Episode:1-5『交差する運命』完
フェリシアがソファに座って落ち着いたのを確認してからヴィクトルは切り出した。
「あくまで俺の所感だが、今回の件に共犯も黒幕もいない。コーツが暴走しただけだ」
「コーツは全部本当のことを話していたと思う?」
ヴィクトルは難しい顔をした。ほんの少し間を置いて、渋々といった様子で首を縦に振る。
「ああ。誰かを庇っている可能性も誰かに君を襲うよう唆された可能性も限りなく低いと思う。偶然が悪い方向に重なった結果だ。だが、何かしらの影響は出るだろう。コーツの真意はどうあれ融和派議員の娘を魔法使いが襲ったわけだからな。情報統制をかけたところであれだけ目撃者がいたらいずれは世間に伝わる」
フェリシアは息を呑んだ。信じたくはないけれど、ヴィクトルの言うことは最もだった。ノーマンがフェリシアを狙って行動を起こした時点で、ノーマンの真意とは別の背景が出来上がってしまったのだ。見る人の立場によって作り替えられる都合のいい背景が。
それもこれも身分を隠して「呑気に」カフェ・ルナールで働いていた自分のせいで。急速に冷えていく心地のする手先に見入りながら、フェリシアは呆然と呟く。
「……魔法使いとベイラントの仲は更に悪くなってしまう?」
それはヴィクトルに尋ねたのではなくて、単なる独り言だった。かといって真正面に座っていて聞き取れないほど小さな声でもなかった。ヴィクトルは何も言わない。しかし、凝視されているような感覚はあった。フェリシアが顔を上げるのを待っているのかもしれない。
けれどその期待には応えられそうになかった。ヴィクトルに面と向かって「そうだ」と言われてしまったら、ソファから立ち上がることすらできなくなる予感がしていたから。
フェリシアにとってはとても長い時間が過ぎていた。完全に話を展開するきっかけを失っている。それは一言も発しないヴィクトルも同じなのかもしれない。表情を窺えず声も聞けなければヴィクトルが怒っているのか困っているのかも分からなかった。
そんな耳が痛くなるような静寂はフェリシアでもヴィクトルでもなく、第三者の登場によって破られた。
「ヴィクトル! オレだ」
ロウの声だった。すぐに衣擦れの音がする。ヴィクトルがソファから立ち上がったのだろう。ロウを出迎えるに違いない。
フェリシアは恐る恐るそちらを見た。心臓が一際大きく鼓動する。扉の方へ向かいながらも、ヴィクトルはフェリシアを見つめていた。一瞬躊躇したような間を置いてからヴィクトルが素っ気なく言う。
「そうなったとしても、君のせいじゃない」
「え……」
言葉に詰まるフェリシアを差し置いてヴィクトルは扉を開けた。
その先にはやはりロウが立っている。少し疲労の色が窺えた。それにどこかで見た覚えのある帽子とコートを手に持っていた。そして事務所に入るなりロウは尋ねる。
「ロスさんはどうなった? 無事か?」
室内を見回していたロウと目が合う。ロウはフェリシアを心配して、カフェで宣言した通りに事務所まで来てくれたのだ。そんな人を前に自省ばかりしてもいられない。ヴィクトルの言葉を考えるのも後回しだ。
フェリシアは大慌てでソファから離れて駆け寄った。すかさず元通りになった右手の甲を見せる。
「ロウさん! はい、無事です! ヴィクトルが治してくれました」
「そうか……良かった」
ロウは安堵の息をついた。自分の目でしっかりとフェリシアの無事を確かめる。ついでに再び眠らされたノーマンを遠目で見つつ、帽子とコートをヴィクトルへ無造作に差し出した。
「ほらこれ。席に置き忘れていっただろ」
「……ああ、そういえばそうだったな」
ロウの手から帽子とコートが浮き上がる。ノーマンやティーセットを運んだのと同じ魔法だろうか。ロウは慣れているのか特に驚くでもなく、愉快そうにヴィクトルを見ている。
帽子とコートはそのまま壁の付近のポールハンガーに引っ掛けられた。頑丈な作りのポールハンガーは全部で三つ置いてあり、それぞれに色や形状の異なる帽子とコートがしまわれている。スーツも他に何着も持っていそうだ。
