結界
「とは言ってもね……」
しかし対策が思いついたからと言って、それを直ぐに作れるという訳ではない。
可能性のある理論を発案したとしても、それを発動させる魔法陣を作れる筈がないのだ。また新たに魔法陣を考えなければならず、それにも時間は掛かる。
「やっぱり属性魔法じゃ無理かな…………」
紬は、出来るだけ常時発動する魔法は属性魔法にしたいと考えていた。
その理由は明確で、精神魔法の場合は単純に魔法陣が複雑化してしまうからだ。属性魔法ばらば複雑さは規模と種類に比例する。しかし精神魔法は常時魔力を動かし続け、さらに魔力の消費も物によっては恐ろしく速いため、節約のためにさらなる魔法を仕込む必要がある。
それにより精神魔法は、一般的に属性魔法より何倍も巨大な魔法陣を使い大規模な効果を発動させることが多く、儀式魔法として扱われることの方が多い程だった。
とは言え魔力を移動させるという特定の動作を何度も繰り返すという作業は属性魔法には向いていない。どちらにせよ結局は魔法陣がある程度大規模になることは避けられない事実である。
「……はぁ、諦めるしかないかぁ」
そう言った途端、紬の両手が青く輝き始める。
そして、彼女は立ち上がったまま両手を前へと伸ばす。次の瞬間には腕全体に言葉では表せないほど複雑な模様が浮かび上がり、幻想的な風景が創り出されていた。
その模様は常に変化を続け、模様が模様を生み出すように魔法陣は続いて行く。
遂には全身までその模様は達し、呪いのように紬を侵食する。
先ほどまで血のようであった瞳は神聖さすら感じる青色へと変わり、魔王ではなく女神かと見間違えてしまう美しさである。
「…………ぅ、あ」
しかし、そう簡単に事は進まない。
弱った身体を酷使して無理やり使う魔法だ。何事も無く魔法は完成する訳がない。
先程までとは比べ物にならない想像を絶する不快感が紬を襲い、魔法の中断を余儀なくされてしまう。
「…………ふゥ……失敗」
彼女は呆れたように首を前に傾けて、頭を力なく落ちていた右手で支えた。
ハンモックに力なく腰を落とし、頭を抱える。
このまま魔法陣の展開を続けていれば、紬の望む“永久機関”が出来上がっていただろう。無事に結界の効果を防ぎ、問題なく活動出来るようになっていた筈だ。
しかし船内で試みることは余りにも無茶が過ぎる。
ただでさえ能力が制限されているにも関わらず無理に発動しようとすれば、自身の体にも害が及ぶ可能性もあるのだ。もし少しでもその可能性があるのなら、数週間耐えてでも安全に対策を施せばいいだろう。
ただし、紬にそのレベルの精神力はない。
元は普通の一般人だったのだ。それに延々と耐え続けることが出来る忍耐力を持っている方が可笑しいだろう。
しかし、どちらにせよ魔法は発動させなければならない。
自身の体に異変が起きようとも、いずれは精神的に狂ってしまうことが紬には手に取るようにわかっていた。
「……もう一回だけ、やってみようかな」
彼女は立ち上がり、またしても手に魔力を集め始める。
それは先ほどと同じように青く光り輝き、複雑な模様が紬の体中に浮かぶ。
「く、ぁ……」
途中までは安定していた魔法であったが、まるで器から水が溢れ出したかのように急激に安定性が損なわれて行く。彼女は二度目となる絶大な不快感を感じ、制御を手放してしまった。
「……ッ! まずい……!」
魔力は暴走を始め支配者である筈の紬にすら牙をむく。
基本的に、魔法は魔力の配給を止めたら直ぐに崩壊し、魔法陣としての形を保てなくなる。それによって魔法の効果も消滅し、ただ霧散した魔力だけがその場に残るのだ。
しかし今回紬が作成しようとした魔法は、周囲の魔力を吸収し、さらにそれを使って魔法の効果を延長させるという疑似的な永久機関である。
勿論完全なる永久機関とまでは届かないものの、数日に一度魔力を補給するだけで済む。それほどの物が、ただ管理を手放しただけで大人しく力を収める訳がない。
