プロローグ
ある鬱蒼とした森に、この森には明らかに不相応の一人の少女が横たわっていた。
少女の肌は病的に青白く、なんとなく不健康そうな雰囲気が漂っている。
(私は……死んだの?……いや手の感触もある。………大丈夫。生きてる。)
少女は恐る恐る目を開けると、強い光がいきなり目に入り込んだからか、反射的に目を閉じようとする。しかし、それを理性で抑え込み、今度はしっかりと目を開いた。
そして周りを見渡し心底困惑した様子で呟く。
「…………こ、こは?私はなんで……」
状況を理解しておらず何もかもが分からない状態であったが、次第に呼吸も落ち着き先ほどまでに起こった出来事を思い出す。
「教室で本を読んでて……ここに飛ばさせられたんだっけ」
少女は全て思い出したと言わんばかりに頷いた。
◇◇◇
少女――深上紬はいつもと変わらず、ガヤガヤと騒がしい教室で一人本を読んでいた。何を想ったのか、その日は「霊魂学の全て」と書かれた、胡散臭く、驚くほどに分厚い本だった。
彼女は煩わしそうにほんの少し顔をしかめると、直ぐに元の表情へと戻り、また視線を下に戻す。この本はタイトルと外見からの印象に見合わず、意外にも読みやすく作られていたらしい。
そして彼女が次のページに手を掛けた時、室内は急激に光に埋め尽くされる。
床を埋め尽くすように広がったその光の元凶は、一瞬にして混乱に陥った彼らなど置き去りに、新たな模様を継ぎ足しながら、部屋の隅々に至るまで広がった。
しかし、彼女はそれの名前を瞬時に理解した。
「……魔法陣……!!」
知識の出所は今も尚手に握っている分厚い本。
彼女は藁にもすがるような思いで本を読み漁り、魔法陣に関する記述を目で追って確かめていく。
そうしている間にも幾何学模様はゆっくりと回転しながら発光を強めていく。教室はパニック状態に陥り、さっきとは比べ物にならない怒号が響き渡った。
一部の者たちは教室から脱出しようと試みたようだが、透明な壁のようなものに覆われているようでドアにすら到達できていない。
「……あった!」
『魔法陣は触れることが出来、またその発動を中止させることができる』
彼女はそれを見るや否や座っていた椅子を持ち上げ、そして魔法陣の一角へと叩き付けた。
そして直後、魔法陣が直視できないほどに発光したかと思えば、紬は意識を失い――
――目を覚ませば、いつの間にかこの場所に飛ばされていた。
「………ぇ」
紬は暫く呆然とし、気の抜けた声を出す。
「ふぅ……先ずは落ち着かないと」
何度か深呼吸をし、何とか落ち着きを取り戻した。
辺りを見渡した後、自身が服を着ていないことに気付き、適当な葉を探しそれを着る。そして今起きたことを頭の中で整理し始める。
「私は多分瞬間移動みたいなものでここに来た……?」
自分でも何を言っているのかと思いながらも、そう考察する。景色が一瞬にして変わり、次に目を開けた時には全く別の場所に居たのだ。転移という選択肢以外存在しないと言っても過言ではないだろう。
「けどもっと重要なのは……」
どこに飛んだかが重要、そう頭で考える。紬はある程度の転生系物語の知識はある。あくまでも創作であるため完全に同じだとは言えないが、少しは頼りになるだろう。
しかし、もしも猛獣が闊歩しているような場所に転移していれば、紬の命は風前の灯火だ。紬はそう考えた途端怖くなり、急いで近くの木に登る。そして、それにより安心したのか今度は目を瞑り、さらに集中しながら思案する。
紬は転移してこの場所に来た、それ故にここが何処だか分かっていない。そういったために、闇雲に動くのは危険であると言えた。
「……水の音が聞こえてるし、暫くここで暮らせるかも」
加えて、人が生きるために必要な最低の条件が揃っている可能性がある。
近くに川などがあれば飲み水には困らない。さらにここは森なため、動物程度ならば居るだろう。つまり生活することも不可能ではないのだ。
