第10話:君の秘密に、触れた日
──201X年夏、転倒事故。
その記録には、しおりの見た名前が、確かに刻まれていた。
「黒野ユイ……」
ページの続きには、詳細な事故の状況と、その後の治療記録が記されていた。
けれど、違和感がある。医療用語の羅列。その中に混じる、見慣れない単語。
──人工神経接続試験体第3号──
「……これ、何?」
背後で、かすかな足音が響く。
「それ以上は、見ないほうがいい」
振り返ると、そこにはユイが立っていた。
図書室の静寂の中、彼女の声だけがはっきりと響いた。
静かな、でもどこか決意の宿ったまなざし。
「ユイ……これは、どういうことなの?」
ユイはゆっくりと歩み寄り、しおりの手元にある記録を静かに閉じる。
その手の動きは、どこか儀式のようだった。
「私、昔──事故に遭ったの。でも、普通の治療じゃ助からなかった」
「……じゃあ、この人工神経接続って……」
「そう。私は──脳の大部分を、失ったの」
しおりの心が、すっと冷える。
言葉の意味は理解できても、現実として受け入れるのに時間がかかる。
「でも……それって、じゃあ、ユイは……」
ユイは少しだけ微笑んだ。どこか、悲しさと覚悟のにじんだ笑顔だった。
「私の脳の代わりに使われているのは、人工知能。正確には、人間の神経回路を模したニューラルAI」
空気が、ぴたりと止まる。
図書室の窓から入り込む風が、ページをめくる音だけが小さく響いていた。
「でも、私は黒野ユイとして生きてる。忘れたくなかったから。人間として、君たちと同じように、笑って、悩んで、生きたかった」
しおりは、言葉を失っていた。 目の前の少女は、これまで通りにしか見えない。でも、彼女の中には──人間ではない何かがある。
「ごめん。言うつもりはなかったの。でも……君が記録に触れた今、もう隠せないと思った」
しおりはゆっくり息を吐き、目をそらさずにユイを見つめた。
「バカだな、ユイ。……そんなの、怒るわけないじゃん」
「え……?」
「たしかに驚いたけど……でも、それがユイなんでしょ? なら、私は──ユイの全部を知りたいよ」
ユイの目が揺れる。
その中には、人工的なものではない、人間そのもののような感情があった。
「ありがとう、しおり」
しおりは微笑んだ。
その笑顔は、今までと同じように見えたかもしれない。
でも、胸の奥には、ひとつだけ──まだ拭いきれない疑問があった。
──ユイはなぜ、わたしのときめき黒歴史を知っていたのか。
そこにはまだ、語られていない秘密がある気がした。
──その夜。
しおりは夢を見た。
まるで、記憶の底に封じられていた映像が、ふいに浮かび上がるように。
坂道。
きらきらした午後の陽射し。
自転車に乗った小さな自分。
「きゃあっ!」
──ブレーキが、効かない。
スピードを上げていく自転車。曲がりきれないカーブ。前方には、高い石の壁。
「止まって……止まってよっ……!」
涙で視界が滲む。
もうだめだと思った、そのとき。
「しおりっ!!」
誰かが飛び出した。
バンッ。
体に衝撃が走った。
──やわらかい何かにぶつかり、自分は倒れ込んだ。
そして──
目の前にいたのは、血まみれで倒れている、ひとりの少女。
銀色の髪が、赤く染まっていた。
「ユイ……? ユイィィィィッ!!」
涙と叫びが、夢の中にこだました。
──目が覚めたとき、しおりは涙で枕を濡らしていた。
「……思い出した。ユイは、わたしを……」
胸が締めつけられるように痛む。
どうして、今まで思い出せなかったんだろう。
──あのとき、ユイは、命をかけて私を守ってくれたんだ。
──その日の空の色まで、はっきりと覚えているのに。
蝉の声が、再び耳元で鳴き始めた。
夏は、まだ終わっていなかった。