婚約破棄された悪役令嬢ですが、復讐する前に闇ギルドにスカウトされました
「悪役令嬢だって、ざまぁできなければ、ただの憑依した一般庶民だろキーック!」
「そ――なん――ぶヘらぁああ!!」
驚愕で見開かれたまつ毛の長い目が、ぶつかる靴裏に吸い寄せられた刹那、上品に整った淑女の顔面に、豪快な飛び蹴りが炸裂した。金色の巻き髪が宙で弧を描き、柔らかそうな金髪が光を反射する。
細い身体がはじかれように闘技場の端まで飛ばされ、高級なシルクとレースのドレスが裂ける音とともに、ほんのり甘い香りが舞った。ドロワーズが覗き、観客席から悲鳴とやじが入り混じる。
「おおおーっと、なーに言ってるか理解できなかったが、ジャイアント泡立の豪快な技が決まったー!」
実況席の派手な化粧を施した男が、舌をかみそうな声を張り上げる。
「今のは異世界プロレスの至宝、ロケット砲のごときドロップキックですね!」
同席する壮年の紳士が拳を握りしめ、熱を帯びた声で興奮を隠せない。
「ぐあっ、いってぇ……!」
リング上、泡立のぼるは着地に失敗して足首を押さえ、痛みに顔を歪めていた。砂のようなマットの感触が肌を擦り、微かに塩味を帯びた汗の匂いが漂う。その先では——
「――あ、ああ、貴方。よくも淑女の顔に……!」
鼻血を手で押さえながら、令嬢が震える声で非難の視線を向けていた。目には怒りと屈辱が交錯し、唇はわずかに震えている。
泡立は、痛みに歪む足首を抱えながらも、闘志むき出しの笑顔を浮かべ、殺気立った眼差しを受け止めた。鼓動が耳に響き、リング全体が熱気で満ちる中、歓声と歓声の間で静かに意識を研ぎ澄ませる。
「やっぱ、ラモレスの魔豹なんて聞いたら、これしかないっしょ!」
その背後では、布木こぼれが拳を振り上げ、声を張り上げた。
「ふざけんなバカ! 乙女の顔になんてことを!!」
霧吹カケルはうろたえ、天を仰ぎ両手で目を覆い、「僕は何も見てませんからね?!」と、観客席のざわめきと自分の動悸に押し潰されそうになっていた。
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時は数刻前に巻き戻る。
闇ギルドが経営する店で暴れたことで弱みを握られた布木こぼれ、霧吹カケル、泡立のぼるの三人は、奴隷のようにこき使われていた。幾度となく命じられた魔導書の奪取は、幼馴染のミカサが手に入れた魔導書の前に、二度にわたって失敗に終わった。手元に残るのは、失敗の痛みと、おそらくもう後がないのだという恐怖の感触だけだった。
その後、ミカサと和解した三人は、けじめをつけるべく、闇ギルドの幹部が常用するというナイトバーへ向かうことになる。大都市ノアの中心、貴族街に溶け込むクラシックな建物は、外から見ると上品なレストランのようだが、その地下には違法格闘場が隠されている。
屈強なボディーガードに赤髪の男から渡された割符を示すと、警戒心の光る視線を浴びながらも、豪奢なホールを抜けて地下へと案内された。地下への階段は石造りで、湿った空気に混じって香ばしい酒の匂いと汗の匂いが入り混じる。耳に届くのは、遠くで響く歓声と鉄の床に響く足音。
VIP席の一角、暗がりの中に赤髪を結ったスーツ姿の男が静かに座っていた。泡立たちを恐怖のどん底に突き落とした、ギルドの大幹部だ。何もしていないのに、その存在感が首を絞めるような殺気となり、自然と呼吸は浅くなる。
「ほう、どうしてここにいるとわかったんだ?」
赤髪の男は、淡々とした声で尋ねながらも、興味を帯びた視線をこちらに向ける。視線の先は霧吹カケルだった。ビクリとカケルの体が揺れ、心臓が早鐘のように鳴る。
――もしかすると、この男は霧吹のチート能力に感づいているのかもしれない