服装にこだわりがあるのかもしれない。こだわりがあるのならカフェに置き忘れてこないような気もするが。フェリシアを助けるためにそれだけ必死になってくれたということだろう。
「それにしても、「ヴィクトル」だって? 短い間に随分仲良くなったんだな。お前にしては珍しいじゃないか」
「……妥協の結果だ」
ヴィクトルの顔のしかめ具合といったらすごかった。子どもが近くにいたらその迫力に泣き出していたかもしれない。しかしロウはどこ吹く風で笑顔を絶やさない。ロウはその時々の気分で対応を変えたり周囲に当たり散らしたりする人では決してなかったけれども、これほど上機嫌なロウを見るのは初めてだった。
ヴィクトルはヴィクトルで嫌そうにしてはいるが、本気で怒ってはいないだろう。ノーマンを魔法で黙らせたときは今とは比べものにならないほど怒気を帯びていたから。
とはいえ、長引かせたい話題でもなかったようでヴィクトルは早々に水をフェリシアに向けた。
「そうだ。名前といえば、ロウにも偽名について説明しておいた方がいいんじゃないか?」
「偽名? ……ああ」
皆まで言わずとも思い当たる節があったのだろう。ロウがフェリシアを見る。カフェでフェリシアを指導していたときと変わらない落ち着いた態度だった。これまでに受けた親切を思い出すほどに罪悪感も膨れ上がっていく。
しかし、ここで逃げ出すわけにはいかない。及び腰になればまたさっきのように硬直してしまう。
「ロウさん。その、私……」
フェリシアはめいっぱい深呼吸をしてから口を開いた。それに合わせるようにヴィクトルが音を立てないようにして事務所の奥へと移動していく。ロウと一対一で話せるように気を遣ってくれたのかもしれない。
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フェリシアが偽名やそうするに至った大方の経緯を打ち明けるのにそれほど時間はかからなかった。もう少しスムーズに話せていたらもっと短く終わっていただろう。
ロウの表情や態度に大きな変化はない。けれどもフェリシアの緊張は解けなかった。
「――事情は分かった」
「ずっと嘘をついていて、ごめんなさい」
そう言って深く頭を下げる。しかしすぐさま焦り声が飛んできた。
「謝らないでくれ。オレは全然気にしてない。誰にだって隠し事はあるものだろ?」
フェリシアが躊躇いつつも前を向くと、ロウは苦笑いをしていた。どことなく居心地が悪そうだ。自分がそうなるのは分かるが、どうしてロウが? フェリシアが疑問を考える間もなくロウは続けた。
「それに君には特別な事情がありそうな気がしてたからな。そんなに驚いてもいないんだ」
「……私、変なことしたり言ったりしてました?」
先ほどまでとは違う種類の汗が滲んでくる気がする。知らずしらず常識外れの言動を繰り出してしまっていたのだろうか。しかもわざわざ指摘されなかっただけで一度限りではないかもしれない。
もしかしてあのときのあのことかも、と思い浮かべるだけで顔から火が出そうだ。
「まあ、少しは? どちらかというと店長の態度がね。いつもと違ったから。店長は君の事情を知ってたんじゃないかと思うよ」
うろたえるフェリシアとは対照的にロウはゆったりとした話し口だった。「少しは」について詳細を語ってほしいような欲しくないような。それに店長についても気になった。ロウの読みはたぶん当たっている。
いくつかある候補の中から仕事の場としてカフェ・ルナールを選んだのはマルセルだった。マルセルが直接交渉したわけではないだろうが、店の責任者である店長にだけは秘密を打ち明けていたと考えるのが自然だ。
しかし、ロウが言うように店長の態度が違ったのかどうかについてはいまいちピンとこなかった。フェリシアが世間知らずなせいだろう。あとは副店長のロウだからこそ察知できる微妙な変化もあったのかもしれない。
「そう、ですか……そうですよね」
返答に窮したフェリシアの踵が無地のドアマットを鋭く抉っている。それを見かねたわけでもないだろうが、ロウは話題を転換した。
「ところで、これからはどう呼んだらいい? ロンドさん……はあまり良くないよな」
「もちろんフェリシアと呼んでください」
