一話 銀の契約
第一話 銀の雪。銀の泉
銀色の雪があたりを包んでいた。冷たい風が頬を撫でる。
そこには、雪以外に何も無い。あるとすれば、枯れた森だけ。
吐いた息も凍り付き、空で霧散する。
いつもの孤独な夢の情景。既に身体が慣れてしまい、寂しいと言う感情も無い。
冷たい風に当てられながら、ゆったりと意識が引き上げられる。
目の前のディスプレイに、薄く濁った紫の髪と、白い濁りが混じった瞳が映る。
むせ返る様な熱気が教室中を覆っていた。
あるものは下敷きを、あるものはノートを使い、何とかして涼もうとしている。
それを尻目に教壇の前で、メガネをかけたスーツ姿の教師が教科書を呪文の様に読み続ける。
前の授業は陣術。その前は唱術。この次の授業が喚術。今は近代歴史と言ったところか。
陣術は魔術陣の構図を。唱術は詠唱単語や文の意味。喚術は簡単な材料を使っての簡易的な召喚の仕方。歴史は最近の砂海化現象のことや、街を救った「えいゆう様」の事。
――違う。俺がやりたいのは、こんな事じゃない。
引き出しの中から、ノートを取り出し開く。授業では習わない、習う筈のない行為な魔術関連の単語や関連事項が書き綴られ、半分が空いている。
そこに意識を集中させるように、ペンを握り白いページに走らせる。
それでも尚、教師の口からは、聞きたくも無い単語や説明ばかりが溢れ出ている。
大切な人を切り捨ててまで、この大陸を護った男や、自らの命を削って魔物を討った男の話。
それと平衡して動く、ディスプレイの中の文字羅列。
くだらない。他人事の様に聞き流し、窓に流れる雲を目で追う。
教師の肩が、微かに震えるのが分かった。今日は随分、長く持ったほうだろう。
「イナミ君。今まで、話した事を簡潔に纏めて、言ってみなさい」
教室の所々でクスクスと笑い声が聞こえ、目の前に教師の顔が現れた。
溜息を吐き、椅子から立ち上がる。今まで、ペンを走らせていたノートを机に置き、一呼吸。
教室に居る生徒は勿論、鳥の羽ばたく音も、外を走る車の音も完全に掻き消える。
「三大偉人と呼ばれる。すなわち、鹿糠羽シュウ。セラフ=エスティード……もう一人は名前不明。鹿糠羽さんは自分の命を削り、大陸に降りた十万の異獣を殺した。セラフさんは大切なパートナーを失ってまで、国を守り抜いた。
砂海現象とは、二酸化炭素増加による温暖化で、海だった場所の半分が砂漠に変わり、そこで生きることの出来ない筈の生物が、ゆっくりと進化をし続け、灼熱の砂地獄でも生きる術を得た。そして……ああ、すいません。ここは次の所でした」
沈黙。
褒めもしなければ、怒りもしない。ただ沈黙し、彼らはチャイムの音と共に肩を落とし、散らばった砂のように、好き勝手に休み時間を使いはじめる。
別のクラスの噂話や、弱そうな生徒を捕まえ、財布を盗んだり、黒板に人の悪口を書いていったり、それを消す者も居たり。
それを尻目に、机の横に掛かっていた鞄を掴み、背負う。
誰も咎めようとはしない、見ていても見ているだけ。そんな、妙な視線を受けながら、教室を後にし、出た廊下を右へ進む。
途中、箒を振り回して遊ぶ男子や、それを咎める委員長らしき女子とも、擦れ違ったが咎められる事は無く、とうとう足は渡り廊下へ、そして旧校舎の中へと滑り込んでしまった。
懐かしいような、初めてのような、変な感じのする匂いが漂っている。
臭いわけでもキツイ香りでもないが、無臭では無い。在るはずの、何かの匂い。
「積もりゆく白銀の雪の如く 汝に尽くそう」
不意に口から、聞きなれた言葉が発せられる。
「銀の矢を番えし獣の如く 汝の四肢と成り」
それは、ずっと昔から知っていた詩。母親の中に居た時から聞いていた詩。
「例え四肢が捥がれようと 銀の杭で彼の者を穿つ」
