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苦手な方はご注意ください。

境界より

作者: れ洛

「もうすぐ「迎霊祭(けいれいさい)」だね!」

帰り道、彼杵思聞が隣の宮園阿貴にそう言った。

「うん、そうだねー」

阿貴はスマホ片手に適当に素っ気なく言葉を返す。隣の友人はそんな事気にせずに話し続けた。

「ウチはもう準備してるよ。阿貴ん家は何かするの?」

「お母さんとおばあちゃんはするんじゃない?私は...そんな人いないし。」

「でも、迎霊祭で迎える霊は人に限らず動物でもいいみたいよ。」

「犬も猫も飼った事はないわ。」


T字路に差し掛かり、二人はそこで別れた。カーカーカーカーと電柱に止まっている何羽ものカラスが鳴いている。

「うるさいなぁ...」

イヤホンを取り出して音楽を流す。多少の気休めにはなっただろう。

そのまま大通りに出て、薄汚いコンビニの前を通り過ぎた。赤信号で立ち止まり、スマホを触りながら青になるのを待った。

「カッコーカッコー」と青信号になった事を告げる音が聞こえ、スマホから目を離したその時だった。

「なに、あれ」

横断歩道のちょうど真ん中、そこにいた黒いズボンと白いシャツに青いセーターベストを着た男。雨は降っていないはずなのにずぶ濡れで、その場に立ち尽くしている。周りの人は気にする事なく横断歩道を歩いている。何かの撮影かと思いあたりを見渡すも、それらしい人物は見つからなかった。

「写真撮ろ」

カメラのアプリを起動させ、スマホをかざした。けれど、そこには自転車を漕ぐ学生、大急ぎで走るサラリーマンしか写っていない。もう一度自分の目で確認してみると、その人物はもうどこにもいなかった。

「あれ...?」

「嬢ちゃん、大丈夫かい?」

隣に立っていた腰の曲がった老人が、阿貴のそう尋ねる。一瞬、さっき見たことを話そうかと思ったがやめておいた。




「ただいまー」

玄関扉を開いて家の中に入る。「おかえり」と台所の方から声がした。祖母の声だ。

自分の部屋に戻ると今まで感じてこなかった疲れを感じた。カバンを適当に放ってはベットに仰向けになる。

気がついた時にはまたスマホを触っていた。友人からのメール、SNSを見て、一瞬さっきの出来事が載っていないかと思い検索してみたが見つからなかった。

階下へ下ると油がはねるジューッと何かを焼く音とテレビの音が聞こえた。味噌の香ばしい匂いがリビングを支配している。リビングにあるソファに深く腰掛けるとリモコンを手に取った。

『次のニュースです。今日未明、時鳴市で男女二人の遺体が発見されました。現場は市内にある公園で、遺体に外傷はなく警察は...』

アナウンサーが言い終わってしまう前に阿貴はリモコンを操作してチャンネルを変えた。今の時間帯、どこもニュースしかやっておらず固い機械的な声が台本を読んでいる。やがてチャンネルを変える事を諦め、元のローカルニュース番組に戻した。

「阿貴ちゃんがニュース見てるなんて珍しいわねぇ。」

「何もなかったのよ。ぜーんぶニュース。」

何も載っていない綺麗なお皿を両手に持ち祖母がそう尋ねた。阿貴は無愛想に返す。

『彼誰地区ではもうすぐ「迎霊祭」を迎えます。「迎霊祭」は亡くなってしまった大切な人の霊が帰って来るという日であり、彼誰地区の人々にとって重要なお祭りで鎌倉時代から続いています。先祖を迎えるお盆と違い、「迎霊祭」は「大切な人」や「飼っていたペット」と生前と変わらない日常を過ごす、というものです。』

今度は抑揚のある明るい声で日に日に近づいてくる「迎霊祭」についてアナウンサーは喋っている。次の場面ではリポーターの中継が写った。インタビューを受けているのは彼誰地区の自治会長を務めている初老の男性、丸山輝明だった。

『どんな人にだって大切な人は必ず存在します。私は、5年前に亡くなった妻とまた何気ない会話、変わる事のない町の景色を共に見て過ごしたいのです。市外からやってこられた人にとっては阿呆らしく見えるかもしれませんが「迎霊祭」は私共にとって大切な1日なのです。』

すると、ピンポーンとインターホンが鳴った。誰かが来たようだ。

「あら、誰かしら。阿貴ちゃん代わりに出てくれる?」

「はーい」

ソファから身を起こし玄関へと向かう。

「こんばんは。」

「私智さん。こんばんは。どうしたの?」

来城私智。彼は近くに住む来年で30になるサラリーマン。大手企業勤めのエリートらしい。阿貴は小学生の時から知っていた。そして月に1回あるかないか彼は家にやってくる。何故やって来るかはわからない。でもきっと母子家庭の阿貴の家を心配しての事だった。

「あら私智君、いらっしゃい」

私智と一緒にリビングまで行くと祖母も迎えでた。

「お邪魔します。...あ、あの花、そういえばもうすぐ「迎霊祭」ですね。」

私智も思聞と同じ事を言った。

「えぇえぇ、私は主人と亡くなった私の姉を迎えるんですよ。あの花も主人と姉が好きだった花でねぇ。私智君は今年もお祖父様とお祖母様を?」

「はい。それに飼っていた愛犬が今年の夏に亡くなって...」

「まぁ、それは....」

聞いてはいけない事を聞いてしまったと思わんばかりに祖母はしゅんと顔を下げ声のトーンを落とす。

「いえいえ。「迎霊祭」で誰を迎えるかなんて毎年のように皆言うんですから落ち込まないで下さい。阿貴ちゃんは?誰か迎えるの?」

突然話を振られて阿貴は大きく動揺した。何せいつもの事だし聞かれないだろうと思っていたからだ。

「え、いや、誰もいないわ。そんな人いないし。」

そっか、と聞いたにも関わらずあまり大きな反応もしなかった。ふと阿貴の頭の中であの時の出来事が再び名乗りをあげる。不思議とこの事を話してみよう、そう思った。

「あのさ...実はね...」

それは交差点の丁度真ん中で、一人ずぶ濡れだった男。誰もその男に目もくれず、交差点を渡り歩いたあの場面。ゲームでよく見るワープでもしたかのようにパッと消えたあの一瞬。

「...って事があったんだけど...」

言い終わる前に阿貴は二人の顔を見た。祖母は青白い顔をして、私智は鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしている。

どうしたの、と声をかけると私智はハッとした顔を見せた。

「ううん、何でもない。いやーしかし見てみたかったなーそのずぶ濡れの男ー。一瞬で消えたんだって?阿貴ちゃんは面白いものを見たねー。」

と笑っている。何か隠し事をしているのは明らかだった。

問い詰めようとしたものの運悪く母親の「ただいまー」という声が聞こえてやめてしまった。

「喜美子さんが帰って来たわ。晩御飯にしましょうかね。私智君も食べていきなさい。」

「本当ですか?嬉しいなぁ。あ、手伝いますよ。」

楽しそうに話していた二人が台所へ入ったと同時にリビングに母親が入ってきた。少しやつれた顔、その反面、肩まである黒い髪は艶を失ってはいなかった。阿貴はただ一言「おかえり」と言っただけだった。


夕飯はご飯と味噌汁と鰤の照り焼きだった。粒たちの良いご飯と、味噌の味をしっかり染み込ませた短冊切りの油揚げ、テーブルを照らす光によって輝くタレを纏った鰤の切り身。どれも格別に美味しかった。阿貴はご飯と味噌汁を2回おかわりした。

夜の10時を回った時の事。明日の予習や課題を片付け、寝る前の習慣となった一杯の水を飲む為に下へ降りた。

リビングへ通じるドアは閉じられていたがすりガラスの先はぼんやりと光っていた。

「...あの日からもうそんなに経つのね....」

祖母の声が聞こえた。夕飯時と違って重くて、井戸の中を覗き込んでいるかのような暗い声だった。

「会うことは、無いと思っているわ...でも、もしも出会ってしまったら...今度こそ、守らなくちゃ...何があっても...だから、その時は。」

「大丈夫です。俺が守りますから。それが、約束でしたし...。」

続いて震えるような母の声とまだ帰っていなかった私智の力強い声が聞こえた。

守る?約束?