そして長考し、結果紬は最初に寝床を作ることにした。ある程度安全に休める場所がなければ探索すら難しい。なので、拠点となる寝床から作ることにしたのだ。
紬は先ず辺りに垂れているツタを集め、そしてそれを太い枝の間に橋を架けるように結ぶ。そしてそれを何回も繰り返し土台を作った。この上に葉っぱを大量に敷くことで簡易的なベッドが完成する。
そうして葉を敷き詰め終わるときには、日は傾き木々の間からは光が差し込み始め、そろそろ辺りも暗闇に包まれる時間帯になっていた。
「はぁ、結構時間かかったなぁ。……これからどうしようか」
蔦を集めるついでに拾った木の実を頬張りながら、紬はこれからのことについて考えていた。
しばらくは家に戻ることが最優先。しかしここの場所も、今の状況も、どうして自分がこの体に成ったのかも、何もかもが分からない。そんな状況に彼女が追い詰められたことなど、今までの人生である筈がない。
考える程に沸き上がる不安を振り払うように、彼女は首を振った。
座っている、作ったばかりの粗末なベッドをみた。昔、多少木工の経験があったため、道具がないにしては悪くない出来と言えるだろう。
きっとここに寝転がって、襲い来る睡魔に身を委ねてしまえば、頭に渦巻いている余計な不安も多少は薄まる。
そう信じて、紬は深い眠りに着いた。
「……おやすみなさい」
◇◇◇
「……おはよう」
日の昇っておらず、森はまだ薄暗い。そんな中、彼女は重い体に鞭を打ち、ゆっくりと起き上がった。した。
睡眠の力とは恐ろしいもので、昨夜の混沌とした脳内はそのなりを潜め、驚くほど冷静に考えられている。その反面、体の疲れはあまり取れていないようだったが。
その後は直ぐに川に向かった。川の大きさ等を確かめる為である。途中で、食料となりそうな果実を拾い、更に川の音の鳴る方向へ向かう。
歩くこと数分、あまり大きくは無いが、小さくもない。その程度の大きさの川が顔を出した。この大きさなら簡単に水が枯れる心配もない。加えて、川の底が見える程に透明度が高い。これなら飲み水として使うことも不可能ではないだろう。
そして色々と考えている時、偶然にも流れる川に写り込んだ金髪が目に入った。
咄嗟に周りを見渡しても誰も居ない。いるはずがない。
恐る恐るその川へと近づき、鏡面のように輝く水面を覗き込んだ。
「……ぇ、うそ」
しかしそこには慣れ親しんだ景色はなく、その代わりに金髪に茶色の目の、妙に整っている作り物めいた西洋風の顔が写っている。
波打つ水面に写し出されたそれは妙に不気味で、しかし間違いなく自分であることに、彼女は身の毛もよだつ思いがした。
「これが、こんなのが……私?」
紬は脳内で、ある可能性に行き着く。自身がこの場所に来たのではなく、ここに来るときに身体が作り替わったのではないかと。
その可能性に行き着いてしまったことに紬は大いに絶望した。もし日本に帰れたとしても親や親戚に自分だと分かって貰えないのでは無いかと。
この上転移、加えて転生等と言う、到底理解不能な超常現象が現実に存在していたのだ。そもそもの話ここが地球かどうかも怪しい状態だったが、さらに壊滅的な状況に陥ったのに、絶望しないほうが難しいだろう。
「……」
紬は何も考えず、その日は前日作ったベッドに籠っていた。
◇◇◇
常癒の大森林という場所がある。
この場所は現在の混沌の時代には似つかわしくない、動物のみが存在する森である。さらにこの森林はシグーダ山脈という天然の要塞が聳えている為、大森林の海岸沿いには、ロア・リドという大国が現存していた。
加えてロア・リドは気候にも恵まれており、農業も盛んに行われていた。
そして国土には幾つもの都市や集落も築き上げられている。
その集落の内の一つ、トリス村は人口120人程度のの小さな農村だ。
「行ってくる。夕方には戻ってくるよ」
「はぁ、本当なんでしょうね?いっつもほったらかしにするんだから」
