけ離れた存在だ。

 ただ、境遇が同じで、同じ施設で育って、ずっと一緒だっただけ。

 それだけが、僕と彼女を繋いでいた。

「ねぇ、聞いてる?」

 はっと我に返った。

 いつまでも、劣等感に浸っている訳にはいかない。

 少しでも、彼女に近づかなければ。

「聞いているよ」

「……映画」

「は?」

「……やっぱり聞いてない」

「……ごめん」

 彼女は、大きくため息をついた。

「明日封切りの映画があるの」

「そうなの?」

「もう……」

「え、映画ね。そう映画」

「まぁ、良いわ。その映画、ちょっと観たいなって思って」

 映画か。何の映画か、僕は知らないけれど、彼女が、観たいと言うのなら。

「分かった。分かりましたよ。行きましょう──僕の奢りで」

「ふふん、じゃ、明日、学校終わってから、待ち合わせね」

 彼女は、僕と一緒にどこかに行こうとする時、必ず隣街にある時計台を待ち合わせ場所に指定する。

 学校やクラスメイトに、僕との関係をあまり知られたくないんだろうな、と思う。

 少し悲しいが、仕方がない。

 バスが来た。

 僕と彼女は、バスに乗り、学校へ向かう。

 僕は、彼女に気付かれないように、財布の中身を確認した。

──今月は、もう何も買えないな。

 ため息。

 でも、それは。

 どこか、心地良いため息だった。


        ***


 僕と彼女が、これから行く映画館は、学校がある街ではなく、隣街にあった。

 一旦、寮に戻り、カバンをベッドに投げ捨て、学校と逆方向に向かうバスで、駅まで行く。

 電車での移動になる。

 学校がある街にも映画館はあるが、彼女は、そこを利用したがらない。

 待ち合わせに指定された時計台も、その隣街にある。

 さらには、学校を出る時間までずらす──今回は僕が先に出ることになった。

 徹底している。

 そこまでする意味が、理解出来ない。

 でも、どこかで、仕方がない事だと、割り切っている僕がいる。

──劣等感かぁ。

 僕は、待ち合わせの場所に、指定された時間より、三十分も早く到着した。

 時計台の傍にあるベンチに腰掛け、待っている間に、何度もため息をついた。

──彼女は、僕の事、どう思っているのかな。

 弟のような存在?

 たった三ヶ月の差で?

──そりゃ、確かに、迷惑かけっぱなしだけどさ。

 どうにかならないものかと、思う。

 どうすれば、認めて貰えるのかな、と思う。

 異性として。

 同年代の、男性として。

 はぁ。

 また、僕はため息をついた。

 待ち合わせの時間まで、まだ十分程ある。

 ため息の数だけ、時間が延びていく気がした。

「なに黄昏てんのよ」

 彼女が現れた。

「っ……。黄昏てないよ」

 彼女は、僕の隣に、腰を降ろした。

「どこをどう見ても、黄昏てるようにしか見えないよ? こんなところに座って、頬杖ついて。まだ十三歳でしょ? オッサン臭いよ?」

「傷つく事言うなぁ」

「ごめんねー、私、正直者だから」

 笑いながら、謝る。ちっとも謝っているように見えない。

「僕がオッサンなら、君は、オバァサンだ」

 反撃を試みる。

「あら、私は、まだ十三歳よ」

 そんなのは知っている。

 来週の月曜で十四歳になる事だって知っている。

「うら若き乙女に、オバァサンは失礼じゃなくて?」

 彼女は、上目遣いに、僕を睨む。

 僕の負けは、決定的だった。

「悪かったよ。取り消す」

「よろしい」

 彼女は、満足そうに、腰を上げた。

「じゃ、行きますか」

「そうだね」

 僕と彼女は、映画館に向け、歩き出した。


        ***


 映画は、恋愛物だった。

 主人公達は幼なじみで、物語は、中学生から高校生の間に起きた事を、心情的にスクリーンに描き、部活を通して色んな生徒との絆を深める中で、当人同士が、自分の気持ちに気付いていく──そんな話だった。

 まるで、僕と彼女のような設定だったが、唯一異なる点があった。

 主人公の男子が、ハンサムで、かつ、成績優秀だった。

──天は二物を与えずって言うけど、あれは、絶対うそだ。

 僕は、隣で、食い入るように、スクリーンを見入っている彼女を横目で見ながら、そう思った。

 せめて、成績くらいは、追いつきたい。

 身長や容姿は、どうにもならない。

 出来る事は、やっぱり勉強。

 そんな事を考えている僕は、楽しいはずの娯楽映画ですら、堪能出来ない。

 ため息しか出ない。

 でも、僕は今、彼女の隣にいられる。

 それだけでも、特別なんじゃないか?