どんな約束なの?誰と約束したの?

そもそも

あの日って一体いつの事?

このドアを開けて今すぐにでも聞きに行こうと考えた。目の前にあるドアノブを回せば知る事ができる。でも阿貴にはその自信がなかった。なぜなら、その目の前にある真実がもしも悪いものであったのなら。それを思うと怖くてしょうがなかった。

結局、小学校6年生から続けていた水を飲む習慣を実行する事はできず、そのまま眠りについた。


 その夢は、言葉に表すには筆舌に尽くし難い夢だった。見た事のない夢だった。

そこは廃れた神社の境内で、カビと崩れかかった小さな本殿があった。その後ろには大きくて幹の太い御神木がある。

そこには一人の人間がいた。その足元にはよく分からない魔法陣のようなものが敷かれてある。

「其は...大な.......者...き...より這い....て赤き...の座....ん.......ドゥ...エラ....ル...たれ...女よ....は....奉る...」

その低いしゃがれた声で男だとわかった。何か呪文を唱えているが細かいところまでは聞き取る事はできなかった。

この声、どこかで聞いたような。それも一度や二度じゃない。何度も。

すると男の足元の魔法陣が赤く光り輝いた。決して気持ちの良いものではなく、重苦しくて気持ちの悪いものだった。辺りを生ぬるい風が吹き荒れる。

その時、視界がぐにゃりと歪んで背景のみぼやけた。ピントがずれたような、そんな感じ。最後に視界にハッキリと映ったのは。そうだ、その目に映ったのは、あれは___、生まれてまもない赤子だった。そして耳元でハッキリと。

「あぁ、失敗だ。いつになったら私はお前に会えるんだ...。」




目覚めは悪かった。そのせいで寝巻きに味噌汁をこぼす、間違えて音楽室に行ってしまう、2回もうっかり階段を一段踏み外しそうになる、散々な目にあった。

「そういや俺ん家の隣の婆さんのとこから猫が居なくなったんだよ。」

「またか?最近多いよな。3日前に高橋の家から犬がいなくなったり一週間前には、近くの小学校のウサギが一匹残らずいなくなったって」

「なんだか最近、物騒になったよなぁ。」



学校帰り、今日は一人だった。住宅街なのに、人の気配は微塵も感じない。カラスもいない。今朝も通った道なのに、静かで不気味な雰囲気を醸し出していた。嫌な感じがする。

すると、向かいの方からフラフラと歩くスーツ姿の人物に目がいった。猫背で下をずっと向いていたから顔は見えない。ウーウーと小さな唸り声を上げていて、涙だろうか何かが滴り落ちている。

阿貴は少し気になりながらもその男を見た。

男はその事に気づきゆっくりと彼女の方を向いた。そして阿貴は、見てしまった事を心底後悔した。

顔の形を留めておらず顔の右側はグシャリと潰れていた。右目はなく大量に出血していてそれが首を伝って白いシャツを真っ赤に染めあげている。この人は生きている人じゃない。直感でそう感じた。

すぐさまその場から逃げようとしたが、両足は氷のように動かない。

「あぁ、あぁ、あぁ、ちょうどいい、貸してくれ、君の体、貸してくれ、後で返すからさぁ、貸してくれ、貸してくれ、貸してくれ、お前の体!なぁ、なぁ、なぁ!」

左足を見ればグニャリと捩れ踵が前を向いている。阿貴の方へ伸ばす右腕の手首からは血に濡れた骨が突き出ている。

「ひ、い___」

ようやく足が動けるようになった時、彼女は一目散に逃げ出した。「待て、待て」と引き留める声が聞こえる。それでも足を止める事はしなかった。右へ左へまた左へ、一心不乱に走り続ける。気がつけば、近所にある空き家の前で立ち止まっていた。

「何なのよ...あれ...」

まだ少しだけ残っていた水筒のお茶を飲み干した。息を整える。

「おい」

その瞬間体が恐怖で震え上がる。今度はすぐに足が動いた。

「あ、おい、ちょっと待て!」

「誰か待つもんですか!」

「話しがしたいんだ。だから...」

その男の声を聞いて、阿貴は立ち止まってしまった。何故そうしたのかは分からない。だが、その声には聞き覚えがあった。懐かしくて、心を落ち着かせる声だった。

振り向くと、あの男がいた。ずぶ濡れの男が。今ならハッキリ青白い顔が見える。真っ黒な目だったが、その目には光が宿ってて、白髪が混じりの黒い髪。阿貴よりも三つ四つ上だと思う。

普通の生きた人間に見えたが、セーターに滲んだ血が否定する。血が、赤黒い大きなシミとなって目の前にいる男の受けた仕打ちを物語っている。大小様々な刺し傷もほんのり見える。

「それ、痛そうだね。」

不思議と漏れた言葉だった。「あ」と気づいて慌てて口を塞いだ。

「いやいいよ。実際に痛かったし、10回は刺された。普通の包丁で、こう。」

男は右手でグサリグサリと刺された時の真似をした。

「で、あんた誰?私に何の用?」

「僕は貴真。生きていたら来年で30になる。君に話しかけたのは、協力してもらいたい事があるからだ。」

「協力?」

「そうだ。儀式を止めるんだ。」

「儀式?なんの?」

「死者蘇生の儀式だ。」

その瞬間、阿貴は大笑いした。男の、貴真の声のトーンは真面目であったがなんとまあ馬鹿馬鹿しい。そんな物語じみたものはあり得ない。

「なにそれ、ありえないでしょそんな事。」

「本当さ。その証拠に霊感がない君は僕らが見えている。儀式の影響で見えるようになっているんだ。今は君だけかもしれないけど...」

霊感がないのは本当だった。中学生時代、蒸し暑い夜、友人と近くの心霊スポットに行った時も霊感のある友人はやけに嫌な雰囲気で寒気がすると言っていたが、阿貴は何も感じなかった。

「それはそうだけど...それでもありえないでしょ。死んじゃった人を生き返らせるなんて...それに生き返らせてどうすんの?」

「大切な人とまた一緒に過ごすためだよ。でもそんな事しちゃいけない。

「どうして?会えるならいいじゃない。」

「そんな事しちゃ駄目だ。このままじゃあの世とこの世の区別がつかなくなってしまう。」

「区別がつかなくなったらどうなるの?」

「死者が生者に干渉する。死んだ人達は生前できなかった事を成し遂げようとする。その中には、殺人だってあるかもしれない。さっきの人だって、君を殺そうとしていたかもしれない。」

阿貴はそう言われて身震いした。殺される、そう思うとあの時逃げ切れて良かったと思った。

「そうなる前に儀式を止めないと。」

「でもどうやって?それに誰がその儀式をやっているの?」

「分からない。儀式の止め方も、誰が犯人なのかも。でも止める為には君の力が必要なんだ。」

「どうして?」

「儀式が不完全だったから、僕は霊体のまま。こうやって手を置いても透ける。僕だけじゃ止められない。」

貴真は汚れた空き家の塀に手をかざす。するとスゥーッとその手は塀を貫いた。

「でもなんで私なのよ。」

「君、大切な人がいないんだろ?」

なんでそれを知っているの。

胸を刺されたような気がした。

幽霊だからか。いやそれでも。

「儀式を続ければ大切な人に会えるかもしれない。でも止めれば、会えなくなる。もし会う事ができるなら、誰だって会いたいだろ。例えその方法が町を滅ぼす事になっても。でも、君なら。」