聞きなれていた、謳い慣れていた音が喉から零れ出て行く。
「悠久の時を刻み 銀の時計は謳う」
いつの間にか、暗闇だった空間を自然と足が進んでいた。
そして、腕が浮き上がる。冷たい筒状の物に触れた。手前に引く。
「銀色の時間を越え 此処に願おう」
全て詠み終えた。何も起こらない、起こりはしない。
何故なら、自分には血が無いのだから。純粋な魔力が流れている筈の血が、無い。
目の前に広がっていたのは、本の山だった。乱雑に積まれ、手入れのされていない辞書や、教科書。それから、小説の類や古い術書……それを手にとり広げる。
本校舎にあるものとは違う、全く別の高位術式から、まだ解読さえされてないはずの、最高位術式の翻訳文書。いつも以上に胸が躍り、ノートを広げ書き写していく。
覚える事に意味の無い術式を。いくつも、いくつも。
全てを写し終えた時には、既に外が紫の闇に覆われていた。
予備に持っていたはずの二十冊のノートが、黒く埋め尽くされ、自分の周りに散らばっている。
――これで、全部か。
既に興味の無くなった、『空の箱』の中で溜息を吐き、ノートをかき集めたあと、痺れている足で何とか立ち上がり、再び誰も居ない筈の教室の方へと戻る。
誰も居ない。それが当たり前の教室の真ん中で、俺は口を歪め笑った。
銀の詠唱をした日は、何故か一人で居たくなる。そして、思い出す。
壊す魔術ではなく、癒す魔術でもなく、ただ救うだけの魔術を目の前で見せた赤髪の男。
姉が殺された日に、何の利を求める事も無く、救おうともせず見せた銀色の魔術。
男は微笑み、姉の墓を作り去っていった。
まだ、あの時の詠唱が見つからない。それが無ければ意味が無い。
今日、書き写してきた高位術式ですら、なんの意味を持たない。
俺は再び、空の箱から抜け出した。
数少ない、茜色のネオンが顔を照らしている。
まだ、夜は深けていないというのに、人の気配も動物の声も無く、夜光虫だけが身体のまわりに纏わり付き、それを払う手が空を切り、音を立てる。それだけの帰り道。
街灯の光も、少しずつ消えていき暗闇だけが……いや、ぼんやりとした光が靄のように身体の周りを覆い、包んでいた。軟らかな声が聞こえ、振り向く。
肩の辺りで茶色の髪を纏めた、おそらく同じ年頃の女の子。
だが、身に纏っているものは、制服ではなく男物のジャケットとジーパン。
こんな夜でも、茹だる様な暑さを感じるというのに、彼女の服装は初冬に着るような服装で、道路の真ん中で闇に蠢く大きな塊と対峙していた。
体中の神経が警鐘を鳴らす。アレは危ない――放って置いてはいけない。
早く彼女を助けなければ。
――殺さなくては
あれは居てはいけない。あれは生きていてはいけない。
――殺さなくては
血が滾り、心臓の鼓動が早まる。視界が狭くなり、二つの影だけが脳に映る。
考えるより先に、足が動いていた。石が転がり、音を立てる。
黒い獣の黄色い目がこちらを向く。来い、来い、今なら殺せる。確信した。
ノートに書きとめていた幾つかの術式のうち、一つを頭に描く。そして、脳内の引き出しを開き、文字の羅列の展開。もう、何度も読んで完璧に頭に叩き込んである。
完全に勝ったつもりでいた、つもりでいた。
「青を帯びし色彩 高き理想を駆けよ 紫の槍」
だが、何も放たれる事無く、虚しく右腕が空を切るだけだった。
黒い獣の牙が、胸に打ち付けられる。鈍い音と共に、口から空気の塊が漏れ、調律の出来ていない笛のような音が鳴る。胸が痛い、喉の奥から鉄の味を含んだ液体が込み上がってくる。
死ぬ。間違いなく、自分は死ぬだろう。だが、それも良い。今までの空ろな日常から逃げれるのだから、それで構わないのかもしれない。
否、まだ死ねない。死にたくない。生きたい!
