Episode:1-3『カースアンドクローズ』
「あれ……?」
見慣れたカフェのインテリアから見知らぬどこかの部屋へ。一瞬で景色が切り替わった。気分は悪くないし目眩もない。ただ、体験したことのない室内の眩しさにフェリシアは瞬きを繰り返した。カフェ・ルナールと違ってこの部屋には日光が射していない。天井と床、そして机に設置された照明器具はろうそくでもオイルランプでもガス灯でも電球でもない何かで、そのどれよりも明るかった。日の当たらない室内にいるとは思えない。
ここはどこなのだろう。どこかの店? 誰かの家? いや、普通じゃないこの明るさは……ヴィクトルの事務所だ。そう言っていたじゃないかとすぐに思い直す。魔法で移動するということの意味を深く考えていなかった。フェリシアが経験したことのある馬車や汽車での移動とは違うのだ。
場所から場所へ。室内から室内へ。こんな一瞬で移動してしまうなんて。しかも三人まとめて。扉や塀や鍵は魔法使いにとってはないのと同じなのだろうか?
「『カースアンドクローズ』へようこそ。適当に寛いでくれ」
と言ってヴィクトルは応接スペースらしき空間にあるソファをフェリシアに勧めた。フェリシアは素直にソファに腰を下ろしたものの、興味津々にきょろきょろと周りを見回すのは止められない。
そんな不躾な振る舞いをごまかすためといったら感じが悪いけれど、気になったことを聞いてもみた。
「『カースアンドクローズ』っていうのは事務所の名前ですか?」
「ああ」
そうやってヴィクトルから必要最低限の返事を貰いつつ、フェリシアは事務所の観察を続けた。小さなキッチンスペースが部屋の隅にあるのを発見する。ヴィクトルは特にそれを咎めるでもなく、応接スペースとカーテンで区切られた向こう側へ襲撃者を運ぶ。
あちらは作業スペースか何かだろうか。カーテンが全開になっているから中の様子がおおよそ把握できた。そして道具類や本、紙束が積まれた机とはまた別に何も物が乗っていない机があった。棚もいくつか置かれている。そして、謎の図形が描かれた床の上に襲撃者は転がされた。目覚める気配はない。
ヴィクトルが応接スペースに戻ってくる。それから真っ直ぐにフェリシアの座るソファへ歩いてきたかと思えば跪いた。
「なっ、何事ですか!?」
ヴィクトルの意図が掴めずに慌てて立ち上がる。しかしヴィクトルは床に膝をついた体勢を崩さない。首だけを動かして、両手を振り回し無意味に空を掻くフェリシアを怪訝そうに見やるだけだった。
「君にかけられた呪いを解くんだ」
簡潔な返答に、フェリシアはのろのろと再着席する。顔全体が熱を発していた。
「そ、そうですか。そうですよね。そのために来たんですもんね」
「ああ。右手を見せてくれ」
フェリシアは小さく頷いて右手を差し出す。恥ずかしくて顔は合わせられなかった。代わりに目に映ったのは手の甲の鱗だ。現金なことにもう恐怖は感じなかった。もしかしたら実際には感じているのかもしれない。
けれど、今のフェリシアには悠長に怖がっている余裕はなかった。恐怖以上に優先される感情があったのだ。知りたくてたまらない。魔法のことを。魔法使いのことを。「知っていて当然」のことを。そして、ヴィクトルのことも。
「触れても構わないか?」
ヴィクトルの手が右手に触れる直前で止まる。最終確認のようなその動きに心を温めつつ、フェリシアは更に右手を伸ばした。
「はい」
ヴィクトルがフェリシアの手の甲に触れる。冷たい指先だ。それに乾いている。
視線を少し上へずらすと、フェリシアを惹きつけたあの印章指輪があった。月日からくる汚れや細かな傷で覆われてはいるが作りや材質自体はやはり上等な品物のそれだ。カフェ・ルナールで見たときよりも深い青の光を帯び始める。
「すぐ終わるから動かないでくれ」
「……はい」
言葉少なに頷く。聞きたいことは沢山ある。けれどそれは不安だからでもヴィクトルが信用できないからでもなく、ただ知らないことを知りたいからで。つまり、質問するのはヴィクトルが呪いを解いてくれた後でもいいのだ。フェリシアは体の力を抜いた。
ヴィクトルは真剣な面持ちでフェリシアの右手を見据えていた。指輪の光が強まる。
「『解呪の魔法』」
青い光が右手を包みこんだ。温かい。フェリシアに草木の芽吹き始めた庭を照らす日差しを思い出させる温もりだった。ついつい眠気を誘われて瞼が下りていく。けれど完全に目を瞑ってしまう寸前で堪えた。手の甲の鱗に変化が起きていた。段々と小さくなるだけでなく透明になってきている。それからさほど時間のかからないうちに手の甲はすっかり元通りになっていた。
青い光が霧散し、ヴィクトルの手も離れていく。もう少しだけこのままでいたい。けれどそれを言葉にはできなかった。無事に解呪を終えたヴィクトルは立ち上がり対面のソファへと腰掛ける。
「呪いは解けた。もう心配ない」
「あ……ありがとうございました。本当に。私、どうやってお礼をしたらいいのか……」
元に戻った右手をもう片方の手で握りしめる。もう鱗が擦れる感触はしない。話さなければいけないことが多すぎて、どこから始めればいいのかフェリシアには見当がつかなかった。
そうだ。まずはお礼だ。謝礼金を支払うべきだ。命を助けてもらった対価というのは一体いくらが適正なのだろう? 金貨では足りない? 紙幣だとしたらどれ? オーブかセプターかクラウンか。フェリシア個人に扱えるのは数セプターまでだ。それで足りるだろうか?