そんな人がいない君なら止められる。

自分の影が闇と少しずつ一体化している。阿貴の背後にある夕日は少しづつ地平線に沈んでいく。カーカーとカラスの鳴き声が聞こえる。ただ一人の女子高校生が、誰もいない道路を見つめている。


「...分かったわよ。そんなに言うなら協力してあげる。」

彼女が吐き捨てると、貴真の顔が少し明るくなった。

「本当?嬉しいよ。ありがとう、阿貴。」

貴真は右手を阿貴の前に差し出した。触る事は出来ないのに。それに気がつくと貴真は右手を引っ込めた。

「この空き家で会おう。僕の名前を呼んでくれればいい。後、この事は誰にも言わないで。絶対に。誰にも。」



家に帰って来た時には6時をまわっていた。祖母からは心配され、何処に行っていたのと心配されたが、友達の家に行っていたと嘘をついた。

すぐに自室に戻って今日起きた事を整理しようとした。

貴真の話、死者の蘇り、儀式。

普通じゃありえない。マンガやゲームでしか見ないような話だ。

外はもう真っ暗だった。ふと外灯の下を見ると小さな影がモゾモゾと蠢いている。猫かと思ったが、よく見れば人の形をしていた。赤子だった。と、そこへ一人の女性が歩いてくる。母親だ。その赤子には気づいていないみたいだ。赤子の手を伸ばした腕を踏みつける。それだけじゃない。反対側からは頭部が欠けた女の子が歩いてくる。

すぐに目を逸らしてカーテンを閉める。

「何あれ何あれ....」

立ちくらみがした。

「あんなのが町にいんの?」

ガチャリ、と玄関扉が開く音、母親が何事もなく「ただいま」と言ったことから阿貴は現実へと引き戻される。ドアの横に置いてある鏡に写っていた自分の顔は、青白かった。まるで、死人のようだった。とてもじゃないが人に見せられない。

学校にもたくさん霊がいた。授業中にグラウンドをみれば、黒い影が何十体と目に映り、こちらを見上げている気がした。他にも廊下には後ろ足がない猫の霊がいたし、3階のトイレには、古い制服を着た黒い髪の女の子がいた。たぶん、昔ここで死んだ生徒。

何より怖かったのは下校時に校門から大通りまで列を成していた軍服を着た人達だ。帽子の影が落ちて胡乱な顔をしている。でも、その行進の列は異様なほど揃っていて不気味に感じた。陽は少し右に傾いていたが、まだ明るいのにそこだけ暗く見えた。

急ぎ足で昨日の空き家へ向かう。

「貴真、いる?」

空き家に向かって囁くように呼びかける。すると玄関ドアからスッと貴真が現れる。服装は変わっていない、昨日のままだ。

「阿貴、来たか。まだ昼の1時だぞ。」

「今週は学校が早く終わるのよ。それよりもあんなのが町をうろついてるの?」

彼女はその幽霊に昨日別れた後から今ここで会うまでに見たもの全て話した。話し終えると彼は大きなため息をついて「だいぶ進んでいるな」と呟いた。

「何をすればいいの?誰が犯人なのかも分からないし、儀式の止め方だって何をどうすればいいか...」

「うーん、そうだなぁ...昨日君と別れてからずっと考えていたんだが地道に情報収集していくしかなさそうだ。市民図書館にも侵入してみたんだが、特にそれらしいものはなかったよ。背表紙だけで判断したけど。あぁ、でも一冊だけ気になったのがあった。」

「どんな本?」

阿貴が貴真に尋ねるとその本の詳細を教えてくれた。

結構古そうな本で厚さは国語辞典ぐらい。背表紙の文字が掠れて読めなかったのだと。

「郷土」の書庫にある本棚の一番端っこに置かれていたらしい。誰もその本を手に取らなかったのか、塵が積もっていた。

「確かにちょっと気になるかも。」

「行ってみるか?」

「うん」

彼誰地区と隣の地区の境目、時鳴市の中心部、駅の方面は大型スーパーや飲食店などが軒を並べこの町で一番栄えている場所にある。白いペンキが塗られた市民図書館はそんな中心部から僅かながら離れた場所に位置する。ここから距離が少しだけ離れているから荷物をおかずにそのまま行くことに決めた。

市民図書館の人はまばらで子供よりも老人の方が多い。天井に届く程の高さのある本棚が無数にあり、その横には鉄製の脚立が一つの本棚に二つ置かれている。

「こっちだ。」

貴真に連れられて阿貴は件の本が納められている本棚へ案内される。人が少ないから自分の足音がよく聞こえる。

子供向けの絵本や図鑑、海外文学の棚、言語学を通り過ぎる。その本棚は一番奥にあった。

「郷土」に分類されていて、町の歴史や地理に関する本が少ないながらも並べてあった。

「これだ」

貴真はしゃがんで指をさす。

背表紙は予想していた以上にボロボロで色褪せていた。表紙は色褪せているだけで文字が掠れていた。随分と昔に作られた本である事が分かった。

かろうじて題名だけは読める。『虚空写本』と。胡散臭い厨二っぽい名前だと思った。

目次を開くとこう書かれている。


『遣いによって知識は移動する。求める者の前にこの本は姿を現す。』


中はシミが良く目立つ、古本特有の独特のあの匂いが鼻を突く。

「...何これ。赤い月?ニイドラル?五賢者??」

そこに書かれている内容は到底理解し難いものだった。最初は理解しようと読み進めてみたが、途中でやめた。さっぱり分からない。途中からはただパラパラとめくるだけだった。

「待て、阿貴。ここ。」

不意に貴真が口を出す。阿貴はそこでページをめくるのを止めた。

「なに?」

「ここ、切り取られてる。」

10ページ程、乱雑に切られている。

「ホントだ。なんで?」

「そのページに書かれている情報が欲しかったんだろうな。」

裏表紙の貸出表を反射的に見る。何も書かれていない。誰も借りていないのだ。

「何が書かれていたんだろう。」

またパラパラと後ろからめくっていく。太陽の遣いの呼び出し方法、月の召喚、イグレグの宝具。だがどれも死者蘇生の儀式に関係するものではなさそうだった。

「これと言ったものはないかなぁ。ページが切り取られてる所があるし。他にはなんかなかったの?」

「いいやなかった。」

パタン、と本を閉じて元の場所へ戻す。

「図書館になかったらあとはどこへ行けば...」

「おや、こんな所にしかも若い人がいるなんて珍しいですなぁ。」

一人の老人が話しかけてきた。優しい表情を阿貴向けていて、まるで地蔵のようだった。

「あぁ、私は丸山輝明と言う者です。彼誰地区の自治会長をやってるもんですわ。」

前にテレビで見た人物だ。

「ええっと、宮園阿貴です...」

「阿貴さんですか。いいお名前だ。この郷土史に興味がおありですか?」

「は、はい。自分が生まれ育った場所なので...」

きっと引き攣った顔をしているだろう。夏じゃないのに汗が噴き出る。しかし目の前の男は微笑みを絶やさない。涼しそうに優しい笑顔を此方に向けている。

「若い方がこの町に興味を示している事は良い事です。この町も過疎化の影響を受けて若い方が少ない。」

「そ、そうなんですね...」

「もし、もっと知りたいのであれば、公民館に行かれるといいでしょう。図書館にはない本もありますからね。」

「何かあるかもしれない」と貴真が耳打ちしてくる。

「そうなんですか!ありがとうございます!行ってみます!」

そんなわけで阿貴は床に置いていた制かばんを持ち、丸山を置いて公民館へと向かった。公民館は駅から離れた彼誰地区の北側、小学校の近くにある。昔は友達とよく行ったものだ。