黒い獣の腕を掴む。毛で覆われた丸太の様な感触が手を伝い、背筋へ届く。
添えた手は、獣の狂行を助長するように、自らの身体に押し込んでいるような形となっている。
目の前に獣の顔が現れた。虎でもサルでもなく、あえて言うなら老人の顔。
その老人の顔をした黒い獣が赤い口を開け、肥え溜めのような異臭を放つ涎を地面に垂らし、ネコがのどを鳴らすように、ごろりという音と共に迫ってきた。
――死んだ。
「そっち行っちゃダメでしょ」
その獣は息絶えていた。あの少女の手で、一本のナイフにより、後頭部を貫かれ。
獣の額から、突き出たナイフの切っ先から血が滴り、その紅い水滴が顔の上に落ち、弾ける。あの涎と同じ、異臭を放つ血が頬を伝い顎の先へと。
気持ち悪い、息苦しい……息が出来ない。せっかく、助かったと思ったのに。
「ねえ」
想像より、少し低い声色が耳に届き、脳に直接響く。
「君、死にたくないの? なら」
目の前の少女が、右腕を顔の前へと伸ばす。心地良い、花の香りがする。
「こっちへ来なよ」
いつの間にか、無意識に彼女の手を握ったまま意識が落ちていった。
それは、いつもと違う目覚め。両親からの愚痴を零す声もなく、ただコーヒーの香ばしい匂いが上から漂ってくる。それに続き、木の香りが。
まだ上がりきらない瞼を擦り、天井を見上げる。大きな換気扇がゆったりと回り、湯気が吸い込まれていく。顔を横に向けると、そこには丁寧に並べられた椅子が何列も並んでいる。
身体を上げようとするが、右胸が軋んで力なく、その場に倒れこんだ。
昨日の出来事は、夢でない事を改めて実感する。
「お、生きかえったみたいやね」
やけに明るい声が上から響き、頭の中を振るわせた。あの少女の、優しく響く声とは全く別の質の声であり、成人した男の声を少し高くしたような声音だった。
「コーヒーでも飲んでくか? 喉渇いとるやろ。ちっとは目覚めるかも知れんよ」
その声の主が顔を覗かせた。
思ったとおり、少し痩身の男。頭は鮮やかな黄色で、耳にはピアス。ワイシャツにエプロンとゆったりとした綿パンツ。
エプロン以外は、典型的な不良の男の格好だった。だが、悪い風では無い。
どちらかと言うと、身内以上に身内な感じの……とにかく不思議な雰囲気を持っていた。
三日月の形に歪められた口が近づき、手にコーヒーカップを渡される。
黒曜石のような色をした液体は、幾つかの波紋を浮かべて水平に止まる。
しばらく、色を見た後でコーヒーカップに口を付けた。苦く、薄い味が口の中に広がり、覚醒しきれていなかった意識が、一気に引き上げられる。
中学までは、苦いものは嫌いだった。高校に入ってからも、一度も口をつけた事はなかった。だが、今の自分は拒むことなく苦味のあるコーヒーを喉に通している。
周りを見てみると、どうも汚い箇所が目立ち、蜘蛛の巣があちこちに出来ている。
「美味いやろ? そやろ。なんなら、甘物とかどうや?」
そう言って、彼は冷蔵庫からアイスを取り出し、丸くドーム状にくり貫いたのを二つ皿の上に置き、薄いクッキー菓子を添え、目の前に置いた。
甘い蜂蜜の匂いが鼻に届く。
――そう言えば、昨日の夜は何も食べていなかったな。
その言葉に甘えるように、皿の上に置かれたスプーンを使い、アイスを崩して、一口ずつ食べていく。
全て食べ終わろうとした時、後からあの声が聞こえた。
「あ、巣に掛かっちゃったか。もう少し、早く帰って来るべきだったかな」
あーあ。という声が、明るすぎる笑顔と共に零れ、それと同時に店のマスターであろう、あの男の明るい陽気な笑みが一変し、邪気たっぷりの笑みへと変化した。
「コーヒー代とアイス代。しめて八百二十円なり」
「高いっ!」
「世の中、そんな甘ないよ? はい、お会計」
――仕方ないか、野良犬に手を噛まれたと思って、八百円くらい……
ポケットを探す。シャツの中を探す。ズボンの中を探す。無い、無い、無い!