考えとしては間違っていないが過剰になりつつあったフェリシアの思考をヴィクトルの笑み混じりの声が現実へ引き戻した。
「礼は必要ない。……と格好良く言いたいところだが、タダ働きはしないというのが俺の信条でね」
「そんなの当然です」
と言ってフェリシアはこんがらがった頭のまま直球で金額を尋ねようとした。しかしヴィクトルはそれよりも早く口を開く。
「だが、今回に限っていうとそもそも君は俺に依頼していない。俺が勝手に割り込んで余計な世話を焼いただけだ。だから礼は必要ない」
「私が助けてもらったのは事実じゃないですか」
反射的に普段よりも大きな声を出していた。そのことに驚く時間もフェリシアにはなかった。
突き放される。切り離される。フェリシアの知らない世界を知っている人との繋がりがもう切れようとしている。それに、フェリシアのためにしてくれたことを他ならぬヴィクトル自身が何でもないことのように話しているのが嫌だった。
「君の意思じゃない。少なくとも最初はな。だから気にしないでくれ」
「気にしますよ! それに……っそもそも私たちまだ自己紹介もしてないです!」
焦燥と駄々が一緒になって吐き出させた言い分に意外にもヴィクトルは反応した。
「そうだったか? ……そうだったかもな」
「そうです! 私から名乗ってもいいですか?」
前のめりのフェリシアにヴィクトルは苦笑いを浮かべる。そんなに張り切るところか? とでも思っていそうだ。しかし否とは言わず、視線をフェリシアの背後へ向けた。
「……思ったよりも話が長くなりそうだ」
ごめんなさいと零しそうになる唇をぴっちりと閉じた。ここで軽く謝るくらいなら最初から粘るべきじゃない。謝罪以外の言葉から始まる自己紹介の内容をフェリシアが必死に考えていると、視線の端をティーポットが通過していった。
見間違いかと顔を動かす。すかさずティーカップとソーサーが後に続いてくた。おまけにハーブのいい香りもした。あれよあれよという間にティーセットがテーブルに揃っている。ヴィクトルはソファに座ったまま、他に誰がいるでもないのに二人の前にお茶が準備されていった。
控えめではあるけれども印章指輪が光っているのに遅れて気がつく。ヴィクトルの表情に特別変化はない。そうだ。もちろん魔法に決まっている。ヴィクトルが次から次へと魔法を使うたびにフェリシアは驚いてしまうけれど、ヴィクトルにとってはそれが当たり前なのだ。
ヴィクトルがティーカップを手に取るのをフェリシアも真似た。鼻腔をくすぐる匂いが強まる。清涼感のある香りに蜂蜜の甘さがふんわりとまぶされていた。一口飲む。すっきりした味がとっ散らかったフェリシアの心に染みていく。カフェ・ルナールで提供したらきっと喜ばれるだろう。もう一口飲んでティーカップをテーブルに置き直した。
「――美味しいです」
「そりゃ良かった」
ヴィクトルがティーカップをソーサーに戻す。魔法ではなく自分の手を使っていた。お茶を飲むのには魔法を使わないらしい。魔法を使うのか使わないのか。一体どういう基準で決めているのだろうか。
フェリシアにまじまじと見つめられつつもヴィクトルは無言で何かを待っていた。しばらくしてから首を傾げる。
「……君の名前は?」
ハーブティーに気を取られて、先刻自分から名乗ってもいいかと訴えたのをすっかり忘れていた。フェリシアの頬は一瞬で熱くなる。羞恥心を打ち消すようにはきはきとした声で言った。
「フェリシア。フェリシア・ロンドです」
「そうか。俺はヴィクトルだ。呪いを解くのを仕事にしている」
ヴィクトルがファミリーネームを言わなかったのが少し引っかかった。けれどわざわざつつき回すことでもないだろう。言いたくない事情があるのかもしれない。そう結論付けたフェリシアはもっと気になったことを尋ねてみることにした。
「お仕事として呪いを解いていらっしゃるんですか? 先ほど依頼と仰っていたのはつまり……?」