 少なくとも、クラスメイトよりは近い距離にいるはずだ──今は。

 そう思う事にした。


        ***


 僕らは、映画を観終わった後、ファストフード店で、コーヒーを飲んでいた。

「面白かったー」

 彼女は、満足そうだ。

 観たい映画を、自腹でなく観れたのだから、当然だ。

 かく言う僕も、概ね満足だった。彼女が喜んでいるなら、僕は、何も文句はない。

 ただ。

──あの設定が、もうちょっと僕に近ければなぁ。

「ありがとね。また来ようね」

 それは、また僕が宿題を忘れれば、すぐにでも実現出来る。

 そのために、宿題を忘れるのは、本末転倒だけど。

 その時だ。

 僕は、後頭部に、ちくりと刺すような気配を感じた。

 とっさに振り向く。

 ベビーカーを押した女性が、通り過ぎた。

 その向こうには、サラリーマンが数人、何かを話し込んでいる。

 他には、僕と彼女みたいな、男女のペアが数組。

 特に、僕たちを気にしている様子はない。

 さらにその奥には、大きな鏡があった。

 丁度目の高さ。まるで、僕がその中にいるかのようだった。

 じっと、僕が、僕を見つめている。

 何か、不自然な感覚が、あった。

「どしたの?」

 彼女が問いかけてくる。

──気のせいか。

「何でもないよ。ちょっと、トイレに行ってくる」

「おお、行ってらっしゃい」

 立ち上がった僕に、彼女は、ひらひらと手を振った。

 もう、何をしても可愛いかった。

──くそぅ。

 僕は、やけくそ気味に、トイレに駆け込んだ。


        ***


 鏡に映った、僕の顔。

 髪の毛は癖毛だし、鼻は、きっと人より低い。

 顔中がコンプレックスの塊みたいだった。

 彼女は、僕と一緒にいる時、どんな事を考えているんだろう?

 楽しい、だろうか?

 僕は、付き合いが長いせいもあって、些細な表情の変化から彼女が何を言いたいのか、大体は予想出来る。

 少なくとも、嫌われてはいない、と思う。

 でも、奥底にある気持ちまでは、分からない。

 この、もやっとした僕の気持ちは、きっと伝わっていない。

──良いさ、それでも。

 本当に、良いのか?

 心の中で、僕が、問うてくる。

 お前は、何のために、彼女の傍にいる?

 何のため?

 見守るだけ?

 もっと、理由があるだろう?

 鏡に映った僕が、僕の表情が変化する。口元が歪んでいる。嫌な顔だった。

 鏡の向こう側の僕は、こう言う。

『お前は、彼女を見守る。それだけだ』

 それだけ?

 そう、それだけ。

 