恐怖と緊張に押し潰されそうになるよりも早く、体は自然に動いた。泡立が霧吹と赤髪の男の間に身を挟む。地下の薄暗い光が、彼の汗で光る額や拳の震えを浮かび上がらせる。
「申し訳ありません、魔導書は手に入りませんでした!」
声は震えていたが、意地と責任感が混ざり合った力強さもあった。泡立は、頭を深く下げ、腰を九十度に折り曲げて謝罪した。足元のマットに擦れる布の音と、自分の心臓の高鳴りが耳に響く。汗が額から滴り落ち、袖口にしみ込む感触がじんわりと冷たい。
赤髪の男は、ゆっくりと三人を見渡す。その目には鋭さと計算高さが混じり、静かな声で相槌を打つ。
「そのようだな」
酒場に紛れ込ませていた部下はまだ帰還していないが、外に隠していた別の部下からは、目の前の三人と「ミカサ」と名乗る少女とのやり取りの詳細な報告が届いていた。
視線の先に落ちる報告書、そこには投射魔法により、空から落ちた白紙の魔導書が二冊、いずれも宿主に貼りついたように、離れようとせずぴたりと貼りついている。その光景を見て思わず息を呑む。以前、闇ギルドの支配者――毒島が口にした“マーキング”という表現が脳裏をかすめた。
なるほど、何者かに狙われたからこそのマーキングか。さらに別の部下の報告によれば、ミカサという少女はその後、三冊目の魔導書に貼りつかれたという。
赤髪の男は酒を口に含み、濃厚なウィスキーの香りと味を嚥下しながら、新たな報告材料を喜びとして胸に収めた。そして視線を三人に戻し、どう扱うべきか思案する。
――任務を二度も失敗して、無事で済ますつもりはない。しかし、相手はまだ子供だ。よく働く小間使いとして、なるべく長く使い倒す方が得策だ。
何かにひらめいた赤髪の男は、手元の資料と地下闘技場のパンフレットをちらりと一瞥し、目の前の三人に向き直る。そして、ゆっくりと泡立を指さした。
「おまえ、見どころがあるな。リングネームは何がいい?」
「――へ?」
泡立は、頭を下げたまま間の抜けた声を上げた。
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暗がりに強烈な照明が差し込み、リングが鮮やかに照らされた。白と赤の光が鉄の柵を反射し、観客席の影を揺らす。汗の匂いと油の混じった香りが空気を重くし、耳には歓声や掛け声、遠くでグラスが触れ合う音が混ざり込む。
「レディース&ジェントルメーン!」
軽快で張りのある声が、観客のざわめきをさらっていく。
「今宵もやってきました、地下闘技場!華の交易都市の週末は、ちょっと危険で野蛮な夜はいかがかな? しょっぱい週末もリングの狂気で吹き飛ばせ!」
圧巻のマイクパフォーマンスに観客は身を揺らし、歓声が跳ね上がる。薄暗い観客席の影の中でも、目を輝かせる者たちの興奮が伝わってくる。すでに予選を観ていた仲介人や、試合を追いかける観戦者の間でも、今夜のカードは話題の中心だった。
「まずはコチラぁ! 配当金6600万、ラモレスの赤き魔豹、悪役令嬢アビヘルテー!」
「うぉおおおお!」
観客席の一角で、歓声と共に指笛が飛ぶ。
「お次はこっちだ! 配当金3300万、街中で火炎魔法を解き放つ、はた迷惑な冒険者、ジャイアント泡立ぃー!」
「Boo! Boo!(ぶーぶー) 」
掛け金が大型スクリーンに表示され、金銀に煌めくリング設備に囲まれながらも、その中心には無骨な鉄製ゲージと血なまぐさいマットがある。
一段高い解説席から声が飛ぶ。
「えー、解説席は毎度おなじみ、異世界転生変態兄さんことバモス大森と、ゲストに吟遊詩人のミヒャエルさんをお呼びしております。ミヒャエルさん、今夜のカードもなかなか熱いですね」
「そうですね。なんでリングに悪役令嬢が立つのか……ざまぁする場所を間違えたんでしょうか」