――やられた。
さっきまで気絶していて、無防備のまま目を瞑って眠っていたのだ。
財布とられる隙なんて十二分にあるし、こういう時世なのだから、隙を見せた方が悪い。
肩を落とし、両手を挙げる。もう、煮るなり焼くなり好きにしろ。
「ふふーん。金が無いのに、ただ食いはあかんよなあ?」
後で彼女が軽く笑っている。
「分かったよ! なにやれば良いんですか、そこの汚い皿洗いですか。それとも、この誰も来そうに無い店内のリフォームですか?」
完全に開き直った。もう何を頼まれても笑って頷ける。
「そんじゃ、異獣退治行こか」
――ああ、やっぱり、食い逃げとかしてみるのも良いかもしんない。
走った。全力で走った。あの扉の向こうから差し込む光を頼りに、全力で。
あと一歩。首元に今までは無かった、帯状の布が掛かり、後ろ向きに転倒する。
だが、手は動く。近くに落ちていた空き瓶を拾い、後にいるであろう男に向かい振るう。
――当れ!
しかし、瓶を持っている手は、そのまま空を切り、そのまま床に押し付けられ動かなくなる。そして、上からの圧力……その力で、折れているであろう骨が肺へと刺さった。
口から情けなく、空気が吐き出される。既に、抵抗する力も無く、首が下がる。
「やっぱ、まずは掃除やな。あと食器も汚れとんの多いから」
「バカ。まずアタリかハズレか。それだけ見て、アタリなら利用するだけよ」
あの少女とは別の、やけに高飛車な声が耳に届く。
少し高めの、まだ幼いくらいなのに、その声には、充分すぎる位の意思が篭っている。
「で、結果はどう?」
「ん。もの凄いくらいにハズレ。結構、高位魔術式は覚えてるけど、それだけ。血中魔力は今のところゼロだし、素質も皆無。魔色も銀に白が少し混じってるだけ」
どうやら、俺は『ハズレ』らしい。これで、痛い思いもしなくて済むと言う事か。
手は使えないが、胸をホッと撫で下ろし、声のしたほうに感謝した。
そこには、乱雑に切った紅い髪を肩口で留めている少女。その二つの瞳には、あの獣と同じ、濁った金の色彩を帯びていた。なにか、嫌な予感がする。
もうじき、彼女の口が開き、希望か絶望かの言葉が編まれるだろう。
「その便利な脳だけ貰って、役に立たない容れ物は、収集所にでも捨てておきなさい」
編まれた言葉は絶望。身体は、思うように動けない。だが、口だけなら動く。
少しでも、生き延びれば希望の隙間くらいは、出来るかもしれない。
血中魔力。確か、それは生まれたときから決定していて、ない者には無くて、ある者には膨大な量の魔力が通うこととなる。勿論、一般人の俺にはそんな物など皆無。
なら、偽装できる単語を調べろ。
氷の心臓。それは外見上では判断できない。だが、凍りついた魔力炉が溶け出す事により、持ち主の魔力は大きく跳ね上がる。それは、人間の限界でさえ突破できる。
まだ足りない。もっと、大きな確定要素を。偽装出来るだけの要素を。
異獣と人間との混血。それは存在する筈の無い、だが存在してしまった、忌諱すべき存在。魔力炉が空の者もいれば、馬鹿げた容量を持つ者もいる。
それは、誤魔化そうにも誤魔化せない違いがある。だが、それで良い。これは、嘘ではないのだから。確かに、自分は虐げられた存在だった。その上、対抗すべき道具が無く、体力も逃げる事も出来ないくらいに弱い『混血』だった。だが、間違いでは無い。
思い浮かべた台詞。それは、ただの強がりで、唯一の生きる術。そして、自分の得意分野。首に手を掛けられた瞬間、口元を吊り上げ、挑発するように台詞を詠む。
