Episode:1-2『風変わりな魔法使い』
「貴様! マルセル・ロンドの娘だな! クラッグとの融和だと!? 馬鹿馬鹿しいにも程がある!」
フェリシアの反応を待たずに男は右手を前へ向ける。手には短いただの木の棒……ではなく恐らくは魔法の杖が握られていた。
その先端は間違いなくフェリシアに向けられていた。目の前の現実が瞬く間に遠ざかる。時間の流れが遅くなったように感じた。いや、フェリシアだけが進む時間についていけていないのだ。生死を分けるかもしれない数呼吸の間、生存本能はフェリシアに逃げろとひたすら訴えかけていた。それに従っていれば僅かに身を捩るくらいはできたかもしれない。けれど。
クラッグって何なの? ベイラントとは違うの? そんな場合じゃないのに気になるよ。などとフェリシアは呑気に考えているだけだった。これが最期になるかもしれないとは思い至りもせずに。
「『変魚の呪い』!」
男が聞き慣れない言葉を唱える。ほとんど同時に杖から赤黒い光が放たれて棒立ちのフェリシアを貫いた。
右手の中指から手の甲へ抓られたような痛みが走る。皮膚の内側から作り変えられる。骨をひっくり返して伸縮させて強引に形を変えられる。本来であればそんな予兆となる痛みだったがフェリシアは知る由もない。
どうして魚にならないんだと襲撃者が苛立った様子で短杖を振り回す。いつ追撃がきてもおかしくなかった。すぐさま不穏な赤黒い光が杖の先で点滅し始め、その矛先がフェリシアへ向かう。しかし当のフェリシアは指一本も動かせる状態になかった。これで死ぬのだという危機感だけがようやく追いついてきていた。
時間が遅々と流れて。流れて。流れて。現実もまたゆっくりと……フェリシア一人では手繰り寄せられない彼方まで流れていくはずだった。
「衆人環視の中で呪いをぶっ放した上にこの有様か? 俺なら恥ずかしくてとっくに逃げ出してる」
狭まりゆく視界が一瞬にしてネイビーブルーに染まる。スーツの背中だ。誰かが自分と襲撃者の間に立って庇ってくれているのだと一拍遅れて理解した。
魔法にかけられたように時間の流れが正常に戻り、現実は再びフェリシアに寄り添う。何度も何度も瞬きをする。
金髪の男性が襲撃者の前に立ち塞がっていた。どうして。どうやって。どれだけ速く走れたとしても入口から遠い席にいた男性が今この場所に立てるはずがないのに。
言いたいことと言うべきことが無数に重なり合ってフェリシアの口を塞いでいた。唇だけが無意味に動く。
「っ誰だ貴様は! 『矢の魔法』!」
襲撃者が叫ぶ。短杖の先から赤い矢のようなものが男性へ飛んでいった。先ほどの自分と同じことが男性にも起こってしまう。フェリシアは咄嗟に手を伸ばした。だがその手は男性に届かない。そんなことで男性の運命を変えられるはずもない。そもそも他人の心配をしている場合ではなかったのだ。
右手の甲が魚の鱗のようなもので覆われている。フェリシアは自らの恐ろしい変化にようやく気がついた。悲鳴になりそこねた声が喉で潰される。
一方で赤い矢が男性を傷つけることはなかった。光沢のある薄緑の膜が男性を包んだかと思えば、矢はその膜に弾かれて消えてしまったからだ。
襲撃者が充血した目を見開く。何かしらの動揺からか襲撃者は二撃目をしかけるのが遅れていた。男性はその隙を見逃さず素早く右手を掲げる。中指の印章指輪が青い光を帯びていた。神秘的な輝きにフェリシアの頭から悲惨な現状なんてものは全て抜け落ちてしまいそうになる。
「『眠りの魔法』」
と囁くと、男性の右手から細かい砂が生み出される。砂は襲撃者の顔を迅速に覆った。それ自体が意思を持っているかのような動きだ。砂を避けそこねた襲撃者の目玉がぐるんと上を向く。そして受け身を取ることもなくその場に崩れ落ちた。
フェリシアは思わず襲撃者へ駆け寄ろうとしてしてしまう。しかし男性が左手でその動きを制した。フェリシアが立ち止まったのを横目で確認してから右手を襲撃者にかざす。指輪が再び青く輝き始めた。
「『拘束魔法』」
男性がそう唱えるといきなり襲撃者の全身が真っ直ぐに伸びた。長いローブのせいで分かりにくいけれど、両手首と両足首がぴったりとくっついている。見えない縄でそれぞれきつく縛り上げられているようだった。襲撃者の瞼は閉じられている。死んでしまったのだろうか。フェリシアは肝を冷やしたが、よくよく見てみれば胸が上下に小さく動いていた。呼吸している。つまり、生きている。フェリシアはその場に座り込んだ。