観客席からは、「ヒロインが見当んねーぞ!」と野次が飛ぶ。
「そして興味深いのがジャイアント泡立選手……なんか洗剤みたいなリングネームですね。彼はなんと銀級冒険者、すごいですね。本名は、泡立のぼる、なんかギャグみたいな名前ですね」
「うっせぇわ!」
観客の外野の遠くからツッコミが飛んだ。
リングの外の客席では、乱暴な歓声と掛け声に紛れるように、霧吹カケルと布木こぼれが肩を寄せ合い、縮こまるように様子を見守っていた。薄暗い観客席のざわめき、鉄柵が振動する音、遠くでかすかに香る汗と酒の匂いが、二人の緊張を一層引き立てる。
「布木さん、これでよかったのかな……」
小さな声でカケルが尋ねる。
「仕方ないでしょ、泡立君が良いって言ったんだから。どうしてもやばくなったら、あのアホ(あわたちのアホ)を回収してすぐ逃げるわよ。それより、どうなのよ?」
布木は片手でカケルの肩を軽く押し、視線を前方に送る。
「どうよ……」と思案して視線を巡らせると、自然と赤髪の男の存在を思い出す。あの日以来、距離を取るだけでも警戒アラームが鳴るほどに、恐怖のトラウマが脳裏に蘇る。
「あの人から逃げられる自信はないけど、僕の警報はまだ大丈夫みたい。好機はずっと鳴っているから、このまま待機でいいはず……」
カケルの声は小さいが、僅かに震えが混じっている。胸の奥では鼓動が速く打ち、手に握る椅子のひんやりとした感触が伝わる。
「はっきりしないチート能力ね! まったく……頼りにしてるわよ、あんた(カケル)が切り札なんだから」
布木は低い声でつぶやき、眼前のリングを注視する。
カケルは力なく頷き、視線を固定した。薄暗い観客席の向こう、強い照明に照らされた入場ゲートから、二人の戦士がゆっくりと登場してくる。リングの床が微かに震え、鉄柵が光を反射してきらめく。その姿に、カケルの胸は高鳴り、全身に戦慄が走る。
「来た……」
布木の息も荒くなる。観客の歓声とざわめきが渦となり、地下闘技場全体の空気が、緊張と興奮で重く、熱く押し寄せる。
リングの中央に立つ二人。泡立のぼるの背筋はピンと伸び、汗で光る額が照明に照らされる。対する悪役令嬢アビヘルテーは、華麗なドレスを揺らしながら、挑発的な視線を観客席に向ける。
カケルと布木は、息をひそめて、その瞬間を見つめた。すべての視覚、聴覚、触覚が研ぎ澄まされ、リング上の二人の動きに心を奪われていく。
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暗がりの入場ゲートを越え、リングへの光のロードに足を踏み入れる。照明に照らされた赤いマットが、煌めく金属の柵に反射してまぶしく光る。観客の歓声とざわめき、鉄の床に響く足音、遠くに漂う汗と酒の匂い――すべてが五感に突き刺さる中、悪役令嬢として紹介されたアビヘルテ嬢は、意気揚々と歩を進めた。
胸中には複雑な感情が渦巻く。伯爵令嬢である自分が、なぜこんな汗臭く、血の匂いが漂う地下闘技場で剣技を振るわねばならぬのか――その葛藤。だが同時に、この異世界転生で「俺TUEEE」する舞台に立っているという、背筋を貫くような歓喜もあった。
異世界転生――もともとこうなる予定ではなかった。発端は、自分が愛読していた小説の悪役令嬢に転生したことだった。風邪で寝込んだあの日、目覚めた瞬間、自分がそのキャラクターとして生きていると自覚したのだ。
小説の中で、ノアの政治を司る伯爵令嬢として英才教育を受けたアビヘルテは、旧王家の王子の誕生日の舞踏会で婚約破棄され、庶民のヒロインが登場、そして転落――その人生は非情で悲惨だった。アビヘルテへの同情が湧く一方で、彼女の心には反骨の炎も燃えていた。
――私ならもっと上手くやれる!
