Episode:1-1『知りたがりのお嬢様』
カフェ・ルナールに魔法使いはやってこない。フェリシアは俯いた。
「またお越しくださいませ」
フェリシアの一礼に合わせて扉のベルが軽快な音を立てる。出ていく客を見送りフェリシアは店内を眺めた。窓越しに入ってくる柔らかな光が店の隅々まで明るい雰囲気にしている。席はそれなりに埋まっているが騒がしくも忙しなくもない。
どの客も香り高い茶と軽食やデザートをお供にゆったりと流れる時間を楽しんでいる。フェリシアが働き出してからまだ二季ほどしか過ぎていないのに、すっかり見慣れた風景になってしまった。
この店は黒鉄地区の中でもかなり治安の良い場所に位置している。フェリシアの感覚としてはほとんど黄金地区と変わらないくらいだ。だからだろうか、フェリシアが接したことのないような柄の悪い人はいなかった。店員も新入りのフェリシアに親切に接してくれた。
特に副店長のロウ・ハウレンは彼らの常識からずれた反応をしがちなフェリシアを根気強く指導してくれている。とても恵まれた環境で過ごせている。だというのにフェリシアは落胆を繰り返していたのだ。
カフェ・ルナールに魔法使いはやってこない。何故ならここはフェリシアのように魔法を使えない人――ベイラント――の集う場所だからだ。瀟洒なカフェに憩いを求めてやってくる人たちは魔法使いへの不満を怒鳴り散らしたりはしない。魔法使いについて親しげに語ることもない。微笑と共に交わされる囁きはフェリシアの耳に届くには小さすぎる。
彼らが魔法使いについてどう思っているのか、その糸口すら掴めていない。店員同士の世間話で「知っていて当然」の疑問を口にして奇異の目で見られるのを五回繰り返してフェリシアは迷ってしまった。
ベイラントと魔法使いは共存できる。これまでも、これからも。父の――マルセルの言葉は真実なのか?
フェリシアの限られた世界では分からなかった。街の空を仰げば魔法使いが飛んでいる姿が見られるのに、フェリシアは彼らと一度も話したことがない。優しい父に疑念を抱くのに疲れてもいた。この街の住人として知っていて当たり前のことを知りたかった。だからわがままを押し通して、色々な人に迷惑をかけてまでカフェ・ルナールで働き始めたのに。
けれど、結局のところカフェ・ルナールはフェリシアの父親が根回しをして用意をした場所だ。フェリシアの知りたいことは存在しないか、うまく隠されているかもしれないとは考えたことはあった。
この状況はそのどちらに当たるのだろう。フェリシアがもう少し賢ければ、もう少し勇気が足りていたら真実の一端に触れられるかもしれないのに。最初にいた場所からほんの僅かに進んだきり足踏みを続けている。
でも今日は違っていた。何かが起こる気がした。項を逆さに撫でていく予感が、いいものなのか悪いものなのかは分からないけれど。
フェリシアは店内を見回すふりをしながら一人の男性を観察する。フェリシア自身が席に案内し注文を取った男性のテーブルの上にはセレーネティーとウルフクッキーが並んでいた。見慣れた風景の中で男性の金髪碧眼、青白い肌にネイビーブルーの三つ揃えスーツが際立って見える。同じような格好をした人は他にもいるのに、あの男性だけがフェリシアの好奇心を刺激していた。
どうしてだろう。フェリシアは改めて考える。周囲の人と違ってどこか緊張感のある佇まいでいるからだろうか。帽子を取りコートを脱いだ男性はフェリシアが席に案内したときよりも寛いだ格好になっているはずなのに相変わらず窮屈そうだ。
男性は狼の足形をした小ぶりなクッキーを手に取ると二口で食べた。続けてティーカップを傾ける。表情から読み取るのは難しいけれども、お茶もクッキーも順調に減っているのだから嫌いではないのだろう。
中指の印章指輪に再び目が留まる。あれもフェリシアの好奇心を刺激した一因かもしれない。一見するとただの古ぼけた指輪だ。銀貨三枚で売られていたとしても買う人はいないかもしれない。けれど、優れた職人にしか施せない立派な紋章と繊細な細工がシンプルな指輪に見過ごせない存在感を与えていた。かつては貴人の指を堂々と飾っていたはずだ。では今の持ち主である男性は一体何者なのだろう?