 その時。

「何よ、あんたたち!」

 声が、聞こえた。

 彼女の声だった。


        ***


 彼女の周りには、数人の男──高校生だろうか──が取り囲んでいた。

 どうやら、彼女は、『ナンパ』されているようだ。

 彼女は、私服で外出する時は、決まって髪を下ろす。

 髪を下ろし、私服を着た彼女は、学校にいる時とはまるで別人みたいに、大人びて見える。

 十人が十人、振り返る。

 そんな形容が、当てはまる。

 だから、ナンパされるのも、する側の気持ちも、分からなくはない。

 分からなくはないが、それを黙って見ている訳にはいかない。

「どうかした?」

 僕は、彼らと彼女の間に割って入る。

 彼らは、全員が皆、なんだコイツ、という顔をした。

 敵視、あるいは、軽視。

 そんな視線が、容赦なく、降り注ぐ。

「お前、誰?」

 リーダー格だろうか、彼らの中で一番背の高い男が、僕に詰め寄る。

「まさか、彼氏か?」

 目が、笑っている。

 自分で言った事を、全然信じていない。

 そんな目だ。

 まぁ、彼氏ではないのは当たっているが。

「僕は、彼女の同級生ですけど」

 僕は、むすっとして、そう答えた。

 彼氏、と言えないところが、なんとも切ない。

「同級生? 弟の間違いじゃないのか?」

「彼氏じゃないなら、引っ込んでな。こっちは取り込み中だ」

「背ぇ低いな、小学生か、僕?」

 好き勝手な事を、遠慮なく、言われた。

 自覚しているとは言え、さすがに、他人に言われるのは、あまり気持ちの良いものではない。

「小学生じゃない。中二だよ」

「中二だぁ?」

「背伸びしすぎじゃないのか?」

 連中の一人が、僕の頭に手を乗せた。

 僕は、とっさにその手を、引っ掴み、ねじり上げた。

「痛っ」

「何しやがる」

 背後にいる彼女が、脅えているのを、背中で感じた。

──守らなくては。

 そう思った瞬間、僕の視野が急速に拡大した。


 周囲には、やじ馬が集まりつつある。

 店員が、何やら店長に相談をしている。

 大きな騒ぎにすると、面倒な事になりそうだ。


 僕は、他人と違う、ちょっと違う『力』を持っている。

 身体能力。運動能力。反応速度。

 どれも、人より、数段高い域にある『力』を持っている。

 何で僕が、人と違う『力』を持っているのかは、分からない。

 学校の身体測定等では、必ず手を抜いた。

 バレてしまうと、彼女の傍にいられなくなるかも知れない──そんな恐怖を感じたから。

 こっそりと、手を抜かずに握力を測った時は、握力計を握りつぶしてしまった。

 怖かった。

 だから、普段は、彼女との約束もあり、『力』を抑え込んでいる。

『人前で、力を使わない』

 この約束は、決して破ってはいけない。

 まだ、僕と彼女が小学生の頃に、生まれて初めて交わした約束だから。

 男の一人が、彼女の肩に手を置いた。

 彼女の表情が、恐怖で強ばる。

──彼女に、触るな。

 瞬時に、自我が吹き飛び、凶暴な「何か」が、心の奥底から沸き上がってくる。

 抑えきれない。

──へし折れ。

──砕け。

 掴んだ手に、力がこもる。

 みしっと、嫌な音がした。

 僕は、はっと、我に返った。

 まずい。

 このままでは、加減が出来なくなる。

「ぐ、痛てぇ!」

 男は、何とか手を振りほどこうとするが、全然、力が足りない。

 僕の手は、微動だにしなかった。

──大丈夫、まだ抑えられる。僕は冷静だ。

 僕は、彼女に目配せした。


 逃げるよ。

 う、うん。


 体格は、男の方が僕より一回りは大きかった。

 僕は、掴んだその男の手を、「意図的」に手加減を緩めて、ぐっ、と手前に引いた。

 それだけで、男の体勢が崩れ、前のめりになった。

 その瞬間、僕は手を離し、男の背後に回り込む。

 それは一瞬だが、僕には充分な時間だ。

 男の背に手を乗せ、男の体の向きを強引に変える。リーダー格の男がいる方向だ。

 そのまま男の背中を押す。前のめりになっていた男は、勢い良く、仲間のいる方向へすっ飛んで行った。

 今だ。

 僕は、彼女の手を掴むと、そのまま、店の外へ駆け出した。

 怒号やら悲鳴やらが、背後から聞こえたが、一切、無視した。

 飲みかけのコーヒーが、トレーごと、床に落ちる音を聞いた。

──片づけなくて、ごめんなさい。

 店の人には、心の中で、謝っておく事にした。


        ***


「ここまで来れば、大丈夫かな?」

 僕は、息切れ一つせず、走ってきた方向を見やった。

 誰も、追いかけて来ない。

 どうやら、大騒ぎになるのは、避けられたようだ。

「さて……え?」

 僕が振り返ると、彼女が、荒い息で、僕を睨みつけていた。

 握っていた手が離される。振り払われたと言っても良い。

──しまった。 

 彼女は、僕を睨つつ、手を膝に乗せて、息も絶え絶えに、必死に呼吸を整えようとしていた。

──無理させすぎたか。

 大体百メートル程の距離を、一気に走り抜けたのだ。

 普通の人でも、キツい。

 それに、彼女は、体力がない。あまり、体も丈夫ではない。実際、彼女は、定期的に病院で検査を受けている。

 その彼女を、僕は、全力で引き回してしまった。

 完全に、僕のミスだ。

「あ、ごめん……大丈夫?」

 僕は、屈みこみ、彼女の顔を見る。

 彼女の手の平が、視界を覆った。

「ちょ、ちょっと、待って……」

 まだ、苦しいらしく、言葉が途切れ途切れになる。

 僕は、うろたえた。

 とにかく、彼女が安心して休める場所を探さなくては。