小説の知識があるからこそ、未来を見通すことができる。幼い頃から勉学に励み、己の力を磨き、私兵を組織した。問題を起こすメイドや家来を排し、他家との交流を通じて影響力を拡大した。その努力の甲斐あって、学園都市からヒロインを追放することにも成功したのだ。
だが、それでも……婚約破棄のイベントだけは避けられなかった。舞台は変わっても、小説の因果はまるで運命のように追いかけてくる。アビヘルテは唇を引き結び、胸に沸き上がる怒りと悔しさをぎゅっと押し込む。
きっと何かの間違いだ――その思いだけを頼りに、アビヘルテは両親の監視の目をかいくぐり、贔屓の情報屋に駆け込んだ。だが店主には会えず、思わず声を荒げる。
「接触禁止令ってなによ?!」
仕方なく辿り着いた先は、裏社会の情報屋、つまり闇ギルドだった。
薄暗い部屋には革張りの椅子と机が置かれ、香ばしい煙草の匂いが漂う。高圧的な態度で報酬をせびり倒すと、赤髪の男――闇ギルドの窓口を自称する男――が額に手を当て、やれやれ、と咥えタバコを吐き出した。その瞬間、世界がぐらりと揺れたような感覚に包まれ、次の記憶は途切れていた。
腹心のメイドと護衛を従えていたにもかかわらず、一瞬で倒され、気がつけば地下闘技場の控室でリングコスチュームを纏っていたのだ。
「……え、なんですのこれ?!」
冷たい金属の床と、照明の熱でわずかに汗ばむ肌に、理不尽への怒りと困惑が混ざる。
——あの赤髪の男め! 次に会ったらギッタンギッタンのバッタンバッタンにしてやりますわ!
そのとき、ドアをノックする軽やかな音が響き、小さな女の子が入ってきた。肩に背負った小さなカゴから、オレンジジュースを取り出す。気が利いているわね、と――喉が渇いていたアビヘルテは、紙コップを受け取り、一気に飲み干す。甘く冷たい液体が喉を潤し、わずかに頭が冴える感覚がした。
少女は「こちらを読むでやんす」と、手紙を差し出してくる。アビヘルテは手紙を受け取り、しなやかな指で封を切り、中身を確認する。
そこには赤文字でこう書かれていた――
「情報が欲しくば力ずくで勝ち取れ」
アビヘルテは目を大きく見開き、唇を震わせる。遠くに歓声の声が広がる中、紙の感触とインクの匂いが現実感をさらに際立たせる。
「……つまり、どういうことですの?!」
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怒りと混乱を抑え、地下闘技場の熱気と観客の視線を肌で感じながら、悪役令嬢は今、未知の戦いに足を踏み入れようとしていた。
そして時が告げる。
光のロードを歩くたび、柔らかいドレスの裾が足元で揺れ、レースの隙間から素肌に冷気が触れる。呼吸と共に胸が高鳴り、鼓動が耳に響く。観客席からの歓声、鉄柵が揺れる振動、汗と酒の混じる匂い――すべてが戦いの舞台として自分を試すものに思えた。
「さあ……今こそ、私の力を――示してやるわ」
アビヘルテは小さく息を吸い込み、背筋を伸ばした。闘技場の熱気と歓声が、彼女の内面の決意をさらに押し上げる。小説の因果に抗うべく、そして自分自身の才覚を証明するため、悪役令嬢はリングへと歩を進めた。
そこから先は、怒涛の展開だった。
あれよあれよという間にリングに押し上げられ、視界に飛び込んできたのは、下心に満ちた野蛮人のような男――ジャイアント泡立。汗で光る額、荒々しい呼吸、荒い息遣いがリングの熱気と混ざり、鼻先にわずかに汗と金属の匂いが届く。
高貴で高嶺の華たる自分の美貌に当てられたのか、泡立は興奮気味に息巻き、拳を握り締める。心の中で、思わず鼻白む――こんな庶民のような男に、我がラモレス家の武芸を叩き込むまでもない。
