第9話:夏の記憶が、呼んでいる
──次に目を開けたとき、しおりは自分のベッドで目が覚めた。
「……え?」
あの異世界ホログラム空間は、夢だったのか──そんな感覚。
だが、夢にしては、妙に感触がリアルすぎた。
不思議な感覚に包まれながらそのまま眠りについた。
次の日の朝。
教室のざわめきの中で、しおりはひとり、自分の席に座っていた。
まだ、あの異世界の風が頬に残っているような気がする。
現実に戻ってきたはずなのに、心だけが少し遅れているみたいだった。
机に手をそっとのばし、指先でなでる。
ちゃんと冷たくて、固くて――いつもの教室の机。
でもその感触さえ、どこか夢の続きのように思えてしまった。
「おはようユイ。今日早いな」
ユイが、となりの席から声をかける。彼女の髪も、銀髪ではなく、いつもの黒髪に戻っていた。
「……あのさ」
しおりは言った。
「昨日の、夢じゃないよね?」
「夢とは、一般的に脳の記憶と処理の──」
「そっちの定義じゃなくて!体感的に!」
ユイはきょとんと首をかしげるが、その瞳はいつもと少し違った。
どこか、遠くを見るような……記憶を探るような目。
その目を見て、しおりの胸が少しざわつく。
──あの空間で見た、写真の中の少女。
あれは、誰だったのか。
授業が始まり、生徒たちのざわめきが静まる中、しおりはノートを開きながらも集中できなかった。
脳裏にはずっと──夏の空。小さな自転車。そして、あの少女の笑顔が焼きついていた。
自分がなにか、大切なものを見落としているような──そんな焦燥感。
放課後。
「しおり、帰らないの?」
つかさが声をかけるが、しおりはカバンを抱えたまま立ち上がらなかった。
「……ちょっと、寄るとこある」
「どこ?」
「図書室。……あの写真の子が誰なのか、調べたいの」
その言葉に、ユイの背筋がピクリと動いた。
「……やめたほうがいい」
「え?」
「それは──危険かもしれない」
その声は、まるでそこに近づけば、取り返しのつかないことになるとでも言いたげだった。
その言葉には、ほんのかすかに震えが混じっていた。
しおりはユイを見た。彼女の声は、いつもの機械的なものではなく、どこか震えていた。
「何が、危険なの?」
ユイは答えなかった。
ただ、目をそらした。
「もしかして──ユイ、なにか隠してる?」
その問いに、ユイはわずかに口を開きかけ──
「おーい、何やってんだ、みんな」
教室のドアをノックもせず、ひょいと顔を出したのは高瀬カナメだった。
「なんか雰囲気が違うっていうか……集まってるの、珍しいな。夏の作戦会議か?」
「カナメ……なんで今……」
つかさがちょっと拍子抜けしたように呟く。
「いや、なんか気になってさ。ユイも来てたし。……俺も混ざっていいか?」
そう言って笑うカナメの声に、どこかいつもの調子が戻る。
つかさが苦笑まじりに肩をすくめた。
「まったく……タイミング良すぎでしょ、アンタ」
しおりは、そんな二人のやりとりを聞きながら──
胸の奥で、静かにざわめきが広がっていくのを感じていた。
──知りたい。わたしは、忘れている。何か、大事なことを。
そして、放課後。
しおりはひとり、図書館の奥へと足を踏み入れた。
普段は誰も入らない、学校の記録庫。薄暗い書庫に並ぶ古いファイル群の中から、事故報告書と記された箱を引き出す。
保管されていた過去の事故報告書の中を、一冊一冊めくっていく。
指先が紙に触れるたび、心臓の鼓動が速くなる。
やがて、ふと視線が止まったのは小学生の時の記録。
《生徒:黒野ユイ 201X年夏 転倒事故による頭部損傷》
《脳機能の大部分を喪失。後日、特例措置により研究機関の協力のもと──補助機構を用いた延命処置を実施》
《処置内容:外部AI補助による認知機能維持・行動制御装置の搭載》
《記録分類:研究対象 管理コード:KRN-YU1》
「──黒野……ユイ……?」
しおりの指先が震えた。ページの続きをめくるのが、怖かった。
けれど、目は離せなかった。
そこに記されていたのは──
あの日、すべてが始まったことを示す、忘れられた記録。
そして、しおり自身の中にあった、空白の記憶と、呼び合うものだった。
遠い夏の光景が、胸の奥で、ゆっくりとよみがえっていくようだった。