館内には小学生が何人か、本を読んだり宿題などをしていた。窓辺にある遊び場からは楽しそうな笑い声が聞こえてくる。

 公民館の図書室は図書館よりは狭く蔵書量も少ない。郷土史の本は図書館とは違い棚3列分ある。確かに丸山の言う通り、この町の事を事細かく調べるのなら此処は持って来いの場所だ。

阿貴は手前から、貴真は奥から、二人は手分けして役に立ちそうな本を探した。生まれる前の、昔の町の地理、歴史、児童向けの絵本、御伽噺。当然、見つからなかった。何もない。資料室の外から聞こえる子供の声はやがて聞こえなくなり、館内は閑散としていった。5時になろうとしている。

「もう今日は打ち切ろう。続きはまた明日にしよう。」

公民館を出た時、貴真が言った。阿貴はコクリ、とうなづく。空にはまだ少し夕焼けのオレンジ色が少し残っていたが月がひきつれる紺色の空が侵食していった。

5時半に阿貴は帰宅した。その瞬間に、疲れがどっと体の上にのしかかり今日と言う日が終わるのを実感した。

「ただいまー」と阿貴は気力のない声で発し祖母は「おかえり」といつもと変わらない声色で返す。水筒を置いてさっさと2階の自室に戻る。ベットに仰向けに倒れ大きなため息をついた。今日はテストの時より頭を動かした気がする。たぶん気のせいだと思うけど。

ベットとは反対側の壁にかけられたカレンダーを見る。もうすぐ「迎霊祭」の日だ。空き家から図書館に向かう時、図書館から自治会館に向かう時。時間が経つにつれて自分の目には多くの霊が映った。五体満足でただ首に縄の跡が残っただけの人もいたし綺麗なままの幽霊だっていた。生きている人と何ら変わらない。もしかすると生きている人だと思っていた人が本当は死人だったかもしれない。あの元気に走りまわっていた男の子だって、此方に背を向けていた同年代に見える女の人だって。


ふと思った。貴真にとって大切なものは何だろうか。逆に貴真は誰か大切にされている人がいるのだろうか。完成された儀式が出来れば自分はこの世に生き返る事ができる。でもそれに反対して儀式を止めようとしている。正義感が強い、と言えばそれで全て解決できるが、でもそれ以外に何かがある。

やがて外から漏れ出る光は完全になくなった。もうすぐ11月。秋が終わりつつある。冬が刻一刻と忍び足で近づいて来る。祖母は今年も干し柿を作るのだろうか、そう思った。


「迎霊祭」3日前。学校が終わると今日も二人は死者の蘇り儀式に関する情報を手に入れるために昨日調べきれなかった公民館に足を運んだ。その間にも幽霊は見た。動物の霊を中心に猫や犬、ネズミを至る所で見た。猫の霊が一番多かった気がする。

まだ14時過ぎだったからであろうか子供の姿は見えず、館内にいたのは老人だけだった。昨日と同じように手分けしてそれらしい本を探す。すると貴真が此方にやって来た。

「どうかした?」

「あれ、見てみなよ」

指さした方向には扉があった。その横には「関係者以外立ち入り禁止」と書かれてある。

「あそこがどうかしたの?」

「あそこも何かありそうじゃないか?」

「本気で言ってる?無断で入っちゃダメでしょ...」

「僕が最初に入る。そこで何もなければそれで終わりさ。でももし今回の事件を解決する何かがあるなら絶対手に入れないと。」

貴真は阿貴の静止も聞かず扉をすり抜け中に入った。資料室には彼女ただ一人。ポツンと何もせず立ち尽くす。数分して扉が開き昨日あった丸山が出て来た。

「おや、あなたは昨日の...」

「こんにちは」

「こんにちは。探しているものは見つかりましたか?」

「えぇまぁ....でももう少し調べてみます。」

「そうですか。頑張ってください。私は今から彼誰神社の方へ行く所です。3日後の「迎霊祭」の打ち合わせに神主さんと話し合いに。それではごゆっくりと。」

丸山は一礼するとその場を去った。それと同時に貴真が出てきた。阿貴以外に誰もいない事を確認すると、手招きして入ってこい、と合図する。

「駄目だって。本人はいないけど誰か入って来たらどうすんの。」

「大丈夫。手掛かりを見つけたんだ。」

阿貴は少し躊躇った。しかしこの中にそんな危険な事をしでかしても得られるものがあるならば?自分が悪い事を知っているのは百も承知で彼女は入る。音を立てずに扉を開け、ゆっくりと閉める。

部屋の中はきちんと整理整頓がされていて、すっきりとしていた。カーテンは閉められていて、窓辺には二つ三つ小さなトロフィーがホコリを被ったまま置かれている。何故、掃除しないのだろうか。左側の壁にはロッカーがある。

机の上はそんな部屋とは違ってだいぶ散らかっていた。まるで何かを隠している、そんな感じが見て取れた。

机の上を物色しているとあるものに目がついた。左上をクリップで留められ他の資料よりも汚れていて文字も小さい。それだけ悪目立ちしている。阿貴はそれに見覚えがあった。

「これ、あの図書館で見た...でもなんでこんな所に?」

あの可笑しな『虚空写本』とよく似ている。ページが破られた跡が残り、シミも目立つ。あの古本の匂いも少しだけする。

それらのページには呪文らしきものと何かの儀式のやり方が書かれている。必要な道具、時間帯、生贄。儀式のカウンターとしての太陽の遣いの呼び出し方。


『ニーグテールの召喚方法

....夜に行うべし。肉体的、精神的に追い詰めた生きたものを用意し次の呪文を唱える事。


『其は偉大なる月の賢者。旧き土より這い出でて汝は赤き座に至らん。アドゥラ・トレヴィエラ・ニーグテール!来たれ!屍の女よ!我は願い奉る!』


ニーグテールの召喚は他の賢者よりも難易度が高く加減を間違えると他の神が呼び出される可能性がある。充分に注意されたし。』


「ねぇ、これ」

阿貴はその切り取られたページを貴真に見せようと振り向いた。

「ここ、死者を甦らせるって...あれ?貴真?」

「阿貴、誰か来る。此処に隠れて。」

扉をすり抜け貴真が阿貴にロッカーに隠れるよう促す。大きな音を出さないようにゆっくり開けるが立て付けが悪く手こずった。中に何もなかったのが幸いだった。

少しだけ外が見える。ガチャリと扉が開く。老人が二人入ってきた。いや、一人は幽霊だ。ひどく痩せこけて青白い顔をしている。こっちに来るなと祈る。今の気分はかくれんぼのそれと少し似ている。

「丸山さんはもう行ったんか。相談したい事があるんだけどなぁ。仕方ないか...また後でこよう...。しっかし、丸山さんはなんでこの部屋を使っているんだろうかねぇ。自治会館にも部屋はある筈なんだが一週間も前から使ってるんだよなぁ。」