「え? もちろん?」
ロウは視線をあちらこちらに彷徨わせている。フェリシアが打ち明け話をしたときよりも明らかに動揺していた。そこまで困ることだろうか? 不思議に思いつつも助け船を出すつもりでフェリシアは付け加えた。
「ヴィクトルもそう呼んでますから」
「いや、でも……」
ロウは愛想笑いでごまかしつつ回答を避けている。それにフェリシアの背後へちらちらと視線を巡らせてもいるようだ。事務所のどこかにいるはずのヴィクトルを探しているに違いない。どうやら余計に困らせてしまったらしい。ロウにもフェリシアと気安く呼んでもらえれば嬉しいなという下心は確かにあった。けれどもそのためにロウを困らせたり無理させたりするのはフェリシアの望むところではない。
フェリシアさんでも何ならもうロスさんのままでもいいですロウさんの好きなように呼んでください、と早口で言いそうになったところでヴィクトルから声がかかった。
「おい。その話は後でしてくれるか?」
二人揃ってそちらを見やる。ヴィクトルはいつの間にかソファに座っていた。ロウと何となく顔を見合わせてから、ソファへと移動する。二人の間には似たり寄ったりの安堵感が漂っていた。今ここで結論を出さずに済んだことがフェリシアには有り難かった。
ソファまで歩くと、ティーカップが違うものに変わっているのに気がついた。フェリシアの隣にはロウのためと思しきティーカップも置いてある。そしてヴィクトルは素知らぬ顔で自分のティーカップを傾けている。華やかな香りがほのかに匂っていた。さっきとは種類の違うハーブティーのようだ。二人が話している間にわざわざ淹れ直してくれたのは明らかだった。
フェリシアとロウはほとんど同時にソファに腰を下ろした。すかさずティーポッドがひとりでに動き出し、空のカップにハーブティーを注いでいく。ヴィクトルはこちらを見てもいない。それにも関わらずテーブルに液体が飛んだり零れたりは一切していなかった。これは魔法使いなら誰でもできることなのだろうか。もしフェリシアに魔法が使えたとして、格好つけてヴィクトルと同じようにしたら盛大に零してしまいそうだ。
そんな栓のないことを考えつつ、フェリシアはお礼を言うタイミングを計っていた。ティーポッドが元の場所に戻った後くらいがいいだろう。しかしそれよりも早くヴィクトルが話し始めてしまった。
「ロウ、カフェはどうなった?」
真面目な話の腰を折ってまでお礼をねじ込む蛮勇は持ち合わせていない。言い損ねたお礼の言葉を口の中で転がしていると、一瞬だけヴィクトルと目が合った。どことなく満足そうだった。
まさかとは思うが、フェリシアにお礼を言わせないためにさっさとロウへと話を振ったのだろうか。だとしたらヴィクトルの観察眼は優れている。それに捻くれてもいる。
フェリシアが心遣いや親切だと感じることはやはりヴィクトルにとっては全て自分のためにやっていることで、それ故にいちいち感謝されたくないのだろうか。フェリシアからしてみれば実際にヴィクトルに助けられているしありがとうと言いたい気持ちになっているのだから、動機が利己的であるかどうかは関係ないと思ってしまうのだけれど。
しかしながら嫌がっているのに感謝を押し付けるのも違うだろうし、かといって親切にされて当然だと受け流すのも心苦しい。
「ひとまずは落ち着いたよ。怪我人も出てない」
そう答えてロウはティーカップを口に運んだ。フェリシアも同じようにティーカップへ手を伸ばした。
「魔縛庁には連絡したのか?」
「いや、魔縛は関与してない。代わりにロンド議員の関係者……マイヤーって人がやって来て店内の全員に「お願い」して帰っていったよ」
ハーブティーを味わいながら、マイヤーという名前を記憶から掘り返してみるが該当する人はいなかった。ロンド家の屋敷で働いている人ではないはずだ。出入りはしているかもしれないが。
フェリシアなりに頭を働かせている間にもヴィクトルとロウの会話は進んでいく。
「関係者? 魔法使いでもないのに動きが早いな。カフェには電話があったのか?」
「そんなものはない。すぐ外で見張ってたんじゃないか? ずっとロンドさ……フェリシアを護衛していたのかもしれない」