作戦は完璧だ。家柄、権力、財力、個人の武勇――すべてを並べて泡立の戦意をくじき、その隙を突いて華麗に一撃をお見舞いする。胸に高ぶる期待と、心地よい緊張感が鼓動と共に広がる。
そして、思い描いた通り、アビヘルテの口撃にジャイアン泡立は手も足も出ないようだ。直立から動かない気配を感じたまま、アビヘルテは自慢げに笑い、さて、下品な男はどんな情けない顔をしているかを見ようと目を向けた――。
しかし、目に映ったのは、足裏だった。
「そ――なん――ぶヘらぁああ!!」
上品に整った淑女の顔に、豪快な飛び蹴りが叩き込まれる。金色の巻き髪が宙を舞い、照明に反射して光の筋となる。ドレスの裾がひらりと揺れ、柔らかな布地が空気を切る音と共に、自慢の小鼻から赤いしぶきが宙を舞った。
そして、物語は鬨をあわすように加速する。
「ああっと、悪役令嬢アビヘルテ、ものすごい鼻血です!地団駄を踏みながら、ものすごい剣幕で抗議しています。ミヒャエルさん、いかがですか?」
「鬼の形相が怖いです……さすが赤き魔豹。しかし、審判がいないので、抗議を受ける泡立闘士は気にしてないようです」
解説席から、薄暗い地下闘技場の熱気が漂う中、観客の声と歓声がぶつかり合う。汗と鉄の匂い、リングマットの硬さ――すべてが地下の野蛮さを体感させる。
「おお! そんなのお構い無しにと、これまた伝統の一撃、脳天からチョップが炸裂! アビヘルテ嬢がマットに沈む!」
光を反射する髪の房が宙を舞い、床に落ちるたびに観客席から悲鳴と歓声が混ざる。アビヘルテは床に叩きつけられた衝撃で、鼻血と共に視界がわずかに揺れる。だが、その瞬間も諦めはない。
「あっ!」
マットに沈んだ体勢から、アビヘルテはすばやく足を伸ばし、泡立の足首を掴んだ。体重と力を利用して引き倒し、床に倒れこませる。鉄柵に響く振動、床の硬さ、そして自分の掌に伝わる相手の重さ……感触ひとつひとつが、彼女の怒りと闘志をより鮮明にする。
観客席からは「おおお!」と歓声が上がり、地下闘技場の熱気はさらに膨れ上がる。
アビヘルテの瞳には、勝利への光が揺らめき、泡立は驚きと焦燥に目を見開いた様子で固まった。
「ふざけるな……ふぜけんな、ですわ!」
アビヘルテは鼻血も気にせず立ち上がり、仰向けに倒れた泡立の股間に鋭い蹴りを叩き込む。
「はぉっ?!」
泡立は素っ頓狂な声を上げ、短い気絶から目を覚ました。瞬間的な痛みに顔をしかめ、思わずゴロゴロと転げ回る。リングのマットが彼の体重でしなり、鈍い音を立てる。
後ろの観客席で布木が怒りに任せて抗議の声を上げるが、歓声と笑い声の洪水にかき消される。霧吹は布木に首を絞められ、左右に頭を振られて、抗議どころではなさそうだ。
アビヘルテは肩を揺らして呼吸を整え、高らかに宣言する。
「私はラモレスの赤き魔豹!凡愚な下民は土下座して、足先でも舐めるのがお似合いですわよ!!」
観客席の野次から「凡愚って懐かしい響きだな」「フハハハハ!」と笑いが起こる。転生前の世代がわかってしまいそうな、妙なノスタルジー混じりのざわめきが広がった。
「これまで多大な功績を積み上げてきた私に、よくも顔面蹴りなど……私は幼少の頃より勉学に励み、家来の不正や不届き者のメイドを追放して、家を盛り立てたのよ!」
そのとき、客席から鋭い反論が飛ぶ。メイド姿の女性が身を乗り出し、声を張る。
「実際はお嬢様を諭してただけです!」
観客席から「いえーい!」と歓声が上がり、場内の空気が一瞬で揺れる。
「な、な、なんですって!誰ですの貴方?!……それに、私は幼い頃より私兵を組織し、家門の力を示してきました!」
すると再びブーメラン証言が飛ぶ。冒険者風の男たちが口々に声を上げる。
「ラモレスの私兵団って、マジおままごとだよな!」
「合同訓練で見かけたときは、思わず言っちゃったぜ、そんな装備で大丈夫か、ってな!」