「はぁッ……!!」
紬は魔法を形成している魔法陣の中心を破壊すべく、意識を体内へと集中させた。
人間で言う心臓付近にある魔法陣に向けて、また新たな魔法を発動せさせる。
しかし魔法とは言え、固体化魔力を作るだけの簡単なものだ。
これが今の紬に出来る最大の魔法であり、これ以上となるとさらに状況が悪化する可能性がある。そのため魔力の塊を作り、魔法陣を適当に繋ぎ合わせることで魔法陣としての効果を失わせることにしたのだ。
そして、それをした途端に周辺に先ほどまでとは比べ物にならないほど濃い魔力が漂う。
「まずい……!」
紬は漂う魔力を一点へと集中させた。
魔力はその圧力に耐えきれず、輝く結晶へと変化する。
「これは…………結界を一回止めるしかないか」
何度も同じ事を繰り返しても、また同じような結末を迎えるだけだろう。
結局は一時的に結界を無効化する以外に方法は無い。もし魔物に襲われ船が沈んでしまうとしても、紬はやらなければならないと考え、部屋の鍵を開けた。
廊下は数十分前に通った時と大差なく、木の板で出来た床と壁が数十メートル先まで続いているだけだ。人気はなく、天井から足音が響いているだけの静かな廊下である。
彼女は足音を立てないように、しかし最大限急いで先ほど発見した魔道具のある部屋へと向かう。
部屋の前に着くと、紬は閉められている扉のドアノブに手を掛けた。
しかし、当たり前と言うべきか鍵がかかっており、扉が開かれることは無かった。
「……どうしようかな……」
紬はそう言うと、鍵穴のある場所を顎に当てていた手で覆う。
すると手とドアの間から、青白い魔力の光が溢れ出した。
「……知らないけど、一応ね」
こっそりとその言葉を呟くと、魔力をドアノブに注ぎ始める。
その魔力は鍵穴の中で固まり、固体化魔力が作られた。紬はその形を辿り、その鍵の構造を把握する。
鍵は、所謂ウォード錠という物になっており、紬は全く知らなかった。
「あれ? これって……」
しかし、全く知らなくとも理解することは彼女でも出来る。
構造は単純であり、鍵に関しての知識がほぼ無い紬ですら、簡単に理解できた。
彼女はそれが分かった途端に、魔法で合鍵を作り始める。
作り慣れた固体化魔力を使った簡単なものだ。しかし驚くほど精密であり、耐久性も高い。これ以上に最適な素材はないだろう。
紬はその鍵を鍵穴に刺し、慎重に右へと回す。
するとその鍵は抵抗を感じることなく半回転し、同時に錆びた金属のようなものが動く音が扉の内側から聞こえた。
「やった……!」
彼女がゆっくりとドアノブを押すと、木の軋む音と共に扉が開く。
部屋の中は底目で広くなく、特に目新しさも感じない普通の船室だ。
しかし部屋の中は異様に漂っている魔力が少なく、不快感とはまた違った気怠さのようなものあを紬は感じていた。
「へぇ、これが……」
しかし、一つだけ明らかに異様なものがある。
部屋の中央には一メートルほどの高さがある太い棒のようなものが置かれており、物体の周りには、魔力で作られた円が大量に浮いていた。
紬はそれに近づくと、その物体に手を翳した。
「この仕組みなら……ここにちょっと魔力を与えれば、壊れずに止まるよね?」
紬の掌からは魔力が飛び出し、その物体に纏わり付いた。
「ッ!? 結界が……途切れた……?」
「どうかされました?」
「あ、いえ、別に何も」
彼女は、まるで何事も無かったかのように、窓の外の広大な海に視線を戻す。
しかし気が落ち着かないのか、立ち上がり廊下に繋がっている扉に向かった。
「あれ? フィーラさん、どこかに行くのですか?」
「ええ、少し結界が気になって」
「そうですか……では私はここで待っていますね」
彼女は鍵を開け、廊下に出る。
そして船の最後尾にある部屋に向かい、歩いて行った。