フェリシアは男性を観察するのに熱中しすぎていたのかもしれない。背後から足音を立てて人が歩いてきているのにまったく意識していなかった。そのせいで声をかけられたときに跳び上がりそうになるくらい驚いてしまったのだ。
「ロスさん。何を熱心に眺めてるんだ?」
かつてない速さで振り返る。首は痛めずに済んだ。けれども、声の主と顔を合わせるのが気恥ずかしくてぎこちない動きになってしまう。そこには副店長のロウ・ハウレンが立っていた。
「えっ! ……っと、な、何も……?」
「何もって感じじゃなかったけどな」
ロウは小さく笑ってから更に声を潜めて尋ねてくる。
「お客様と揉め事でも? 何かされたのか?」
琥珀色の目が真っ直ぐにフェリシアを捉えていた。偽りなく心配してくれているのが伝わるほどにフェリシアの恥は積み重なっていく。仕事中に自分は一体何をしていたのだろう。
「い、いえ。何も起きていないですし、何もされていません」
左右に激しく首を振りながら答える。本心を語っているのだが、挙動が不自然なだけに嘘をついていると判断されてもおかしくはなかった。しかし、ロウは納得してくれたらしい。それならいいが、と片足を半歩後ろに下げる。
これで会話には一区切りついたといってもおかしくはないのかもしれないけれど、それだけでは不誠実だろう。フェリシアは口早に続けた。
「その、ただ、私が勝手に気になって見ていただけなんです。申し訳ありません……」
「気になって? 誰をだ?」
ロウは怒りもせずに先ほどフェリシアが視線を向けていた方向を見渡した。ここで今更返答を濁したところで仕方がないだろう。フェリシアは腹をくくって答える。ただし声は耳を澄ましていても聞き取れるかどうか微妙なくらいに小さかった。
「あちらの席の……ネイビーブルーのスーツを着られているお客様です」
フェリシアの言葉に従ってロウがそちらを見る。件の男性がティーカップをソーサーに戻しているところだった。ロウの口の端が上がる。目尻に皺がかすかに浮かび上がる。
たったそれだけでフェリシアの知る副店長のロウ・ハウレンからただのロウ・ハウレンという人に変わっていた。あの男性とロウは間違いなく知り合いだ。ロウの反応からして、きっと知人以上の関係だろう。
フェリシアは期待に胸が高鳴るのをはっきりと感じていた。カフェ・ルナールで働き始めて初めて興味を惹かれた人がまさか上司と関わりがあるだなんて。もしかしたらロウを通じてあの男性と話ができるかもしれない。どうして彼だけが気になって仕方がないのか、話をしたらその理由が分かるかもしれない。ロウが認めているのならどういう性格であれ信頼できる人なのだろうという確信もあった。
「……来てたのか。いつぶりだか」
独り言にも喜びと親しみが滲んでいる。フェリシアははやる気持ちを抑えながら尋ねた。
「お知り合いですか?」
「ああ。友人だ」
願った通りの返答にフェリシアは深く息を吸い込む。一旦落ち着くためであるし、言葉を選ぶ間を作るためでもあった。けれど、その僅かな空白の時間に厨房からロウへ呼び出しがかかってしまった。すまない、行かないととフェリシアに断ってロウは踵を返す。どちらも仕事中の今、フェリシアの都合でロウを引き留められるはずがない。
今度時間があるときに聞いてみればいい。一瞬にして萎んだ心をそうやって宥めつつ厨房へ消えていくロウの背中を見送る。
それからすぐにカラン、と来店を告げるベルが鳴った。フェリシアはさっと気持ちを切り替えて客を出迎える。入ってきたのは足首まで届きそうなローブを着た男だった。黒一色のローブの裾は埃か土かで汚れている。フードを被らずむき出しの顔は赤らんでいて、後ろ手を組みながら体を不安定に左へ右へと揺らしていた。
挙動不審であっても、酒に酔っている様子であっても、絵に描いたような魔法使いらしき人物の登場に今日でなければフェリシアは心を躍らせていたかもしれない。
男は立ち尽くすフェリシアを睨みつけて大声で叫んだ。
「貴様! マルセル・ロンドの娘だな! クラッグとの融和だと!? 馬鹿馬鹿しいにも程がある!」