名前を呼ばれてつい頬が緩んでしまった。だが今はそれどころではない。フェリシアはすぐに表情を引き締めた。ティーカップをテーブルに戻しておく。
「覚えはあるか?」
「マイヤーさんは知らない。カフェの近くまで送り迎えしてもらってた人なら何人もいたけど……ずっと見られていたのは知らなかった」
フェリシアは必ず屋敷の誰かを伴って出勤していた。身の安全を考慮する上で同伴者は絶対に必要だとマルセルが譲らなかったからだ。カフェの店員に見られて不審に思われないように近くまで来たら別れるようにはしていたが、店に入るまで見守ってくれているだろうことはフェリシアにも分かっていた。しかしまさか勤務中まで続いていたとは思いも寄らなかった。
「安全を考えれば当然の措置だな。で、「お願い」ってのは何だったんだ?」
「ここで見聞きしたことは他言無用にと」
「それで素直に言うことを聞くか?」
ヴィクトルが皮肉っぽく首を傾げると、ロウは声を潜めて言った。
「もし今日の出来事が噂として流れたり新聞に載ったとしたら、不都合が生じる可能性がある……なんて続けばどうだ?」
「父が……そんな脅しを?」
マルセルが清廉潔白な人間だと主張するつもりはさらさらない。けれど、いざ後ろ暗い面を知ってしまえば裏切られたような気持ちになってしまう。陽光院議員としての権力と影響力を利用したという点では、手を回してフェリシアをカフェ・ルナールで働かせたことと性質は大して変わらないのに。マルセルは魔法使いではないが、ベイラントの権力者の一人ではあるのだ。
ヴィクトルは呆れたようにふんと鼻を鳴らした。
「それでも完全に口を塞ぐことはできない。今のお前のようにな」
「オレには役割があるからさ」
「役割?」
ロウは肩を落とした。長くため息をついてからヴィクトルを見据える。
「そうだ。……ヴィクトル、ロンド議員がお前に会って話をしたいそうだぞ。襲撃者も連れてこいと」
ヴィクトルが目を瞬かせる。それからにやりと笑った。
「伝達人か。よくそんな役を受けたな」
「元々事務所に向かうつもりだったから、ついでだよ。それにどのみちお前は議員のところへ出向くだろうと思っていたし」
他ならぬ自分のことなのにヴィクトルはどうも面白がっている様子だった。ロウは渋い顔で言い返している。ただそこまで深刻そうでもない。楽観視してもいいのだろうか?
フェリシアは手汗を密かにスカートで拭った。そして確かめるようにヴィクトルへ視線を送る。
「そうなの?」
「まあな。この件をどうするかは君のご両親に事の顛末を報告してから決めるべきだとは考えていた」
「でも……危なくはないの?」
「危ない? どういうことだ?」
フェリシアの発言にヴィクトルは首を捻っている。とぼけているわけではなさそうだ。
今回に限ってはフェリシアの考えすぎなのだろうか。マルセルの裏の顔らしきものに少し触れただけで動揺しすぎなのかもしれない。
「父が……あなたまで危険視しないかって心配で」
「ロンド議員は魔法使いとベイラントの融和を説いているんだろう? 魔法使いだからと一緒くたに扱ったりしないと思いたいね」
「うん……」
魔法使いだからとヴィクトルにも理不尽に向けられていたカフェでの暴言の数々がどうしても脳裏に浮かんでしまう。銃を取り出そうとしていた客もいたのだ。ヴィクトルが魔法で移動するのがあと少し遅ければ撃たれていたかもしれない。ヴィクトルはあのとき殺されていたかもしれないのだ。
マルセルは彼らとは違うと思いたい。フェリシアの命を救った恩人に相応しい態度で接してくれると信じたい。けれど……と続く思考をヴィクトルの不自然に明るい声が遮断した。
「あまり悪い方向に考えすぎるな。ロンド議員は君を心配してるんだ」
「オレもそう思うよ。それにヴィクトルが君を助けたってことはできる限り伝えておいたから、いきなり攻撃されたりはしないさ」
二人ともフェリシアを励まそうとしてくれていた。こういう状況に慣れていないのかヴィクトルは落ち着かない様子で片膝を上下に動かしている。これもヴィクトルは自分のためにしていることだと言い張るのだろうか? そう考えるとフェリシアはどうにもおかしくなってきてしまった。変な人。そしてそれ以上に不器用な人だ。