「おいおい。アンタ等、視力が悪いんじゃね? 俺の血中魔力は、溶け出すんだよ。コレを何て言うか、知ってるよな。そのうえ、俺は混血だ。そこらの異獣なんて、三十匹なら無傷で切り伏せる事が出来るな」
部屋の中が静まり返る。気付けば、自分の首が跳ねて、血を撒き散らしながら床に転がるだろう。気付かなくても、いずれ気付き殺される。寿命が延びるか、縮むか。
ただの二択問題。怒ってない今なら、痛みを伴わずに死ねる。
激昂してしまえば、残忍な方法で激痛を伴い殺される。生きたいから、後者を選んだだけの事。
体全体に掛かっていた圧力から、解放される。まずは生き延びる事に成功した。
「分かった。じゃ、こうしましょう。私たちの内、一人と戦って一撃を入れる事が出来たら、此処で雇ってあげる。勿論、負けたりしたら、結果は分かってるわね?」
背筋が凍る。そして、まだ、生きる事が出来るのだという、安堵感が胸の内に広がった。
一撃なら。いや、此処は何とか上手くやって逃げ出そう。
再び、台詞を考える。自分の身体はボロボロだ。
「今はムリだ。身体が、全快の状態でやりたい。もっとも、全快の状態なら、一撃どころかブッ倒せるだろうけどさ。その方が、見極め易いだろ?」
内心、震えながら。それを表に出さないよう、皮肉を交えた笑みで台詞を吐く。
「それもそやな。そんじゃ、喚術を使ってみてや。血なら、幾らでも出せるやろ」
それは、突然の言葉。確かに喚術は、血の契約さえしていれば、怪我をしていても呼び出せる。それも魔力を使わずに、だ。明らかな失態であり、自分が掘った墓穴だった。
手が震える。偽装して、飾る台詞が見つからない。考えろ、思い出せ、何か思いつけ。
頭の引き出しから、取り出されるのは意味の無い詠唱、文字の羅列だけ。
汗が全身から噴出し、手だけの震えが膝にまで達する。これ以上、長引かせるのは無理。
あと、もう少しで生き延びる事が、出来る筈だった。普通の生活が、帰ってくるはずだったのに、拳を握り口を開く。それは、懺悔の言葉を紡ぐであろう。そうでなければ、ならなかった。
「積もりし銀の雪たちよ」
零れたのは、懺悔ではなく、詠唱。それも、自分が一番気に入っている喚術だった。
何度も何度も口ずさみ、それだけで自己満足し続けてきた詩。まるで、遺書を読むように、成功する筈の無い、初めての契約。今まで試さなかった、試す事のできなかった方法を使う。どんな書物にも書かれていなかった、自分だけのやり方。
頭の中で創造した魔力を編み、陣を組み上げ、一部分を崩し二枚目の陣を組み上げる。
ただ、それの繰り返し。土台を創る為、必要の無い部分を削り、必要な部分を強化していく。それが十二回続き、ようやく次の詠唱に入った。
「銀貨を天秤に 血を皿に」
次は土台に陣を上重ねし、それを再び崩し再構築する。今までと、全く別種の喚術詠唱に自分の頭に負荷が掛かり、頭痛が酷くなっていく。目を閉じていた瞼の裏に、紅が映り広がる。
折れていた骨が軋み、そして、別所に複雑に繋がった。悲鳴にもならない声が漏れる。
陣を重ねるごとに、痛みが増していき、骨が繋がり砕けていく。
そして、五枚目の陣を組んだときに、肺に血が流れ込み、息が出来なくなる。
だが、それも収まり、三節目の詠唱に入る。
「銀骨を祭壇に添えよ 黒き血を土へ還せ」
今度は、骨が完全に繋がった。肺へ流れていた血が止まり、肺に残っていた空気が溶ける。
淡水に浸かっているような感覚が身体を包み、瞼の裏の紅に隙間が出来る。
組み上げたのは、三枚の複雑に絡み合っている式陣。
「銀の銃弾 汲み上げた紅い水」
目に映ったのは、銀色の雪。それは頬を掠め、地面へと付く。
それが泉となり、そこへ三十四の銀の波紋が作られ、消えることなく留まった。
