第12話:目覚めの合言葉
──学園に戻った日々。
でも、完全には戻ってこなかった。
教室の窓から差し込む春の陽射し。
黒板の文字、友達の笑い声──全部が、少しだけ遠くにある気がした。
しおりは、ユイとの距離が変わったことを感じていた。
秘密を知り、それでも受け入れると決めた。
なのに、心のどこかで引っかかっている。まるで靴の中に入った小石みたいに。
(私たち、あの日から……本当に変わってしまったんだろうか)
昼休み。
春の陽射しがやわらかく差し込む中庭を抜け、しおりは図書室からの帰り道を歩いていた。
借りた本は「青春小説大全」。なにそれ、自分の人生に必要? って感じだけど。
「そもそも青春ってなんなの。走ればいいの? 叫べばいいの? ……いや誰に聞いてんの私」
桜の花が、風にふわりと舞った。
白い校舎の壁には、花びらの影がゆらゆらと踊っている。
そんな穏やかな風景の中で、しおりは校舎を出て階段へと差しかかった。
そのときだった。
「うわっ──!」
ほんの小さな段差。ほんのわずかな油断。
靴のつま先が滑り、体が宙に浮く。
目の前の空が反転する。
桜の花びらが、逆さまに舞い上がった。
「しおりっ!」
──ドンッ!
ユイが、どこからか飛び出すようにしてしおりを抱きとめた。
「ユイ──?」
けれど、次の瞬間、ユイの背中が階段の石段に叩きつけられる音がした。
「ユイ!? ユイ!!」
腕の中でぐったりとするユイ。
しおりは、震える手でユイの頬を叩いた。
「起きて……お願い……もう、こういうの、やめてよ……!」
声が震える。
周囲のざわめきも、春風も、遠くなる。
──また、あのときみたいに。
また、ユイを──
そのとき、ふと胸の奥で何かがささやいた。
──『ゆいぽん』
小さな頃、呼んでいたあだ名。
しおりは、そっとその名を口にした。
「……ゆいぽん……」
しおりが震える声で呼ぶと、ユイのまぶたが微かに動いた。
「ったく……誰がこの俺様を、こんなに雑に扱ったんだよ……」
その声は低くて、どこか気障。そして──
「……しーちゃん?」
その呼び方に、しおりは一瞬、時が止まったような感覚になる。
(……今、しーちゃんって……)
「しーちゃんって……昔、ゆいぽんがそう呼んでたんだよ。小学校のときに──」
ユイは、ようやく目を開けて、しおりをじっと見つめた。
「ふふん。俺様を誰だと思ってる。記憶を飛ばしたくらいで、大事な名前を忘れるかっての」
その顔には、いつものユイの生意気な笑み。
「……やっぱプリンって、おやつの中で一番尊いのでは?」
「急にそこかい!!」
しおりが即座にツッコむ。
けれど、そのツッコミに――どこか、安心がにじんでいた。
周囲に人が集まりはじめていたが、しおりの世界には、今、ユイしかいなかった。
──しーちゃん。
小さな頃、たったひとりだけが呼んでくれた名前。
心のどこかに鍵をかけて、ずっと仕舞っていた宝物。
「……しーちゃん、ありがとな。思い出してくれて」
ユイは、痛みをこらえながらも、笑った。
その声は、少しだけかすれていて、
でもどこまでもあたたかくて、やっぱり、ユイだった。
しおりは、そっとその手を握り返す。
「おかえり、ゆいぽん」
桜の花びらがふたりの間を舞い、春風がふたりをやさしく包む。
──その日、しおりの心にあった小さな石ころは、音もなく消えていた。
そして、ふたりはまた、同じ時間を歩きはじめたのだった。