笑い声がリングを取り巻き、アビヘルテはわなわなと震え、額の汗と鼻血が混じった顔をさらに紅潮させる。
「嘘をおっしゃいませんことよ!……それに、私は幼少より商いにも精を出し、交易を広げ、財力を積み立ててきたのです!」
実況席からも釘を刺すような声が入る。
「あれ?ラモレスといえば、巨額の負債を完済させたって街の経済新聞に載ってましたよね。たしか、10年ほど前に騙されて……今日は禊で来られたんじゃないんですか?」
笑い声に包まれる中、アビヘルテは憤慨して地団駄を踏む。観客のざわめきがマットに反響する。
そんな混乱の中、ようやく泡立のぼるが、ゆっくり立ち上がる。
「やっべ、まじで男として大切な何かを失うところだったぜ……」
観客席から「このバカ!早くケリをつかなさい!」や「泡立くん大丈夫?!」の声が飛ぶ。泡立はそれを聞き、肩で息をしながらも、ふっと気合を入れ直した。
一方で、ブーメラン証言が次々と突き刺さり、悪役令嬢アビヘルテの悔しさがついに爆発した。
「お黙りなさい!この私を侮辱する愚民ども……!愛も敬意も、すべては――私に捧げるのが道理ですわぁ!!」
その瞬間、彼女の瞳が妖しく光り、空気が震えた。
――チート能力【私の好意は100倍にして返せ】を検知しました。
瞬間、観客全員が一斉に立ち上がり、歓声の波を浴びせかける。
「アビヘルテ様ぁぁ!!」
「女神だ!救世主だ!」
「彼女の言う事は全てが正しい!」
「「「アービーイー! アービーイー!」」」
熱狂の渦に飲まれ、闘技場は一変した。
だが――その効果が及ばない三人がいた。
布木こぼれ、霧吹カケル、そして泡立のぼる。
霧吹のチート能力【警機と好機】の1つ。あらかじめ認知し警戒した対象からの精神的干渉を無効化する特性が、悪役令嬢のチート能力を弾き返したのだ。
当の本人は足をジタバタとさせて動揺しているか、チート能力【警機と好機】は自動的に発動。精神干渉を弾き返すたび、彼の慌てた行動が空回りするだけで、効果は確実に発動していた。
布木は顔を真っ赤にして叫ぶ。
「一瞬でも同情した私がバカだった!」
霧吹は頭を抱えて飛び跳ねる。
「自分警報っ、自分警報発令中!これは洗脳系だ、間違いない!」
泡立は呆然としながらも、観客の異様な熱狂を見渡す。
「やっぱコイツ、やべーヤツじゃん!」
リングと観客席が混乱に包まれる中、静かに一人の男が歩み出た。闇ギルドの大幹部——赤髪を結った男。咥えタバコを指で弾き落とし、冷ややかに口を開いた。
「……やはり噂の煽動者だったか」
彼は手に持つ資料から目を離し、隣に立つ高貴な青年へと差し出す。
青年は受け取ると、その内容を短く読み上げた。
「アビヘルテ=ラモレス伯爵令嬢――国家転覆の容疑により、旧王家との関与が認められた。……そのような醜聞を晒すわけには、いかないのだよ。婚約破棄は、正当な理由だ」
観客の喧騒の奥で、アビヘルテの顔色が蒼白になる。
「そ、そんな……貴方はロベルト様!わ、私はただ……これは、私の、そう! ファンですわ!」
目の前に現れた高貴な青年――それが自らの元婚約者であることに気づき、彼女は愕然とする。
「ま、間違いですの!あなたも私の味方でしょう?! そうでしょう?!」
彼に縋ろうと右往左往する姿は、先ほどまでの威厳を失っていた。
その隙に、リング上では泡立が観客から襲いかかられそうになりながらも、アビヘルテを指さして叫んだ。
「この試合まだ続行なのかよ?! 倒して良いんだよな、いいよな?!」
返事を待つまでもなく、泡立は悪役令嬢をリングの淵に突き飛ばし、金網に打ち付けられた悪役令嬢は、はじかれた反動でこちらに来る、その首めがけ大きく跳躍し――
「父ちゃんに喰らわされて覚えました決め技!ジャンピング・ネックブリーカードロップ……泡立仕立てぇえええ!!」