 駅前まで行けば、人通りが多いし、交番もある。

 万が一の事があっても、対応出来る。

──そこまで、彼女を抱えて走るか。

 僕は、本気で、彼女を抱え上げようとした。

「ちょっと、待って」

 今度は、はっきりした言葉だった。

 何とか、会話出来る程度まで、回復したようだった。

「ごめん!」

 まず、僕は謝った。

 何をおいても、彼女が許してくれなくては、この先に続かない。

 頭を下げた。

 そろそろと、彼女の様子を窺う。

 彼女は、まだ僕を睨み付けていた。

 呼吸は、幾分、落ち着いていた。

「私が、何で、怒っているのか、分かる?」

 彼女は、言葉を、一言づつ区切りながら、言った。

「それは、君の手を引っ張って、走って無理させてしまったから……」

「その前!」

「え? 手を握った事?」

「ぐ……その前よ!」

 なぜか、彼女は、一瞬だけ、うろたえた。

「その前、その前って……あ!」

 そう、僕は、彼女との約束を破って『力』を使ってしまった。

「だって、あれは不可抗力と言うか相手も僕より大きいし高校生だったし人数も多かったし……」

 僕の必死の言い訳は、彼女の一睨みで、尻すぼみに消え入った。

「どんな理由があっても、人前では『力』を使わない。約束したよね?」

「……はい」

「あの時の事、忘れた訳じゃないよね?」

「………はい」

 あの時、とは、僕と彼女が、小学生四年生の時の事だ。

 僕は、クラスメイトの心無い悪戯に腹を立て、つい『力』を使ってしまった。

 暴走した、と言っても良い。

 完全に抑えがきかなかった。

 その結果、校庭はめちゃくちゃになり、ほぼ全ての遊具が破壊された。

 僕が、やった。

 普通の子供に出来る事ではなかった。

 何でこんな事が、出来るのか。

 その光景を目にしても、自分がやったなんて、とても信じられなかった。

 恐怖を感じた。

 その件があって、僕は、彼女と約束した。

 この『力』を人前で、使わない事。

 それに何より、彼女が、この『力』を嫌がった。

「覚えてるよ」

「それなら、何で?」

 彼女は、何で『力』を使ったのか、と聞いている。

 でも、この『力』は。

──彼女を、この世界の、あらゆるものから守るため。

 そう、君を守るために、使った。

 でも、この『力』は。

──彼女との約束で、使ってはいけないものだ。

 僕は、押し黙るしかなかった。

 何を言っても、言い訳にしかならない。

 さっきの件だって、穏便に済ます方法なんて、いくつもあった。

 僕は、あの時、周囲の大人に頼っても良かった。

 頭に乗せられた手を振り払って、強引に逃げても良かった。

 『力』を使う必要はなかった。

 ただ。

 あの一瞬。

 僕は、沸き上がる感情を、抑え込めなかった。

 だから、何も言い返せないし、言えない。

「……もう、大丈夫だよね?」

 彼女は、先程とは打って変わって、静かに言った。

 声が震えていた。

 きっと、怖がらせてしまった。

 僕が、『力』を使ったせいで。

 僕は、頭を上げ、努めて明るく、答えを返した。

「うん、大丈夫。もう、大丈夫だから」

「そう」

「ごめんね」

「ううん」

 彼女は、頭を振り、

「でも」

「うん?」

「嬉しかった。助けてくれて」

「……うん」

「ありがとう」

 彼女に笑顔が戻った。


        ***


 この後、僕たちは、家路についた。

 でも、高校生とのいざこざの直前に感じた、刺すような気配が、僕の頭から離れない。

 あれは何だったのだろう。

 誰かが発した、気配。

 そこには、たくさんの人がいて。

 笑いながら平和に過ごしていた場所で。

 僕が感じた、嫌悪にも似た、鋭い気配。

 人外とも言える『力』の怖さを知っている僕は、人一倍、力を持つ事、使う事に敏感だった。

 傍目からは、小心者に見えるかも知れない。

 でも、だからこそ気付く、危険と言うものもある。

 僕は、時折、彼女に気付かれないように後ろを振り返り、誰もいない事を確認した。

 実のところ、ここ数日、突き刺さるような気配を感じる事が、多くなっていた。

 普段なら気にも留めない、人の気配や視線が、どうも、おかしい。

 気のせいなら、それはそれで良い。僕が憶病者になるだけで、彼女に危害は及ばない。

 でも、気のせいでないなら。

 もし、彼女に、何かあったら。

 そう思うと、どうしても、周囲の気配を探ってしまう。

──これじゃ、ただの憶病者だよ。

 誰にともなく、小さく呟く。

 これじゃ、まだ、彼女に、届かない。

 僕の前を、楽しそうに歩く彼女を見て、僕は、人知れずため息をついた。

 

        ***

  

 結局、誰に遭う事もなく、寮に着いた。

 杞憂に終わったのなら、それはそれで、良い事だ。

「今日は、色々あったけど、楽しかった」

「僕も」

「良かった」

 彼女の笑顔。

 満足してもらえたのなら、それは、僕も嬉しい。

「じゃあね、バイバイ」

「うん、またね」

 寮は、男女別棟で、玄関自体も別々だった。

 僕は、彼女が女子寮に入るのを見届け、男子寮へ向かった。

 丁度玄関で、彼女が入った建物を見上げる。

 彼女の部屋は、二階の角部屋だった。

 ちょっとすると、彼女の部屋に明かりが灯った。

「じゃあね」

 僕は、小声で言い、自分の部屋へ、階段を昇って行った。

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