その老人はそう呟くとその部屋から立ち去った。その幽霊もその人物の後ろをついて行く。

「もう出てきていいぞ。」

貴真の声が聞こえる。ロッカーの扉を開ける。

「丸山さん、此処使ってたんだ。」

「そうみたいだな。で、何か見つけたか?」

「そうだ見て。死者を甦らせる方法がある。きっとコレが関係してるんだよ。」

「決まりだな。犯人は丸山さんだ。」

「え?」

「だってそうだろう。此処を使ってたのは丸山さんだったんだ。」

「いやいやいや、そんなわけないでしょ。此処を使ってただけじゃない。」

「でも一週間前から使ってたんだ。今回の事件と丁度重なる。」

「でも...」

その時、阿貴の頭の中に一つの映像が流れる。


『どんな人にだって大切な人は必ず存在します。私は、5年前に亡くなった妻とまた何気ない会話、変わる事のない町の景色を共に見て過ごしたいのです。』


あの時、テレビで流れていた丸山のインタビュー映像。あの時も笑顔だった。もし、あの笑顔がコレから起きる出来事に対しての笑顔だったら。きっと丸山にも幽霊が見えている筈。だとしたら貴真も見えている筈だ。それを踏まえてのあの涼しそうな顔だ。図書館だって、さっきだって。ポーカーフェイスというやつだろうか。それを思うと身震いする。

「いや、まさかそんな....」

「丸山さんは何処へ?」

「確か、神社に行くって...そういえば。」

あの時みた夢を思い出す。廃れた神社の境内、大きくて幹の太い御神木。地面に敷かれた魔法陣。

「廃神社...」

「廃神社?確かにそこなんだな?」

「たぶん、彼誰神社はまだ廃神社になってないからそこだと思う。」

「廃神社なら聞いた事がある。小学校の裏山にある神社がそうだ。」

「行こう。止めに行かないと。」

扉を乱暴に開ける。後ろからガシャンと扉が音を立てて閉じる。図書室の扉で男の子とぶつかりそうになった。

館内の人々は入った当初よりも少し多くなっていた。子供の姿も目立つ。

公民館を出てすぐ、阿貴は声を掛けられた。

「なぁ...アンタ、鳥澤阿貴、か...?」

くたびれたシャツを着て、手には黒い革製のカバンを持っている。髭は中途半端に伸び、髪には所々白髪が目立つ。

「いや、わかるぞ...その目、アイツにそっくりだ...」

日焼けしたゴツゴツしている右手を阿貴に伸ばす。彼女は反射的に後ろへ下がる。

「ど、どちら様ですか...?」

「オイオイ、忘れちまったのか....俺だよ...」

「阿貴、逃げろ。」

貴真が半歩前へ出る。その声は聞いた事のない程冷たく鋭い。しかしその声は男には届いていないようだ。

「何で、アンタがここにいるんだ。どうして居場所が分かったんだ...」

「また一緒に、一緒に同じ屋根の下で暮らそう。な、な?」

男は一歩前へ出る。貴真の体をスッとすり抜けて。

「阿貴ちゃん!」

その時、背後から声がした。振り返るとそこには私智がいた。私智は阿貴とその男の間に立つ。

「彼女達には二度と関わらない、アンタは10年前そう言った筈だ。」

「お、お前には関係ないだろう!家族の問題に他人が入ってくるんじゃねぇ!」

男が声を荒らげる。怒鳴る。唾が飛び散る

「いいや、関係あるね。彼に代わり俺が守る、約束したんだ。あの場に俺はいたからね。それに、彼女はアンタの事を覚えていない。」

「なに...?」

呆気を取られる顔を見せる。

「いや、そんなはずは、そんなはずは....なぁ阿貴!覚えてくれているよな...⁈俺の事...なぁ、阿貴!」

彼女に問いかける。一生懸命に目を向けて、救いを求める様に。

「し、知りません...私智さん、この人、誰ですか...?」

「嘘だ...嘘だ嘘だ嘘だ!」

その言葉を聞いて、男の心は完全に砕けた。致命的だったようだ。激昂し殴りかかろうとしたがすんでの所で受け流す。

「テメェ!阿貴に何をした!俺の事を覚えていないなんて!ありえないだろ!」

「何をって、約束を守っているだけだよ。」

私智は男に耳打ちをした。ヒソヒソと聞こえないように言ったと思うが、阿貴には聞こえた。

「これ以上関わるな。アンタが10年前に彼にした事をしてやってもいいんだぞ。」

いつもの優しい彼からはおよそ彼からは想像出来ないほどにひどく冷たかった。

男は慌てて逃げ出した。その背中は情けなく見える。

阿貴は呆然としていた。頭の中を直接掻き回されたそんな気がした。

「私智さん...」

不意に声をかける。

「どうして、君が此処にいるんだ。」

「え」

「何故、此処にいるんだ。___貴真。」

「は___?」

小さな声を漏らす。

「私智さん、見えてるの?」

「...見えてるさ。」

その声はどこか悲哀と憐れみが混じっていた。

「もう、隠しきれないだろ。私智。」

「そうみたいだな...貴真。阿貴ちゃん。」

私智が振り向く。どこか決心をつけたようなそんな顔をしている。

「阿貴ちゃん、これから君に真実を話そうと思う。君には辛いかもしれないけれど、それでもいいかい?」

「...」

いつになく真剣な表情で、無機質な声を発する。なんとも言えない空気がこの場を支配する。周りの音が聞こえない。

「...話して下さい。私智さん。あの男も、貴真も私智さんも、一体誰なのか。」

彼女の目はどこか遠くを見据えていた。その目には驚異の感情を映し出している

「分かった...僕から話すよ...」





時は遡り、10年少し前の事になる。

鳥澤広貴は、絵に描いたようなクズ男だった。

結婚前に事業に失敗し多額の借金を背負った。しかし何をするでもなく、遅くに起きてすぐに酒を飲む。自分の思い通りにならなければすぐに手を出す。「俺に逆らうのか」と、己の母親であれ子供であれ関係なかった。借金は広貴の妻が働いて返した。

知性も意思もその体には宿っておらず、宿っているのは欲望だけだった。ずっとずっと空より高い場所にある歓楽と享楽を手を伸ばさずに得ようとしていた。

厳格な義父が亡くなってずっとこの調子で、義母は自分が甘やかし続けたせいだと妻に謝り続けた。

何処よりも明るくあらねばならない場所はジメジメとして陰鬱な路地裏よりも酷かった。

貴真が暴力を受けるのは決まって自分の母親と祖母を庇う時だった。

絆創膏が取れる事はなかったしアザだって消えなかった。でも泣くことはなかった。自分は男だ。泣いてはいけない。自分が家族を守らなければ。小さい頃見た、怪人を倒す正義のヒーローのように。

それに妹がいた。まだ小さく、3歳だった。貴真は妹の事が好きだった。命に変えてでも守りたかった。

そして、ある夜の事。

学校の課題が終わって今日はもう寝ようと1階へ降りて習慣となっている一杯の水を飲む為に自室を出た。怪物のような父親のイビキが家中に響き渡る。階段手前の部屋から光が少し漏れ出ている。確かあそこは祖母の部屋だ。こんな時間まで起きているとは珍しい。足音を鳴らさないように扉に近づく聞き耳を立てる。

「...本当に...そう言ったのかい...?」

小さな物悲しい祖母の声が聞こえる。

「...離婚しましょう、そう言ったのです。そしたらあの人、貴真の親権だけ寄越せって、そしたら離婚してやるって...もう耐えられません...でも、貴真を見捨てる事なんて....」

母親の痛々しい叫びに似た涙声が聞こえる。

「私には、出来ない。このまま死ぬまであの人の奴隷なんだわ...私たち...」

鼻をすする音、嗚咽。

「母さん」

気付けば貴真は扉を開けていた。二人の母は目を見開く。窓際のベットには、阿貴が眠っている。

「貴真...今の会話...」

母の顔はやつれている。髪に艶はなく、両目も真っ黒とぽっかり穴が空いているように見えた。そして次の瞬間、枷が外れたように動き、貴真を抱きしめる。この年になってまで抱きしめられるのは少し恥ずかしい。