様々な緊張感から一気に解放されて立っていられなくなったフェリシアとは対照的に、男性は床に転がる短杖をさっさと回収していた。更に襲撃者の近くにしゃがみ込んで何かを探っている。
「ロスさん! ヴィクトル!」
緊迫した呼び声に振り向くと、血相を変えたロウがこちらへ駆けてくるところだった。綺麗に磨かれた床が本来響かせるはずの足音は謎の喧騒にかき消されている。どうしてこんなにうるさいのだろう。ここはカフェ・ルナールなのに。そうしてフェリシアは周囲を見回した。
すると店内中の人間が立ち上がってフェリシアたちの一挙一動を注視しているではないか。いつからこの状態にあったのかは分からない。見渡す限りロウ以外の人たちは恐慌状態に陥っているようだった。
「どうして魔法使いがこんなところに! 二人も!」
「マルセル・ロンドの娘? 議員の娘がどうしてこんなところで働いているんだ!?」
「今度は私たちが襲われる! 魔法使いはただの人間のことなんて何とも思ってないんだから!」
「早く魔縛庁に通報しないと! 奴らの管轄だろう!?」
「魔縛の奴らがこんなことで出張ってくるわけないだろ! 魔法使いがやられたわけじゃないんだぞ」
人々は口々に喚いている。声の大きさ自体にもそしてその内容にもフェリシアは耳を塞ぎたくなった。これまでに感じたことのない鋭い視線まで無遠慮に突き刺さってくる。フェリシアは何もしていない。何もしていないはずなのに彼らは襲撃者だけでなくフェリシアも責めているのだろうか。
そうこうしている間にロウがフェリシアの隣で片膝をついた。気遣わしげに覗き込んでくる。
「ロスさん、大丈夫か? 怪我は?」
「だ……」
いじょうぶです。と反射的に答えかけたところで、フェリシアは口を閉じた。視線が自然と右手へ向かう。見間違いであれと祈りながら。
けれども現実は無情だった。鱗はフェリシアの手の甲に居座ったままだ。特に痛みは感じない。だからといって大した慰めにはならないけれども。
フェリシアの視線を辿ったロスも同じものを見てしまったらしい。息を呑む気配が伝わってきた。
「手が……」
「『呪い解明の魔法』」
ロウの呟きに何者かが突然割り込んでくる。続けて肌触りのいい布を頭から被せられるような感触がフェリシアを包んだ。更にほのかな熱がフェリシアの隅々まで駆け巡っていく感覚がある。その中で鱗の生えた右手では熱が上がった気がした。青い光が鱗の表面を走って消える。
これも魔法なのだろうか? 恐怖に埋められていた好奇心が懲りもせず表層まで這い上がってきているのが自分でもはっきりと分かる。残念ながら不思議な体験はあっという間に終わってしまった。
「……ああ、合ってるな。それは変魚の呪いだ」
フェリシアとロウは揃って声の主を仰いだ。そこには金髪の男性――ロウがヴィクトルと名を呼んだ人がいた。スーツの色よりも淡い青色の目がフェリシアを見下ろしている。
彼が……ヴィクトルが魔法使いなのは明らかだった。今しがたフェリシアを害した襲撃者と同じ。けれど、まったく怖くはなかった。ヴィクトルがフェリシアを守ってくれたのもまた明らかな事実だったから。
「呪われた人を魚に変えてしまう。本来であればな」
「お前なら治せるだろ?」
間髪をいれずにロウが言う。ヴィクトルは力強く頷いた。
「当然。だがここは騒がしすぎるな。それに……」
ヴィクトルは店内の様相をざっと眺める。その途中で表情が険しくなった。何を見たのだろう。フェリシアもそちらへ振り返ろうとする。しかしそれより早くヴィクトルが囁いた。
「……客の中に銃を取り出そうとしている奴がいる。俺たちがここにいる限り興奮は収まらないだろう。そこの馬鹿から聞きたいこともあるしな。安全が確保できる場所へ移動した方がいい」
「となると、お前の事務所だな?」
「そうなるな。ただ、初対面の相手と知らない場所へ移動してくれとは頼みづらい。ロスさんだったか?」
そこで突然ヴィクトルと目が合った。ロウとヴィクトルの会話を聞くのに集中していたせいで急に話を振られても対応できない。フェリシアは慌てて言葉を探しつつ、とりあえず自分自身を指差して首を傾げた。――私があなたと一緒にあなたの事務所に行くってことですよね?
