第一章 「日常」は突如終わりを告げて 1
え?なぜ?明らかに前後左右(?)の文脈が合致してない。私は善良で凡庸な一市民であって、かのようななんとも怪しげな人とは親交の「し」の字もないわけで……。
私が混乱していると、男は「大丈夫?」とでも言わんばかりの目でこちらを見てくる。やめて、そんな子犬みたいな目で私を見ないで……訳が分からなくなってきた。そもそも、この人は誰。まったく知らない。さっき道端で会って、なんか見下ろされてて、なんか死神っぽさ全開だったからつい口が滑って……。ああ、もう。私が混乱して傘を落としたのを気遣って、あなたの傘に入れてくれなくてもいいから。ポッケからシルクのハンカチ取り出して、呆然としてる私を拭いてくれなくていいからあ。
私の感情(色々)はごちゃまぜになって最高潮に達し、とうとうこんな言葉が口をついて出た。
「と、と、とりあえず、か、カフェにでも」ろれつが回らないし、顔はたぶん真っ赤っかだろう。私は恥ずかしくてうつむく。でも、ここでこの人と長話するってわけにもいかないから、傘をさして歩きだしたのだった。
「ブラックコーヒーと、カフェオレになります」ウェイトレスはそう言って銀色のトレーから机に二つ、カップを移した。ごゆっくり、とウェイトレスが立ち去ると、いよいよ二人きりになる。それから、ちょっとばかしの沈黙。お互いストローをくわえながら、相手をちらちらと見やる。冷たい飲み物でだんだん顔のほてりが取れていくと、今度は冷静な疑問がわいてくる。なにせ、私はこの人のことを何も知らないわけだから。もう何度か目は合っていたが、意を決して話しかける。
「あなたの名前はなんですか?」男はストローから口を離して、何回か目を瞬かせた。思わせぶりな表情だ。難問を前にした数学者ふうにまゆをひそめ、くびをかしげて、わざとらしく手をあごにもっていった。彼の表情は真剣そのもので、見ている私も思わず息をのむ。いったいこれから、どんな重大告白がなされようとしているのだろうか。なんだ、なんなんだ一体。彼はひとつため息をついたあと、口を開く――。
「君は?」
「疑問に疑問で返さないでください」
男は私の返答に、満面の笑みで応えた。なんだろう、うきうきしてたまらないといった様子だ。
「いいね。その芯の強そうな眼。まるで芯のこしにゆでたパスタみたいだ。ちなみに、ぼくは硬麺派だよ」と何の脈絡もないことを口走った。
「いいだろう、答えよう。ぼくの名前は、文旦。すっぱくてあまくてフルーティなね。じゃあ、君は?」そういってぐいっと顔をこっちに近づけてくるのだからまいってしまう。あなたの体格でそれをやられると、視界が覆いつくされてすごい圧迫を感じるのよ。私はつい、答える。
「柏原せとか……ですけど」
「なんてことだ!ぼくが文旦で君がせとか!柑橘類だね、運命を感じずにはいられないよ」
「やっぱりナンパじゃねえか」黒のフォーマルなスーツを着ているせいでちぐはぐだが、彼はかなりのお調子者であるらしい。常になにかを面白がっていて、それをさらに面白くするために行動する。口数も多いし……ただ、どことなく会話のキャッチボールが下手だが。
私は言う。
「それで、ご用件は?私、この後塾あるんですけど」
「ずいぶんざっくばらんに話すじゃないか、きみ。もっと敬ってくれてもいいんだよ?」
「はぐらかさないでください」
男はふと、真剣な表情になる。先刻見せた表情とは一段上の、こちらの目をまっすぐ見据えた表情だ。私は彼の視線に射抜かれるみたいに、体をこわばらせた。
「単刀直入に言おう」
「君は命を狙われている」その刹那、轟音が店内に響いた。私の左、窓ガラスが破砕して私に降り注いでくる。皆一様に、その尖った先端を私のもとに向けて。