「守るから...お母さんが、阿貴も、貴真も...」

まるで、救いを求めているように縋り付く。

「いいよ、母さん。」

「貴真...?」

「僕、この家に残る。」

口を開け、母親は息子の顔を見る。

「ダメ、ダメよ。貴真、そんな...貴方を...」

「いいんだよ。おばあちゃんと、一緒に逃げて。」

「嫌よ。貴方を置いてなんていけない。」

「母さん、知ってる?」

貴真は静かに言った。

「阿貴がまだ小さい頃、あの人は阿貴を打とうとしたんだよ。まだ、小さいのに。僕は残るよ。そうしたら阿貴も母さんもおばあちゃんだって助かるんだ。」

「でも...」

「僕は男だ。やると決めたんだ。だから。」


 暖かい風が吹く5月、鳥澤広貴とその妻は離婚した。冷たい家から、祖母と母と母の腕の中で未だに眠る妹が出ていった。貴真はその背中を見ているだけで何故安堵出来た。しかし妹にもう会えなくなると思うと少し寂しくなった。いや、でも。

「そうだ、これで良かったんだ。これで。」

一人を犠牲に三人を助けられる。なんて素晴らしいのだろう。


暗い家には父と息子だけ。物も少なくなって空き部屋がいくつか出来た。何だか広く感じる。

父親から受ける暴力は離婚後、増えた。当たり前だ。標的は、一人だけなのだから。

大学も父が寝ている隙を見て外へ出た。父親の分も稼ぐ為、バイトの量も増やした。朝早くに出て、家に帰ってくるのは空が明るくなりつつある早朝4時。

電気をつけても、家の空気はどんよりとしている。テーブルにはビールの空き缶が何個も置いてある。


「貴真?」

母と再会した時、ちょうど大学からバイト先へ向かう途中だった。髪には艶が少しずつ戻ってきており、少し元気になったように見える。心の底から、あぁ、良かったと感じた。

母親からは最近調子はどうか、ご飯はちゃんと食べているか、と聞かれ、大丈夫と返した。

「阿貴は?元気?」

「えぇ、あの子はおままごとよりも外で遊ぶ方が好きみたい。昨日は泥だらけになって帰って来たわ。」

「そっか」

公園のベンチでたわいもない話を繰り広げる。

「貴真」

「何?母さん。」

「辛くなったら、すぐさまあの家から出るのよ。これは、今住んでいる住所、ここに逃げて来なさい。あの人に知られないように。」

母親はメモ帳から紙を乱雑に切ってペンで走る様に書き、貴真に渡した。住んでいる町こそ同じだが、住所は駅よりも北側の地域、「迎霊祭」という祭が有名な彼誰地区。

「うん...」

その日を境に母親とはそれ以降会う事はなくなった。そして父親から受ける暴行はさらに酷くなった。ネロやイヴァン4世のような歴史上に名を残す数々の暴君以上に酷い。あの時の密会がバレていたのか、と思った。

体は四六時中苦痛を上げている。絆創膏は特に傷が酷いところにしか使わなかった。

「なぁ、貴真。大丈夫か?」

講義が終わって友人の私智が話しかけてくる。

「怪我も酷くなって来てるぜ。おばさんも、辛くなったら逃げて来いって言っているだろ?警察はどうだったんだ?」

「昔、両親が離婚する前に一回来たけど、有耶無耶に終わったよ。」

「今なら、警察も力になれるんじゃないか?」

「でも。」

「でもじゃない。このままじゃ、死ぬぞ。」

私智にそう言われた時、自分には死の感覚がなかった。

「死ぬ、か...」

「そうだ。君にはまだ先があるのに、阿貴ちゃんに会えなくなってもいいのか?」

「それは...」

ふっと、阿貴の顔が浮かぶ。記憶にある妹の顔は明るく輝いていた。

「なぁ、私智。」

「なんだ?」

「約束してくれ。僕に何があっても、母さんと阿貴を守ってくれ。」

「貴真...」

「頼む。約束してくれ。」

頼み込む。人に何かを頼み込むのは、何十回とやったが何故がこの時だけは恐怖を感じなかった。

「...いいよ。だけど無茶な事はするなよ。せめて人の道からズレる事はするな。」

釘刺されるものの、渋々了承してくれた。安心する。

「オイオイ、泣くなよ。」




そしてあの日がやって来た。

凍えるように寒い1月の大雨の日。

「クソッ!どいつもこいつも馬鹿にしやがって!」

まだ中身のある缶を床に投げ捨てる。またか、と呆れる。

「なんだぁ?その目は...お前も、俺を馬鹿にするのか...?」

父親は貴真の顔を覗き込むように見つめ、そして次の瞬間、貴真は床に倒れこんだ。右頬に痛みが走る。間髪を入れず、父親は馬乗りになる。酒臭いキツい口臭に襲われる。

地面を這いつくばる芋虫のような、体験のした事のない程の恐ろしい暴行を受けたあと、すでに父親はもうそこにいなかった。鬱憤を晴らせたのかソファで眠っている。

洗面台の鏡を見ると右目の目尻から頬にかけて大きなアザがあり、口からは血が流れた後がうっすら残っている。

服は汗で濡れていた。

そこで悟った。あぁ、もうあの人はイカれているんだと。ずっと前から狂っていたのは知っていたけれど、もう不治の領域に辿り着いてしまった。


「辛くなったら、すぐさまあの家を出て」


母の言葉を思い出す。

「もう、限界だ。」

このままでは、自分は壊れるだろう。逃げよう。遂に決心出来た。

服はそのままで靴を履く時間さえ惜しかった。ソファで我が物顔で眠っている父を起こさぬように玄関扉を開く。雨はより強くなっていた。土砂降りに近い。

視界も悪く、くつ下だったので足裏を小さな石が刺激する。服が雨水を吸い重くなっていく。

ボンヤリと光る街灯と雨に負けじと自分を見ろと言わんばかりに輝く鮮やかなネオンライトが見えた時、安心できたのか、段々と走るペースは落ちた。赤信号だったから足を止める。

大通りだからか、もう夜の12時なのに、それなりに人はいた。

横断歩道を挟んで向かい側もこちら側の人も皆、異様な目で貴真を見る。こんな夜更けにどうしたのだろうか。何故傘を持っていないのか、何故くつ下なんだろうか。傘を差し出すべきか。いや、それでは自分は濡れてしまう。そこまでする必要はない。だって他人なんだから。

信号が青になり「カッコーカッコー」と若干雨の音に押され気味だったが鳴った。不気味に感じた。

人々はまるでロボットのようにその音が耳に入った途端動き出した。そんな人々に一歩遅れて貴真も足を動かし始める。

横断歩道の真ん中辺りまで来た時、突然左肩を乱暴に掴まれ勢いのまま後ろを振り返させられた。その瞬間、腹部が熱くなった。

「気付かれていないとでも思ったか...」

その男の右手にはしっかりと家の切れ味がそれ程良くない包丁が握られている。自分と同じくびしょ濡れだった。勢いのまま包丁を体から引き抜く。貴真の体は電池が切れたおもちゃのようにその場に仰向けになって倒れる。視界に映っているのは血眼で彼を見る父親と鈍色の雲と打ち付ける雨。