頭の中から、利用出来得るであろう、十四の陣を選び出し、絡ませる。
出来る限り複雑に、出来る限り簡潔に。
「もしこの声が聞こえたなら」
全てを繋ぎ合わせる。脳が溶けるような感覚と、血が固まっていくような気持ち悪さに襲われ、両膝を付く。
そして、最後の言葉を高らかに言い放つ。
「来たれ『銀の戦姫』」
瞬間、全身の力が抜け、うつ伏せに倒れる。
結果として、彼女は呼び掛けに応える事は無かった。それが意味するのは死。
あの男の足が、力の篭らない右手を踏みつける。
「ハッタリとしては上等やったよ。せやけどな、嘘はあかんよ?」
それは明らかな殺気。いつの間にか男の手には、柄が異様に長く、刃の部分が大きく平らに広がった刀が握られていた。
そして、息を漏らす隙も無く、その凶器が振り下ろされた。された筈だった。
だが聞こえたのは、自分の身の肉が切れる音ではなく、鉄が射ち合う音。
そして、赤髪の少女に引っ張られて、男の身体が後ろへと飛んだ。
「ソレ。私の獲物ってことで」
赤髪の少女が、離していたはずの距離を一気に詰める。
「白の凶器」
短すぎる詠唱。
だが、それでも彼女の手には、身の丈に達するほどの刀が握られていた。
それが横薙ぎに振られ、頭の上を通り過ぎ、在る筈の無いモノに当り弾ける。
ソレは奇跡と言うべきか。もしかしたら、死ぬ前の夢だったかもしれない。
彼女は身体に似合わぬ、銀の巨塊と間違えるほどの大剣を携えていた。
「<仮の主>よ。何を私に与える事が出来る」
それは夢で見ていたのより、ずっと綺麗な姿だった。
下袴だけと言う姿でありながら、清楚な雰囲気を帯びている彼女は、クスリと微笑む。
ドアの隙間から銀の光が差込み、顔を照らす。
「そうだな。俺は何の取り得も無くてね、ただ渡せるといったら、脳みそくらいだ」
「それでは困る。それに見合ったモノを私も仮主である、お前に渡さなくてはいけない」
かと言って、魔力も無い、体力も無い、自分には何も渡すものは無い。
「なんなら、そっちで話し付けてから、続きをしましょ。一週間待ってあげるわ」
赤髪の少女が刀を消し、椅子に座った。唐突な出来事に、店の主人であろう男も呆然として床に座り込んでいる。どうやら、賭けには勝った様だ。
隅の方で棒立ちしている、あの茶髪の女の子を見て、入り口から外へ出た。
外の風景は、有り触れたビル街。だが、この風景は見た事が無く、おそらく自分の町とは別の、それもかなり遠い街である事が分かる。
それが判明すると、途端に楽しくなった。もう、うざったい授業もしなくて良い。
その上、さっきまで死の縁にいたというのに、今は最高位の使い魔を連れている。
生きていることを実感し、アスファルトの道を踏んだ。
「さて、どう戦う? 仮主」
「戦う? 馬鹿言うな。逃げて、生き延びる。手札の無いトランプゲームはやらん」
それが自分なりの生き方だった。今まで、大多数から迫られ、そうだったように、今回もそうして平凡な終わり。それで良かった筈だった。
だが、彼女からは軽蔑の意がこめられた視線が向けられ、明らかな失望の表情が浮かんでいた。どうすれば、良いというのだろうか。高位喚術式を作れたのも、偶然だった。
自分には魔力なんて皆無で、あんな化け物にかなう筈も無い。
そんな自分が丸腰で、どう戦えというのだろうか。まさか、胴体に爆弾を巻きつけ、突っ込めというのだろうか。生憎、そんな事をするのはゴメンである。
自分の鞄の中には、一枚の古ぼけたコートと、二十冊のノートしかないのだから。
「なら」
誰も居ない道路に、彼女の凛とした声が響いた。
「どんなに、ひ弱な手札でも、確実に勝てる要素があれば良いのだな?」