「安心しろ。今日は大丈夫だ」
「……どうだか」
ヴェルスは狩人である。その腕前はかなりのもので、トリス村一番の弓使いと言われているほどだ。毎日必ず五匹は捕まえ、近所の人などに一部分けていたりと、近所の人々にも感謝されていた。
彼は、この日も森林へと狩りに出かけていた。さらに彼は動物を狩るついでに、山菜なども取ってこようかと考えているようだ。
「……毎日飯を作ってもらってるからなぁ」
不愛想と周りから言われているヴェルスであるが、さすがに申し訳ないと思う気持ちぐらいはある。いくら嫁とは言えあまりにも失礼なのでは、とヴェルスは内心思っていた。
しかしそう思いながらも直せないからこそ、未だに不愛想と囁かれているのだが。
そうして歩くこと数時間、ヴェルスはある違和感を感じた。ある一か所の葉が、千切り取られたかのように無くなっていたのだ。断面は乾燥しておらず、ここ数日のことであると予想できる。
ヴェルスは直ぐに警戒態勢を取り、周囲を詳しく観察する。すると、人間の足跡があるのが分かった、しかも素足であるのだ。
しかし異質な部分が一つだけある。妙に小さく、まるで子供の足跡のようなものなのだ。
ただし、ヴェルスはその考えを理性で瞬時に否定する。まだ狩りにも出られない子供なんて、この場所に居るはずがないのだ。さらにここは森の中でもかなり進んだところにあるので、子供の体力では到底持たない。
そう結論づけ、新たな生物と言う可能性を視野に入れた。
その時ヴェルスは後ろ斜め上に気配を感じ、一瞬で後ろを振り返る。
「……貴方は、誰ですか?」
するとそこには、異国語と思われる言語を話す少女がいた。
◇◇◇
「貴方は、誰ですか?」
「………」
紬は目の前の、二十代後半と思われる青年に話しかける。青年はこちらの言葉を理解していない様で、さらに警戒を強めていた。
紬は逆にこの状況をチャンスと見ていた。もしここで上手く交渉することができれば、目の前の青年の家に住まわせてもらえるかもしれないのだ。今紬が作った環境は最低限でしかなく、余りにも頼りない。できれば集落などに住んだ方が圧倒的に安全だろう。
もちろん、それ相応の労働はするつもりであるし、無理だと言われたら別の方法を模索するつもりでもある。
考えが纏まったところで、木の下に降りる。流石に木の上からお願いするのは流石に失礼だろうと考えたからだ。
「お願いします。貴方の家に住まわせてください」
そもそも今の容姿は十代前半の子供である。そんな子が警戒もせず頭を下げたとしたら、話を聞くほかないだろう。さらに紬は彼を観察し、直ぐに食料を狩る、或いは警戒を目的の人間だと判断した。そのような人物がすぐさま襲って来るはずがない、と考えたのだ。
ところがやはり言葉は通じないため一筋縄ではいかない。
その後も苦戦しながらも、絵を描いたりしながら奮闘を続け、ようやく、紬の「住まわせてほしい」という願いが通じた。
そうして紬はトリス村に住まわせてもらうこととなった。
◇◇◇
それは、紬が転移した時より数か月前。
ある王国の、白亜という名が相応しい王城の最上階の一室、煌びやかな装飾が施されたその部屋の地面に、美しいとも言える円形の幾何学模様が描かれていた。
突如として、その模様が激しく光を放ったかと思うと、次の瞬間には28人の仕立ての良い服を身に纏った、黒髪の者達が現れた。
「ここは…どこだ?」
その集団のリーダーらしき人物が困惑した様子で呟く。他の者達も同じような反応をしていた。数分の間唖然としていて不安そうな顔つきだったが、しばらくして落ち着きをある程度取り戻したようだった。
その事を見計らってか、それかそのことを最初から分かっていたのか、一段上がった所にある豪華な椅子、所謂玉座というものに座っている、冠を頭にのせた壮年の男がこう言った。
「よく来た。勇ましき者、異界の勇者達よ」
と。