「舐めやがって...!アイツも、お前も!死ね死ね、殺してやる...」

何度も突き刺して、大量の血がアスファルトに流れ出る。

至る所から悲鳴が聞こえ「おい、何やってるんだ!」と父親の背後からサラリーマン姿の男が現れ羽交締めした。「放せ!」と喚いている。

「誰か!警察だ、警察を呼べ!」

「救急車!救急車!早くしねぇとこの子が死ぬぞ!」

死ぬぞ、私智と言った事とピッタリ重なる。

あぁ、そうか。死ぬのか。これで終わるのか。

あまりに死の実感が湧かなかった。

しかし、これで終わると思うとなんだか心が晴れた。

「オイ、しっかりしろ!大丈夫か!」

「死ぬな、死ぬんじゃねぇよ!」

金髪の派手な格好をした自分と同じ歳ぐらいの男が心臓マッサージをしてくれている。

サイレンの音が遠くから聞こえたその時、貴真は瞼を閉じた。


「これが、事の真相だよ。」

貴真はふぅーと一息つく。

「そんな...」

「君の父親、鳥澤広貴は刑務所行きさ。今年が出所の年だった。」

父親がいた事は知っている。しかし顔も名前も何が好きで何が嫌いかどんな人なのか、知らない。離婚した、母はそれだけ教えてくれた。でもなんで離婚したかは分からなかった。人を殺したなんて実の娘には言えないだろう。でも兄がいた事は知らない。記憶にない。

「じゃあなんで私は貴真の事を覚えていないの...?」

「君から貴真に関する全ての記憶を消したからさ。」

「消した...?なんで...」

「覚えていないだろうけどある日、君は母親にこう尋ねたそうだ。「お兄ちゃんは?」ってね。真里さんは自分が貴真に逃げろと言ってしまったから死んでしまったのだと自分を責めた。そして、君が兄は何処だと尋ねた瞬間、自責の念がコップから溢れ出た水のように流れ出た。兄の記憶を消せば、苦しまなくて済む。だから消した。」

全く身に覚えがない。聞いた事さえも消してしまったのだろう。

「でも、どうやって?」

「俺の知り合いにそういう事ができる奴がいる。信じられないだろうけど。初めはそうだった。本当に消せるのか。そして、消せたんだ。」

私智の話は死者が蘇るというもの以上に信じられない。でも記憶が消えているそれをこの身で体験しているのだから本当なんだろう。なら次に浮かぶのは、この男は一体何者だ。

「私智さんって何をやってる人なんですか...」

と、聞いてみるもただの会社員だよ、とはぐらかされる。笑顔だが、あの丸山と同じ何か裏がある。

「ただ、貴真から君を守ってくれと頼まれたからね。約束は守るよ。...で君達二人は何やってるんだい?」

「実は...」

阿貴が答える前に貴真が手短に簡潔に説明する。分かりやすい。

「なるほどね。死者の蘇りの儀式、か。」

「そう。犯人が分かって今から止めにいくんだ。行こう。阿貴。」

「...儀式を阻止したら、貴真とはもう会えないんだよね...?」

「そうだよ。初めて会った時にも言ったように儀式を止めれば会えなくなる。」

「そんなの嫌だ。貴真と離れたくない。」

「阿貴、どうして、今まであんなに頑張ったのに。」

「だって貴真は、私の。」

お兄さんなんでしょ。

それは変える事のない事実で、どんなものよりも残酷で。

「...阿貴ちゃん...」

「阿貴。」

貴真が阿貴に一歩一歩近づく。

「阿貴、僕はもう死んでるんだ。死んだ人間に固執するのは良くない事だよ。なくなったものに固執するなんて、次の一歩に踏み出せない。」

「...」

「それにこのまま丸山さんが間違ったまま儀式をし続ければこの町が大変な事になるんだ。」

「...」

「頼むから、足を動かしてくれ。一歩だけでいいから。」

沈黙が続く。言葉を一つも発する事ができない空気が広がる。

阿貴は顔を俯けたままで、貴真の顔も私智の顔も見ない。



そして、しばらくして、阿貴は足を動かした。

「阿貴...」

「行こう、貴真。」

貴真の目に映った妹の顔は何処か決意に満ち溢れた顔をしていて、今まで見たどんな顔よりも大人びて綺麗だった。

「じゃあね、私智さん。」

私智に別れを告げると、阿貴は足早に立ち去り、貴真も最後、親友の顔を見つめ、阿貴を追いかけた。





まだ昼間だと言うのに裏山の溢れんばかりの木々が太陽の光を遮りって暗かった。

「こっちだ。」

いつの間にか自分の前にいた貴真は道なき道を進んでいる。近道なのだろうが、自分の膝上まである草が生い茂っている。

その廃神社は夢で見たあの神社と少しも変わらなかった。幹の太い大きな御神木、本殿はカビが生え、忘れられて何十年も放置されて朽ちていくその時を待っている。

丸山は境内の丁度真ん中、御神木の前に立っていた。その足元には魔法陣のようなものがある。丸山を挟んでその向こうには膝くらいの高さの木で出来た台が置かれ、その上には猫の死骸がある。

「丸山さん。」

阿貴が呼びかけると丸山はゆっくりと二人の方を振り向いた。

「あぁ、貴方...いえ、貴方たちでしたか。」

丸山は変わらず笑顔だった。口も目元も動かさず、余計に気味悪く思える。やはり、彼には貴真が見えているらしい。

「図書館でお会いした時から、薄々気付いていたんですよ。あの本を動かした形跡がありましたからね。ですが一足遅かったようだ。」

手を大きく開き、天を仰ぐ。その空の上には何もない

「私は、今度こそこの儀式を完成させる。」

「貴方の儀式は間違ってる。このままじゃ、町が大変な事になるんだぞ。」

「別に構わない。アイツを___妻を生き返らせる事が出来るなら、この町だって犠牲にできる。」

狂ってる、阿貴は一瞬にして感じた。

「五年間、妻を生き返らせる方法をずっと探してきた。無駄だと分かっても、藁にもすがる思いで探し続けた!そして、見つけた。屍を司る月の賢者の力を使えば、妻を生き返らせることができる。そして、思いついた。ならば、この町の全ての死者を蘇らせよう、と。彼岸の先にいる大切な人に会える、嬉しいはずだ、喜ぶ筈だと。」

聞き手は二人だけ、それは半ば自分に酔っているような、演説じみている。それはこの二人なら理解してくれているだろうという揺るがない自信があるから来ている。

「ふざけた事言わないで。」

「は?

「死んだ人を生き返らせるとか、頭おかしいんじゃない?」

「な、何を...」

「大切な人の死を受け入れて、人は前に進める。私はそう思ってる。」

「何がわかる!アンタみたいな、子供に!」

「わかるわけないでしょ。アンタみたいな年寄りの考えなんて。」

阿貴はそう切り捨てるように言葉を吐く。丸山の顔から笑顔が初めて消え、怒りに支配されている

そして阿貴達に背を向け、こう叫んだ。


「其は偉大なる月の賢者。旧き土より這い出でて汝は赤き座に至らん。アドゥラ・トレヴィエラ・ニーグテール!来たれ!屍の女よ!我は願い奉る!」


丸山の足元から風が吹き、ザワザワと木々が騒ぎ、枯れかけの葉やまだ緑色を残す葉も砂嵐と共に吹き荒れる。空は次第に暗くなる。魔法陣がジンワリと光り、輝きを増す。

ただ、それだけだった。特に何も起きなかった。

想像していた儀式、あの時見た夢のように何処かおどろおどろしい感じもなく、拍子抜けしてしまった。

「何も起きてないけど....」

「失敗した...まただ...また失敗した...絹江、絹江...私はお前に会いたいだけなのに...」

膝から崩れ落ち、蚊の鳴くような声で丸山が呟く。

「こうなったら...!」

よろめきながら彼は立ち上がると、ポケットから何かを取り出した。そして阿貴の方へ振り向く。その手には赤く濡れた刃渡り30cm程の刃物が握られている。

「今!ここで!アンタを殺して!もう一度!今度こそ!私は!」

「やめろ、彼女に手を出すな!」

貴真が二人の間に立つ。

「不完全な蘇りなら君は私には触れられない。それに今ここで彼女は死んだって、儀式に成功すればまた蘇る。そうだ、君だって彼女とまた一緒に生きる事だってできるんだ。何も失う事はない。」