今思い返してみれば、フェリシアの心はこのときに決まっていたのかもしれない。
「うん……私も、父に会ったらしっかり伝える。ヴィクトルは私を襲った人とは全然違うって」
と告げた途端にヴィクトルが顔を背ける。見事なしかめ面だ。隣でロウが吹き出したのが聞こえた。
「事実だけを伝えてくれよ。あまり良い方向にばかり受け取られても困る」
「何だ。照れてるのか?」
追い打ちをかけようとしたロウの額にどこからか飛んできた紙屑が当たった。犯人は名指しするまでもない。大げさに額を摩るロウをまるきり視界から外してヴィクトルは言い返す。
「違う。無駄話は止めてさっさとロンド議員のところに……具体的にどこへ向かえばいいんだ?」
ヴィクトルがこちらを見てくるが、伝言を聞いていないフェリシアには答えようがなかった。慌てて首を横に振る。するとヴィクトルも観念したのか嫌々ながらロウを窺った。ロウは勿体ぶったりはせず、爽やかな笑顔で言った。
「黄金区にあるロンド家の屋敷に来てほしいそうだ」
「それなら私が案内できる。そういえばこの事務所はどこにあるの?」
立ち上がって事務所を見回す。ロウが来たときに扉の向こうに見えた景色は薄暗かった。日が暮れているというよりは日当たりが良くなさそうだった。もちろん見覚えはない。
ヴィクトルもソファから離れてポールハンガーまで歩いていく。それからコートを掴んだ。ロウがカフェから持ってかえってきた例のコートだった。
「黒鉄区だ。中心地には近いが、裏路地にある。黄金区までは魔法で向かうぞ。そちらの方が安全だからな。ロウ、お前も来るか?」
「遠慮しておく。オレは呼ばれてないからな。ここで留守番しておくよ」
ヴィクトルはコートを着て、帽子を被った。外出の準備が整うと作業スペースに寝かされていたノーマンを魔法で扉の近くまで引き寄せる。大の男が空中に浮いて移動するのを目の当たりにしてももうさすがに驚きはしないけれども、観察はしてしまう。ロウはそんなものには目もくれずのんびりとハーブティーを飲んでいた。
「そうか。酒はいつもの場所に置いてあるから好きに飲め」
「了解。――フェリシア、気をつけて」
「はい。ありがとう、ロウさん」
ロウは笑顔で手を振った。フェリシアも笑って挨拶をする。名前についてはあえて触れないことにした。
ヴィクトルが一歩前へと踏み出した。前と同じように浮遊するノーマンに左手で触れている。
「カフェでしたように俺の肩に手を置いてくれ」
しかし前と違って、フェリシアは動かなかった。ヴィクトルが怪訝そうに目を細める。青く光る指輪を見やってから、静かに呼びかけた。
「ヴィクトル」
「何だ?」
フェリシアの意図が読めずにヴィクトルは警戒しているようだった。少し威圧感がある。
こんな状況でとんでもないことを持ちかけようとしている。けれども頭は案外冴えていて、鼓動も不思議と穏やかだった。一気に色々なことが起こって、色々なことを考えて、結局最後に残ったのは知らないことをもっと知りたいという欲求。フェリシアをここまで連れてくることになったわがままだった。
「私をあなたの助手にしてほしい」
「は?」
結果はどうでもいい。……なんて嘘はつけないが、結果がどうなったとして後悔はしない。こう言わずにヴィクトルとの繋がりが切れてしまう方がずっと恐ろしいのだから。
フェリシアは言葉を継ぐ。浮遊していたノーマンがいきなり床へ落下したけれど気にも留めなかった。きっとヴィクトルもそうだろう。
「あなたのことをもっと知りたいから」
「…………」
ヴィクトルは愕然としたまま立ち尽くしている。魔法を使わなくてもヴィクトルを沈黙させることはできるんだ、と心のうちで呟いた。カフェ・ルナールに魔法使いはやってきた。二度目はない。だから待つのはやめる。自分から魔法使いの――ヴィクトルのところに押しかけてやるのだ。
フェリシアの運命は大きく変わろうとしている。そしてヴィクトルの運命もまた思わぬ変革を迎えようとしていた。
Episode:1 END