「ああ。解呪の依頼だ」
「……私、とても幸運だったんですね。専門家があの場に居合わせてしかも助けていただけたなんて」
フェリシアが本音をこぼすと、ヴィクトルは肩を竦めた。
「幸運だったらそもそもあんな目には遭っていないと思うが……一つ聞いてもいいか?」
「はい。何でしょう?」
どんなことを聞かれるのだろう。フェリシアは居住まいを正した。
「カフェではロスと名乗ってなかったか?」
「あれは……偽名です。ロンドの名はあまり知られない方がいいだろうと……父が」
どうしても言葉尻は重くなる。どれだけ言葉を弄したところで、目的のためにマルセルの言いなりになって身分を偽っていた事実は変わらないからだ。咎められても仕方ないだろう。フェリシアは表情を暗くした。
喉を潤すためではなくその香りにささやかな安らぎを求めてティーカップを手に取る。しかし予想に反してヴィクトルはあっけらかんと言ってのけた。
「確かに。まあ、陽光院議員の娘がそこらのカフェで働いていると言われて信じる奴はそれほどいないだろうが」
ヴィクトルがあまりに気安く言うものだから、フェリシアもそちらに引っ張られた反論をしてしまう。テーブルに戻されたティーカップがカチャンと音を立てた。
「カフェ・ルナールはそこらのカフェじゃないです」
「気にするのはそこかよ? 君がどういう経緯でカフェの給仕をしてたかは重要じゃない。あいつが君の正体をどうやって知ったかだ。これまで公の場に出たことはあるか? 新聞に載ったことは?」
矢継ぎ早に問いかけてくる。ヴィクトルとしてはこちらの方が本命の質問だったようだ。フェリシアはやや圧倒されつつも答える。
「いえ、どちらもありません。父が私にはまだ早いと……」
「君の正体を知る人間は限られていたわけだな。それと襲撃した理由も気になるが……カフェで叫んでたのを聞く限りはたかが知れてる。仲間や陰で糸を引いている奴がいるかどうかを調べる方が重要だ」
ヴィクトルは目を伏せた。右の中指にはまった指輪に左手で触れているのがフェリシアの目に留まる。指輪は光っていない。魔法を使っているわけではなさそうだ。考えを巡らせるときの癖なのかもしれない。ヴィクトルの思考を邪魔しないように少しの間沈黙を保ってからフェリシアは口を開いた。
「ヴィクトルさんは巻き込まれただけなのに……調べていただけるんですか?」
青い瞳がフェリシアを捉える。呆気にとられたように数度瞬きをして、それから拳を握った。
「……ここまで来たらな。それと、言い忘れてたが、俺に畏まって話す必要はない。「さん」もつけなくていい」
ソファの背もたれに寄りかかりながら、ヴィクトルはぶっきらぼうに要望してきた。怒っているわけではなさそうだが、話を逸らしたい気持ちは伝わってくる。もしかするとフェリシアは野暮なことを言ってしまったのかもしれない。ヴィクトルが照れている可能性を思案しつつフェリシアも頼んでみることにした。
「それなら私のこともフェリシアって呼んでくれる?」
ヴィクトルが眉を寄せる。面倒なことを言い出しやがって、という気持ちが滲み出ていた。
「そもそもまだフェリシアさんともロンドさんとも呼んでいないが」
「カフェでロスさんって呼んでたから」
フェリシアが即座に言い返す。すると喋っていないのにヴィクトルの口元が微妙に動いた。舌打ちするのを我慢したのかもしれない。しばらく二人は無言で見つめあう。フェリシアがヴィクトルから一方的に睨まれている、と表現した方が正しいかもしれない。命の恩人に対してあまりに図々しいと自覚しつつも、ヴィクトルがこれまでフェリシアにしてくれたことを思えば怖くはなかった。一呼吸するごとにヴィクトルに押し勝っていっているのが感じられた。
そしてついにヴィクトルは折れた。がっくりと肩を落としている。
「分かった。フェリシア。……これでいいか?」
「ばっちり」
フェリシアは満面の笑みで頷く。ヴィクトルは鼻で笑った。