目覚め
今日も目覚めると頭痛がした。
すぐに動けない。
目を開けなければと思うのに、まぶたが重い。
そのまぶたの裏側にぼんやりと少女の姿が浮かび上がった。
輪郭がぼやけているが、髪の長いほっそりとした少女だ。誰だろう、ひどく所在なさげな雰囲気だ。
どうしてそんなに心配そうに私を見下ろしているのだろう。
目が開いた。
私は天蓋付きのふかふかのベッドに寝ていた。ああそうだ、ここは次期聖女アメリアの寝室だ。
長年、私がふせっていた病床。
生まれながらに病弱だった私は、最近ようやく少し丈夫になり、次代の聖女になるための準備を始めた。
婚約者の王子と共に、気分転換の静養を兼ねて、外国で歌のレッスンを受けるため、お忍び旅行に出た。その先で不慮の事故に遭い、頭を強打したせいで、記憶を失ってしまったそうだ。
そう聞いたときは本当に混乱した。
最初にここで目を覚ましたとき、まるで何も覚えていなかった。
見知らぬ場所に見知らぬ人々、自分が誰かさえ分からなかった。
私の実の母だという聖女クラジーナ様が、ベッドの傍らにずっと付き添って、祈りの歌を歌ってくださったお陰で、昏睡状態からの危機は脱した。
しかし記憶喪失になっていて、その記憶はいまだ戻らない。
「焦らなくていいのよ、何もかもゆっくりで。生きていてくれるだけで、本当に嬉しいのよ」と優しい母は言った。
涙ぐむ母の言葉はありがたかったが、母娘だという実感がない。
記憶を失っている私には、初対面の人同然だ。
私が意識を取り戻したという連絡を受け、慌てて駆けつけた婚約者は、最低な男だった。
ボシナル聖導王国の王子、フィリッピュス・ファン・デールセン。
明るいブロンドヘアに翡翠色の瞳、高身長で鍛えられた体格の、美丈夫だ。
美しい彼が息を切らせて駆け付け、私のフィアンセだと名乗ったときには、驚いた。
母と主治医が居合わせたその場では紳士的だった彼が、二人きりになった途端に態度を豹変させたときにはもっと驚いた。
「上手くやったな」と彼は悪党さながらの悪い笑みを見せた。
「本当に気絶して意識が戻らなくなるとは、焦ったぞ。死んでしまうかと心配したぞ。だがそのお陰で、皆すっかり信じ込んでいるな。お前の記憶喪失を」
何を言われているのか理解が追いつかず、ただ言えることは、本当に記憶が無いのだという事実だった。
「からかってるのか」と王子は怒った。
「徹底するのは良いが、今はやめろ。ちゃんと話したい」
「何を仰っているのか、理解できません。本当に分からないんです。殿下とのことも、申し訳ございませんが、何も覚えていないんです。徐々に、きちんと思い出していきたいと思っています」
婚約者の王子様相手に失礼なことを言っているのは承知の上だが、誠意をもって真剣に伝えた。
「嘘ではありません」
王子は拍子抜けしたような顔をして、それから私をまじまじと見つめた。
「本当にか? フリではなく、本当に記憶喪失なのか?」
「はい」
王子は面白いものを見たように、声を立てて笑った。
「ははっ、そうか、本当に記憶がないのか。それはお気の毒だ、優しくしよう」
そう言って王子はにんまり笑い、私の片手を取って、手の甲にそっと口づけた。
「愛してるよ、アメリア。無理しなくていい、ゆっくり休め。もしも記憶が戻ったら、いの一番に私に教えておくれ。いいね、私は君の一番の味方なのだからね」
王子はその後も毎日、日に一度は訪ねて来た。
主治医の説明を聞き、私と少しだけ話して帰る。
初対面の印象が最悪だったため、好きになれないままだ。
王子が、私が記憶喪失のフリをしていると誤解したのには、理由があった。
私は聖女修行が、特に歌のレッスンが大嫌いで、普段から逃げ癖があったらしい。
だから今回の事故を利用して、記憶喪失になったフリをして、お稽古ごとから逃れようとしたのではないかと疑われたようだ。
しかし主治医や母親からも話を聞き、信用してくれた今は、気遣った言葉をかけてくれる。
だけど、やはり好きになれない。
あの日最初に見せた腹黒そうな笑みや、乱暴な言葉遣い。あれが素のフィリップ王子だと思うからだ。
あれから色々と話を聞いて分かったことは、そもそも王子と私は、愛し合って婚約した恋人同士ではないということだ。
この国では、代々国王は聖女と結婚することが決まっている。その掟にのっとって、次期聖女の私と次期国王の王子は、生まれながらに婚約している。
しかし私はずっと病に伏せがちだったため、王子と初めて顔を合わせたのはニ年前だそうだ。
そのときはどういう印象を持ったのか、その後二人の間でどんなやり取りが交わされたのか、全く思い出せない。
だけどきっと王子のことを好きではなかった気がする。
もしも大好きな相手なら、例え記憶を失ったとしても、また一から恋に落ちるはずだ――なんて、少しロマンティックに考えすぎだろうか。
恋という響きに憧れる。だけど自分には無縁な、憧れてはいけないものだという恐れも感じる。
そう、見た目の良い異性はどこか怖い。近づくと怪我をする、ろくな目に遭わないという気がするのだ。それもあって、フィリップ王子のことが苦手なのだろうか。
半年後に結婚式を控えているというのに、これではいけない。
王子との結婚はすでに決定事項で、宿命づけられていて、逃げることはできないのだから。
少しでもあの王子を好きにならなくては。