「ああ、やってやるさ。そんなのがあれば、幾らでも。な」
軽い気持ちで答える。だが、その言葉で彼女の顔は、花が咲いたように明るくなり、俺が背負っていた鞄から、ノートを一冊抜き取って、一枚ずつ捲っていく。
途中、手を止め頷きながら目を上下させていたが、結局全て読み終えた。
そして、また一冊。もう一冊と読んでいき、四冊目で完全に動きが止まり、真ん中のページを開き、道路脇のベンチに広げ、ある箇所に指を向ける。
それは銀色の魔術式の項目だった。そして、それは一番好きな魔術であるが故に失敗の記憶が色濃く残っている。だから、覚えるだけに留めていた。
逆に言えば、そこの魔術式なら読まずに数秒で組み上げる事が出来る。
「此処に書いてある魔術の中で、成功した物はある?」
「生憎と銀の魔術は出来ないらしい」
「そんな筈は無い。もう一度やってみろ」
そう促され、頭を掻きながらノートに書いてある、初歩的なものを選び、詠唱。
「銀の衣を纏え」
ただの一節。だが、それだけで分かった。これは、絶対に失敗する。
結局、二節目を終えた時点で詠唱を打ち切った。やはり自分には、才能など無かった。
出来るなら、目の前にあるノートをぐしゃぐしゃにして、捨ててしまいたかった。
だが、自分の頭の中には、完全に魔術式が植え付けられ、剥がれなくなっている。
もしかしたら、自分は殺してもらいたかったのかもしれない。この、覚えているのに使えない、もどかしさを消してもらいたかったのかもしれない。
俺は、ノートが行儀よく座っているベンチの上に、腰を下ろした。
「お前は」
彼女が再び口を開いた。
「私を喚ぶときに何をイメージしたのだ?」
「何も……いや」
自分は、あの時は無心だった。だが、たしかに彼女の心に触れたとき、見えていたはずだ。
あの綺麗な光景を、あの澄んでいる心情風景を。
「たしか、銀色の泉」
その言葉を紡いだ瞬間、頭の中にあった幾つかの陣術式が銀の光を帯び、熱を発する。
ほんの、ごく僅かの術式だった。だが、それが嬉しかった。
横に、同じ格好で座っている、彼女。整った顔に、再び笑みが戻っている。
さっきと同じように詠唱を始める。あの時のように積もっていく雪が、そして溶けて茶色の土が見える。詠唱だけではなく、陣術も織っていく。
簡単では無い。まるで、身が焼けるようだった。だが、それを組み終わった瞬間、傷みと言う枷から、身体が解放された。
「<銀の土>幾らでも血はくれてやる」
目の前には、鬣が綺麗になびく獅子が居た。それは、まだ小さく薄い光しか帯びていない。だが、確かにその眼には銀色の強い意志が宿っていた。
「俺の手札になれ。血の方は保障できないが、肉なら美味いと思うぞ。なに、死んですぐなら、生きているのと同じようなもんだ」
獅子は唸り、そして消えた。
「まだ、初期の部分特化魔術ではあるが」
彼女の声が遠のいていく、そうか初期か。それでも構わない。自分にも使えた。
その事実が、あれば良い。ベンチに座りながら身体を傾けていった。
瞼が重くなり、閉じていく。ふと、下がっている頭が温かいものに触れたが、気にせず意識を手放した。
暗室の中で見えたのは、寂しげな雪の森ではなく、銀の泉の辺で休む獅子の姿。
彼はこちらを向き、スッと目を細めた。
意識が舞い戻り、瞼を開く、いつの間にか自分の身体は、柔らかい布に包まっていた。
日の匂いがする布団。そして、背中には温かい感触があった。
――へ?
最初は、毛布かと思ったのだが、そんな筈は無い。その温もりは、胸の方まで包んでいる。しばらくの間、思考が停止していたが、ようやく状況が掴めた。
――まさか、あの服装で?