冷たい声だが、何処か感情を抑えきれない興奮が入り混じっている。

目はかっと見開いて血走っている。

「あぁ、人間なら成功できるかもしれない...今まで猫や兎だったからな...」

今の丸山には理性がないと、直感で感じた。


「誰だ....さっきから、私に話しかけているのは誰だ...」

丸山が、辺りを見渡す。さっきから?今この場にいるのは阿貴、貴真、丸山の3人だけ。他に人はいない。誰か隠れているのか?不完全に蘇った霊がいるのだろうか?しかしその気配もない。

「アンタは誰だ...一体、....何だと?儀式のやり方を間違えている....?まさかそんな筈は....私はやり方をちゃんと見たぞ!生きたものを賢者に捧げ、そして呪文を唱える。そうすればニーグテールが召喚され死者が生き返る、と!」

大声で叫び始める。阿貴も貴真も喋りかけてはいない。空虚な場所でただ一人叫んでいる。

「違う...?ニーグテールの供物はそんなものじゃない...⁈そんな馬鹿な!いや...アンタは一体...」

そこまで言うと丸山の声は次第に小さくなる。そして声を震わせこう言った。

「太陽の遣い...⁈」


そう呟いた瞬間、丸山は二人に向かって半ば発狂して叫んだ。特に、阿貴に向けて。

「何故だ!どうやって...?!一体、どうやって遣いを呼んだんだ?!アンタみたいなただの学生が呼べるモンじゃない...」

「遣い?何言ってんの?私はそんなの知らないわよ。」

阿貴はそう言ったが、丸山は間髪入れずに否定する。

「嘘をつくな!なぁ、何を捧げた?いつ呼んだ?教えてくれ、そうすればニーグテールも私に応じてくれる...!私の願いを叶えてくれるに違いない...!」

カランと乾いた音を出して、力いっぱい握られたナイフが地に落ちる。しかしそんな事も気に留める事もなく、彼はフラフラと此方に向かって歩き始める。口は引き攣っていて目元も申し訳程度に細めている。かつてみんなに見せていた笑顔をなんとか取り戻しているように見えるが今まで見たどんな笑顔よりも恐ろしい。何より目の焦点が合っていない。

するとその時。


「もう一度、さっきの呪文を唱えてみろ。」

ハッキリと聞こえたその声は、まるで、空の上から呼びかけられている、そんな気がした。阿貴は反射的に貴真を見たが彼は首を横に振った。当然だが彼ではない。しかし、その声には聞き覚えがある。つい最近、何処かで。

「もう一度....?もう一度唱えれば、奴は召喚出来るのか?絹江は戻ってくるのか...?」

丸山の問いかけに返事は返ってこなかった。その沈黙を肯定として受け止めた丸山はすぐさま魔法陣の中央に戻りボソボソと呟いた。

さっきと同じく、風がゴォゴォと唸り声を上げる。さっきと違うところと言えばその風は10月終わりの少し冷たい風とは違い生暖かく、それに肌にまとわりつく様な気持ち悪さを感じた。

明らかに違う。異様な気配が辺りに充満している。

阿貴と貴真はその場を支配している名状しがたい雰囲気に身動きを封じられ、動けなかった。いや、正確に言うともし指一本、くしゃみの一つでもしたら、意識が、存在そのものが消える、そんな気がしてままならなかった。

台の向こう、御神木の手前の空間がグニャリ、と歪んだ。かと思えば真っ二つになって扉のように開かれる。その向こうには何もない。深い海の底、宇宙の上のように深淵がずっと続いている。

「絹江...絹江....」

突如として丸山が一歩一歩、その空間に向かって歩き出す。

「...会いたかった...やっと...やっと...」

そこには誰もいない。おそらく、彼だけには見えているんだろう。彼の妻、丸山絹江が。

「あぁあぁ、一緒にいこう。また二人であの変わる事のない日常を...」

「ちょっ...」

阿貴は彼を止めようとしたが、貴真に手で制された。。放っておけとでも言うのだろうか。

そして、彼はその空間に吸い込まれ、真っ暗闇に消えていった。それと同時に空間の歪みは消えて、重々しい空気はまるで春先の温かな心地よい風に変わりそれが吹き込んでくる。その風が、中央の魔法陣も砂のように宙を舞って消した。

「...終わったの...?」

呆気なかった。終わった、という実感が湧かなかった。

「ねぇ、貴真。」

彼女は目の前にいる彼に呼びかける。そして気づいた。

「あ」

足元から彼は消えていっている。周りの景色に溶け込んでいっている。黒幕も消えて、儀式も終わった。きっと、この事件で不完全に蘇った人々を可視化出来るように繋ぎ止めていたのはあの魔法陣だったかもしれない。

「お別れだ。」

消えかけているというのに、当の本人は至極冷静だった。気付いているのだろうか。

「これで何もかも終わったよ。」

「...嫌だ...行かないで...」

「泣くなよ。阿貴。今まで一度も泣いた事ないのに。いや、昔一度あったな...確か....」

「ちょっと、言わないでよ。ってかなんで知ってんのよ。」

涙を拭う。二人は互いに見つめ合って初めて笑った。

「それじゃあ、さようならだ。阿貴。」

「...うん。バイバイ、兄さん。」


言葉を言い終えた時、目の前には誰もいなかった。廃れた神社にはただ一人だけ、鳥居があったであろう場所にポツンと立っていた。





三日経った。「迎霊祭」の日、彼誰地区の人々は皆一様に見えない何かに話しかけたり、遊んだり、一人分多く食器を机に並べたりしている。だけど、そこには死んだ大切な人がいて、人々はただその人が生きていた時と同じように過ごしているだけだった。

阿貴は、家から少し歩いた所にある河川敷を歩いていた。歩くたびに小石が鳴る。時間は11時を少し過ぎたあたり。

「ヤッホー、阿貴!」

前から同級生の思聞がやって来る。

「阿貴がこんなところにいるなんて珍しいね。何してんの?」

「ただの散歩だよ。そっちこそ、何やってんの?」

「昔、よくここにおじいちゃんと来ていたの。おじいちゃんに水切りの上手くできるやり方を教えてもらったんだ。ホラ、見てて!」

彼女は平たい石を見つけると、なるべく腕を水平に降り体を捻り手を広げる。その勢いを利用して石を投げる。タンタンタンとリズミカルに石は水面を跳ね、後少しで向こう岸に着く、という所で沈んだ。

「あちゃー、昔は向こうに行ってたんだけどなぁ....」

「すご、アンタ、こんな特技あったの?」

「えへへ...阿貴もやる?」

阿貴は誘いに応じた。まさか、この歳になってやるなんて微塵も思いもしなかったが。

水切りは昔、少しだけやった事がある。けれど全く飛ばなかった。2回跳ねればよく出来た方だった。

30分ほどすると、水切りをやめ、思聞とは別れた。阿貴が歩いて来た方向へ向かう友人の背中を見送る。誰かと喋っていて、楽しそうだ。

「うん...そうだね。」

12時には帰って来るように言われていた。母が言うには私智は仕事の関係でこの町を明日離れるらしい。お見送り会、という事でご馳走を作るそうだ。

母や祖母には貴真の事を話していないのだと、母のために、秘密にしよう。彼と約束したのだった。

「行こう。兄さん。」

いないはずの存在に話しかける。

しかし、それも不思議な事じゃない。この日だけは、非日常でさえもこの町では当たり前の日常に変化するのだ。

自然と足が動くスピードが早まる。

図書館の隅に追いやられた一冊の本が、なくなっている事も知らずに。


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