第二章 新しい日常へ 1
「じゃあ、とりあえず水をいただける?」アームチェアに腰掛けた文旦が言った。私はそれに応じず、自分いる部屋を見回す。ベッドにはファンシーな、くまの人形。木製の勉強机には参考書が並び、机上には目覚まし時計。私が今座っている床には、幾何学模様の絨毯が敷いてある。
お分かりの通り、私たち――つまり柏原せとかと文旦は、絶体絶命の状況を無事切り抜けたわけだ。
文旦は軽やかに飛び、時には跳ね、一流のマラソンランナーのように疾走した。彼のパルクール能力は完全なる忍者だった(よく想像するあの忍者である。人間の動きではない)が、今は一旦置いておこう。
言ってしまえば、私達は柏原家にいた。
「なんで?」
「え、いや、当たり前じゃない?」文旦は人のいい笑顔を作る。
「だって特に行くところもないしさ」
「行くところがないと私の家なの?そしてなんで私の家知ってるの?」
「知ってるからとしか言いようがないよね」そう言って彼は、さも当然そうに頷く。コイツ、いちいちムカつくなあ……。
「ああ、もう!わかったわ。で、ここで何するの?」
私は髪をかきあげる。癖だった。彼はすこし間を置いてから、言葉を発する。
「いや、何もしないし、できない。この家に拳銃や、ロケットランチャーがあるなら別だけど。ここに来たのは、君が寂しいだろうと思ったからだ」
「家に戻ることは、これから先、ないからね」
私は気づく。その言葉は「これから先の人生」を含んでいる。もう後戻りは出来ないのだと。
「わかってるよ。全部わかってるよ。大丈夫、特に特別でもない毎日だったし……」そう言って深呼吸する。胸から迫り上がってくるものを押さえつけようとして、また、口を開ける。
「ぬいぐるみはレディメイドだし」
「参考書はよく売ってる赤本だし」
「絨毯だって、上等なものじゃない」それに、と言いかけた私に、文旦は言う。
「そうだね」と、一言だけ。
くまのビーちゃんに、使い込まれて日焼けして、薄ピンクの赤本。ひとつずつ正方形が塗り分けられ敷き詰められている、カラフルな絨毯。なんで走馬灯に何も流れなかったんだろうなあ。私はため息をつく。
「そうだよ、私はこの家が大好きだよ」
彼はニカっと笑う。「よくできました」。
「君はそうやって、ひとつずつ整理していかなければならない――やがて、君自身を定義できるようにね」彼はよくわからないことを言った。
「私は私でしょ?」
「まあ、ね」彼はミステリアスに笑う。どうせ、全てを私に教えるつもりはないのだろう。
「いいわ。でも、今日一日はここで休憩でしょ?」
「?そうだよ」彼は唐突な質問に戸惑いつつ答える。私は、それにすこしの優越感を感じながら、続けた。
「じゃあ、ババ抜きしましょう」
「はい?」
「神経衰弱もね。あと、ウノもしましょう」
理解したらしい彼が、また人懐っこい笑顔を見せる。
「いいね、実は来る前に覚えて来たんだ」
それから私達は、夜が更けるまでゲームに興じたのだった。