それ以外に何がある。彼女は、手ぶらだったのだから。
――なんで、そんなことをする必要がある
確か図書室にあった本には、使い魔は主を認めたときに、生涯の伴侶となる、だとか。
――マジですか。
そんな複雑な感情に包まれている最中。上の方から、陽気な声が聞こえてきた。
「おや、アンタ起きたのかい。だったら、その子にお礼言っときなさいよ」
そこには、エプロン姿の中年の女性が立っていて、両手で料理の乗った盆を運んでいた。
「その子、ずっとアンタの傍で、寝ずに看病してたんだから」
……横で寝息を立てている彼女を見た。やつれた様子こそ無いが、気持ち良いくらいに熟睡している。
心の中で感謝し、ふと気になっていた質問を目の前に居る、親切な女性にした。
「俺、どのくらい寝てました?」
「そうね。丁度、五日位ね」
――こりゃ、やばい。
今度ばかりは、本気で逃げたくなった。
「案ずるな。二日あれば、基礎なら叩きこめる」
基礎なら。と言う事は、それ以上は無理と言う事だろう。胸の奥から空気を吐き出し、ベッドに倒れこんだ。
もう、完全に身体が戻っている。これなら、街一つ分なら逃げる事が出来る。
――倒す作戦も練る事が……出来る。
今、思ってしまった事を馬鹿だとは思わなかった。上手くやれば、いけるかもしれない。
別に倒してしまえというわけでは無い。一撃を入れれば、良いというだけだ。
なら、やれるはずだ。自分の脳内でシミュレーションしてみる。
基礎だけを使った戦術で、あの化け物を倒す手段を何百通りも考える。
――ダメだ。
どうしても、詰みまでいけるのだが、反撃され死が待っている。
これ以上の手段は、思い浮かばない。腕を一本、失う覚悟なら……。
――無理。
やはり無理だ。どの部位を失っても、最後に逆転して殺される。
死から逃れる方法など、ありはしない。
「死に方を考えているのでは、あるまい?」
生きるだけと言うなら、逃げてしまえば簡単なのだが。
「身体を調べさせてもらったが、お前の血では基礎魔術でも五つだけが精一杯だ」
十五ある内の五つだけ。それは明らかな絶望であり、死刑宣告。
だが逆に考えれば、今までゼロだったのに五まで使えるのだ。充分すぎる。
――でも、それでも足りない。せめて中級の魔術があれば。
「銀の象徴である、<衰退><特化><付与><繁栄><記憶>ちなみに、繁栄の方は高等だから無理。ついでに、衰退なんて雑魚にしか効かない。特化も付与も、そこまで使い勝手の良い物では無いな。ちなみに、特化を使っても、コンクリくらいだ」
彼女は一息で言って、ふっと溜息を付いた。
「コレで勝てたら、私はお前に一生ついてやってもいいぞ?」
そう茶化すように、言って彼女はベッドの上に再び身体を横たえた。
既に諦めた風で、天井に目を泳がせている。
特化と付与。それから衰退。記憶の方は、既に自分も身を持って知っている。
衰退を削って特化に。いや、それでも一瞬しか見は持たない。
――いっその事、特化だけにして、一撃に賭けるか。
そんなことをしたら、音の衝撃だけで身が吹き飛ぶだろう。
やはり、すべてを使ってやるしかない。ベッドから身体を上げ、ノートを開く。
そして、いつもの強がりを。
「一撃を与えるまでも無いよ」
陰を落とす彼女に向かい、放つ。
「与えるまでも無く、倒して見せるさ……ところで、名前を聞いていない」
彼女の口から、綺麗な短い音色が聞こえる<アヤメ>と。
その顔に、再び綺麗な花が咲いていた。
「俺の名は稲見キト。魔力の無い、役に立たない魔術師だ。だが、五つの力で君に最高の勝利を届ける事を。澄み切った銀の泉を枯らせぬ事を誓おう」
それは約束であり、契約。俺は、意味の無くなったノートを破り去った。
いえー。
もう一方を放っぽり出したな俺。
いえいえ、ちゃんと執筆続けてますので気になさらず。