フェリシアの身振り手振りから何かを読み取ったヴィクトルが言葉を継ぐ前にロウが「ロスさん」と優しく語りかけてくる。ロウの表情はやや硬い。けれども、フェリシアを安心させるために努めて笑顔に近づけようとしてくれていた。
「ヴィクトルと場所を移ってくれ。オレは後始末があるから一緒には行けない。すまない。不安で仕方ないだろうけど、ヴィクトルはオレの友人だ。信頼できる。絶対に君を治してくれるから」
ロウはこれまでと同じように心からフェリシアを心配してくれている。しかし今回それよりも強く感じたのは、ヴィクトルを信じてほしいという切望だった。
一瞬だけヴィクトルを盗み見る。ヴィクトルは苦笑していた。困っているようだった。今の状況にか、それともロウがヴィクトルへ寄せる信頼の強さにか。後者だとしたら寂しい。フェリシアは無責任にそう思った。
「あいつらは何を話してるんだ? どうしてあの魔法使いは出ていかない? 何が目的なんだ!?」
「皆様、少し心を落ち着けて……」
「私たちを皆殺しにするつもりか? いつかこの日が来ると思ってたよ!」
「どうせ殺されるのなら先にやってやるしか……!」
そうしている間にも店内の騒ぎは混迷を極めていく。目下の脅威だった襲撃者が無力化された今、人々には僅かに余裕が戻ってきている。しかしこの場にはヴィクトルがまだ残っているのだ。何をしでかすか分からないもう一人の魔法使いが平然と立っている。
でもその魔法使いはフェリシアを守ってくれた人だ。人々が恐れる魔法で、フェリシアを助けようとしてくれている人だ。それなのにどうして彼まで悪く言われているのだろう。これも自分が彼らと違って「知っていて当然」のことを知らないせいなのだろうか。だとしてもフェリシアは納得がいかなかった。
ロウが舌打ちをする。フェリシアを人々から庇うようにしつつ一緒に立ち上がらせた。それからヴィクトルに訴える。
「このままだと人間同士で殺し合いになるぞ。とにかくすぐにここから出た方がいい。お前の事務所に移動するかどうかはその後で……」
「行きます」
フェリシアは堂々と宣言した。するとロウとヴィクトルが揃って唖然としたので思わず笑ってしまった。
「え?」
「何だと?」
ヴィクトルの目の前へ足を踏み出す。困惑を隠しもしていないからせっかくの端正な顔が少し間抜けに映っていた。
「あなたは私を助けてくれました。それにロウさんのご友人なんですよね? 信じます。事務所に連れていってください」
そう言ってフェリシアは頭を下げた。間をあけて再びヴィクトルと向かい合う。ヴィクトルは目を細めていた。不可解なものを遠巻きにして眺めているようだ。まさか魔法使いからそんなふうに見られるだなんて。フェリシアは笑い声を上げたくなった。
カフェ・ルナールに魔法使いはやってくる。今朝の自分にそう教えたら、果たして信じただろうか?
「君は変わり者だ」
とだけ返して、ヴィクトルはフェリシアの背後にいるロウと視線だけで意思疎通をしたらしかった。フェリシアが振り向くとロウが笑いかけてくる。
「ここが片付いたら、オレもそっちに行くから」
そして、フェリシアの答えを待たずにロウは立ち去った。どうやってこの騒ぎを鎮めるのだろう。興味もあるがそれ以上にロウが心配だった。けれども、今は自分の心配をするべきだろう。きっとロウもそう言うはずだ。
フェリシアが心の整理をつけたのを見計らったのかは分からないが、絶妙のタイミングでヴィクトルが声をかけてきた。例の印章指輪が光っている。襲撃者の体が空中に浮かびヴィクトルへと引き寄せられていく。不思議だけれど気が抜ける光景でもあった。
「俺の肩に手を置いてくれ。今から移動のために魔法を使うんだが、そのためには俺に触れている必要がある。嫌かもしれないが一瞬だから我慢してくれ」
嫌かもしれないが、の「いや」の段階でフェリシアはヴィクトルの肩に手を乗せていた。ヴィクトルはやはり奇異なものを見る目をフェリシアの手に向けつつも、一応は最後まで言いたいことを言ってのけた。
襲撃者が宙に浮いたままヴィクトルの左手に接触する。ヴィクトルは目を閉じ、低い声で唱えた。
「『複数転移魔法』」