「ぐふぉぉおおっ?!」
アビヘルテは気絶必須の絶叫を残し、リングに叩きつけられた。強烈な衝撃が全身を駆け巡り、大の字で昏倒する。
場内に静寂が落ちた。
そして――まるで夢から覚めたように、実況席の二人が目を見開き、正気を取り戻した。
「け、決まったぁぁ! 鳥肌が、いや、大きな泡が立ちました!」
「ジャイアント泡立闘士の勝利です!!」
その宣言に、観客席は爆発的な歓声に包まれる。
布木は口をあんぐりと開け、霧吹は慌ててメモを取りながら「やばいよ、歴史的瞬間だ! 世の悪役令嬢達が真っ青な展開だ!」と叫ぶ。
リング上では、泡立が観客の歓声を一身に浴びつつ、どこか気恥ずかしそうに手を握り、腕を掲げた。
悪役令嬢のチートも、誇りも、虚飾も――すべてが笑いとともに霧散していった。
--- エピローグ ---
熱狂冷めやらぬ闘技場を離れた控室。
冷たい石床の上で、悪役令嬢アビヘルテがゆっくりと目を覚ます。
視界に入ったのは――泡立のぼる達と赤髪の男、そして無言で立ち塞がる屈強な警備員たち。
泡立たちは逃げ出すことも叶わず、ただ大人しく控えているしかなかった。
「……私、ざまぁされたのでしょうね……?」
アビヘルテは仰向けのまま鼻をすすり、自嘲気味に笑う。
「これで、私はどうなるんですの? 破門さて、断罪されて、孤独死エンド? ああ、なんてテンプレ的な……」
その呟きに、赤髪の男が口元にタバコをくわえ直し、低く笑った。
「面白いじゃないか」
――その言葉に、布木たちがビクリと肩を震わせる。
かつて自分たちが“奴隷のような生活”へと叩き落とされた時に、赤髪の男から向けられた言葉だったからだ。
布木が青ざめた顔で小声を漏らす。
「やばいわよ、あんた……! 慎重に言葉を選びなさい!」
泡立は顔をひきつらせて呟く。
「新たな犠牲者が……」
霧吹は小声で半泣きになりながら。
「やばいよ逃げてー!!」
赤髪の男は意地悪く3人へと笑みを見せた後、アビヘルテに視線を戻した。
「おまえ、見どころがあるな。……闇ギルドに入らないか?」
「ヒィィッ!!」
霧吹が情けない悲鳴を上げた。
一方、勧誘されたアビヘルテはきょとんとした顔をしてから、ぱっと目を輝かせる。
「つまり! 私のこの有能なスペック、そしてチート能力を欲していると! ふふふ、見る目があるではありませんか!」
鼻血の痕もそのままに、胸を張って叫ぶ。
「どこぞの王子もどきにギャフンと言わせてませんからね! やってやりますわー!!」
――勘違いのまま、元気を取り戻す悪役令嬢。
赤髪の男は、意味深な目をして霧吹に視線を向ける。
霧吹は秒で顔をそむけ、泡立は慌ててその前に立ちはだかり、九十度で深々とお辞儀した。
布木が霧吹の腕を掴み、「お疲れ様でしたーっ!」と声を張り上げ、2人を無理やり引っ張って控室を飛び出した。
眩しい光が廊下の先に差し込み、三人の背を後押しする。
一方、アビヘルテの足元には照明が揺れ濃い影が落ちていた。
それは、闇ギルドからの手招きであるように――これから彼女が受ける洗礼を告げる影であった。
「フフン! 闇ギルド? なんて甘美な響き!」
だが、当のアビヘルテは、胸を張って高らかに言い放つ。
「この私には栄光のスポットライト! 転生チートの成り上がりは、ここからですわよ!」
……どうやら、彼女は真の悪役令嬢なのかもしれない。
来客が勝手に蔵書を持ち出す!?
魔導書は森で昼寝している…。
迷惑だらけの世界で、幻想図書館の
外勤員ジョシュアが奔走する記録――
——空から落ちた魔導書が、物語を動かす——
『幻想のアルキヴィスタ』本編 連載中です!
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